前世の記憶
あれは、冬の終わりの頃だったか。クロエが唐突に『前世の記憶』を思い出したのは──。
「近ごろ、南方から『コーヒー』という飲み物が貴族の間で流行っているとか。お茶よりも苦く、香りが強いらしいのですわ」
侍女にそう勧められ、興味があったクロエはそれを口にすることにしたのだ。
目新しいものにはそれなりに興味はある。しかも貴族の間で流行っているとなれば、話のタネに飲んでみるのもやぶさかではない。
銀のポットから注がれた液体は、まるでインクのように黒い。
その色にクロエは顔を顰めるが、どこか食欲をそそる香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。白磁のカップと黒色の調和も美しく、目を惹く。
(少し苦そうな香り……でも、悪くないわ)
ゆっくりと、口に含む。
その瞬間だった。
──ぐらり、と視界が傾いた。
「……え……?」
頭の奥が焼けつくように熱くなり、心臓が早鐘を打つ。
そして次の瞬間、言葉にならないほど鮮やかな映像が、一気に脳裏へとなだれ込んできた。
「ッ……!」
手からカップが滑り落ちた。
甲高い陶器の破片が床に散らばり、あたりが静まり返る。
息が、できない。
胸が締め付けられる。
あるはずのない、ここではない世界の記憶が──洪水のように、押し寄せてくる。
侍女の声が遠くから聞こえた。
「お嬢様‼ どうされましたか⁉ お嬢様っ……‼」
クロエは答えなかった。いや、答えられなかった。
──これは夢じゃない。幻でも、空想でもない。
この胸の奥に突き刺さった感覚がそれを教えていた。
(なに……これ……。『ヒロイン』? 『悪役令嬢』? え? なにそれ……?)
混乱、恐怖、そして次第に冷静になっていく意識。まるで脳が現実に追いついていくかのように、思考が整列し始める。
(前世……これは、そう、前の私の記憶だわ……)
この瞬間、クロエは理解した。
──ここは、前世でプレイした乙女ゲームの世界だと……。
*
クロエ・フォン・カレンデュラは、国で最も高貴で、最も美しいと謳われる令嬢である。
蒼玉のごとき瞳は見る者すべての心を奪い、月明かりを編んだかのような銀糸の髪がまるで月の女神のように幻想的な美しさを宿していた。
その仕草一つ、歩み一つにまで育ちの良さと品格が滲み出ており、美しいだけでは言い表せない崇高さをまとっていた。
だが、彼女の魅力はその外見だけにとどまらない。
帝国の皇女を母に持ち、名門カレンデュラ公爵家の嫡女として生を受けた高貴な存在。
宮廷でも一目置かれる存在であり、国王といえども彼女に配慮をするほどだと言われている。
領地は北方最大の肥沃な平原地帯にあり、豊かな農業と鉱山資源を抱えることで莫大な富を誇る。
美貌、家柄、財力とどれをとっても申し分のないクロエを妻にと欲する貴公子は多い。
なにより彼女は将来爵位を継ぎ、女公爵となることが決まっている。家督を継ぐことのできない次男以下の者にとって、まさに垂涎の婿入り先であった。
数多の求婚者がひしめく中、その婚約を勝ち取った幸運な男こそリンデン公爵家の次男であるレオナルドであった。見目麗しい容姿に加え、その立ち居振る舞いにも育ちの良さと高位貴族ならではの気品が滲んでいる。社交界では磨き上げられた金剛石にたとえられ、どんな貴婦人も微笑み一つで魅了するとまで言われていた。
クロエが彼を望んだと語られることが多いが、真実は異なる。
実際にこの縁談を取り決めたのは彼女の父、カレンデュラ公爵であった。
公爵がレオナルドを選んだ理由は、政治的な思惑――ただ、それだけだ。
婚約が決まった際、カレンデュラ公爵はクロエに「政略に必要な相手だ」と、ただそれだけを告げた。
娘への冷たい物言いも彼女にとってはいつものこと。
父が自分に興味を示さないのは今に始まったことではない。クロエは特に気に留めなかった。
何よりも政略結婚で決まった相手としてはレオナルドはあまりにも美しく、まるで絵物語から抜け出た王子様のようだとクロエは心から喜んだ。
レオナルドがクロエを大切にしてくれるたびに、クロエはどんどん彼のことが好きになっていった。
二人が並ぶ姿はまるで理想を形にしたようだと周囲の評判もよい。
早く彼と結婚し、夫婦となり、幸せな家庭を築きたい、と夢のような未来を思い描いていた矢先に、クロエは前世の記憶を思い出した。『コーヒー』を飲んだことがきっかけで。
「お嬢様! 大丈夫でございますか⁉ すぐにお医者様をお呼びします……!」
コーヒーを用意してくれた侍女が様子のおかしいクロエに駆け寄り、ふらつく彼女の体を支える。
侍女の手の温もりにハッと我に返ったクロエは、慌てて首を横に振った。
「大丈夫よ! 少し眩暈がしただけだから、お医者様は呼ばなくていいわ!」
「ですが、どこかお悪いかもしれませんし……」
「大丈夫、心配しないで。少し休めば平気だから……。悪いけど、後片付けをお願い」
心配する侍女を宥め、クロエは自分の部屋へと向かった。
椅子に腰を下ろし、机に肘をついて頭を抱える。行儀は悪いが、そんなことを気にする余裕はない。
「嘘でしょう……ここ、あのツッコミどころが多いゲームの世界? 私……乙女ゲームの世界に転生したの?」
顔を青ざめさせたクロエは消え入りそうな声で呟く。
誰もいない部屋にその声は吸い込まれ、静寂だけが残った。




