プロローグ
午後の陽差しが窓辺からティーサロンへと広がる。
ガラス素材のテーブルを挟み、人目を惹く美しい男女が向かい合って座っていた。
目の前には磨き抜かれた白磁のティーカップ。そこに香り高い紅茶が静かに注がれる。
「クロエ、君のために選んだ茶葉だよ。気に入ってもらえると嬉しい」
向かいに座る、リンデン公爵子息レオナルドはいつも通り穏やかな笑みを浮かべている。
端正な顔立ちに、優しく澄んだ声。彼の言葉にはどこか芝居めいたものすら感じられるが、それすら素敵だと思わせる魅力を持っていた。
そう……かつてのクロエにとっては。
「まあ、ありがとうございます。とても良い香りですわ」
貼り付けたような笑みを浮かべ、クロエはティーカップに顔を近づけた。
上質な香りが鼻をくすぐるが、彼の手によって注がれたのだと思うと頬がわずかにひきつる。
(香りに異常は無し……)
心の中でそっと呟き、彼女は静かにティーカップをソーサーに戻し、銀のスプーンを手に取る。
それは昔から受け継がれてきた一級品であり、毒を見分ける道具だ。対象に毒が含まれていれば、かすかに黒ずむ性質を持っている。
クロエはスプーンを紅茶に沈め、ゆっくりとかき回した。
かすかな水音とともにお茶の表面に小さな渦が生まれ、その中心にスプーンの影が揺れる。
彼女の瞳はその色の変化を見逃すまいと、じっと紅茶を凝視していた。
数秒の沈黙の後、スプーンを取り出す。それは変わらず麗しき光沢を放っていた。
それを確認すると、彼女はようやく紅茶を口にする。
(一度疑うと、どんなものでも美味しいとは思えなくなるのね)
クロエがここまで警戒するのは、目の前の婚約者が平気で毒を盛るような人でなしだと知っているからだ。
自分の子を産み、長年連れ添った妻に対して殺意を簡単に抱けるような男だと、前世の記憶がそれを教えてくれた。
「美味しいかい? 喜んでもらえてよかった。君の嬉しそうな顔を見ていると、こちらも嬉しくなるよ」
「……まあ。光栄ですわ」
この仮面の笑顔を見て喜ぶなんて、この男はどれだけこちらに興味がないのだと呆れてしまう。
どんなに甘い言葉を囁かれても何の実感も湧かない。だって、それが嘘だと分かるから。
ふと、彼の手がこちらへ伸びる。ティーカップの位置を直そうとしたのか、それとももっと近づこうとしたのか──
「…………ッ‼」
クロエはわずかに身を引いた。すると彼の指先が空を掠める。
その瞬間、彼の顔が強張った。
「……クロエ?」
「いえ……なんでもありません」
優雅な微笑を浮かべたまま、何事もなかったかのようにクロエは紅茶をソーサーに戻した。
傷ついた顔をする彼を見ても、何の感情も湧かない。
冷えてしまった心が再び温まることはないのだから。
何も知らないふりをして過ごすことはできる。だがもう、かつてのような気持ちを彼に抱くことはない。
この男に殺される未来を知っているのに、どうしてまた恋などできようか。
紅茶の香りがほのかに漂うサロンに静かな時計の針の音だけが響く。
クロエは椅子に腰掛けたまま、窓越しに庭園をぼんやりと見つめていた。
レオナルドの声が聞こえていても、興味が無さそうな反応を返すだけ。
「……そういえば、先日の夜会では紡績業で有名な伯爵家の令嬢が新しいドレスを披露していたのだよ。君の趣味にも合いそうだと思ったのだが」
穏やかな声音で話すレオナルドに対し、クロエは視線を動かさずにただ一言だけ返した。
「そうですか」
「ああ。深い青の生地に銀糸の刺繍が見事で……君にもあの色はよく似合うと思うよ」
「……そうかもしれませんわね」
その声には感情の起伏がほとんどなかった。
礼儀を欠いているわけではないが、温度もなければ関心もない。
まるで天気の話を聞き流すかのように淡々としている。
レオナルドの指がカップの縁をなぞる。その忙しない仕草に焦りが見えた。
笑顔の仮面は見抜けなくとも、冷めた態度くらいは分かるようだ。
「……クロエ?」
「はい?」
「……何か、気になることでも?」
クロエはその問いに初めてゆっくりと彼の方へ視線を向けた。
だがその瞳には親しみや愛情の色はなかった。まるで氷のように凍てついている。
「いえ、何も。どうぞ、お話の続きを」
そして再び窓の外へ視線を戻す。
その動きは自然だが、明らかに拒絶の意志を表していた。
部屋に沈黙が満ちる。
レオナルドはその沈黙を埋めるように別の話題を探した。
「秋には領地の方で狩猟祭があってね。もしよければ、君も──」
「ご招待、ありがとうございます。でもその頃は体調を崩しやすい季節ですから、遠出は控えようと思っていますの」
穏やかだが、明らかな拒絶。
言葉の裏には何の期待も残されていない。
レオナルドの顔がわずかに固まった。
それも見てもどうとも感じない。以前のクロエならば嬉しそうに彼の話に耳を傾けただろう。
だが彼への愛を失った今、彼の話に微塵も興味がわかない。ただそれだけだ。
「……紅茶、おかわりをいただけるかしら?」
カップにはほとんど手つかずの紅茶が残っていながら、クロエは側に控える侍女にそう声をかけた。おかわりと言いながら、暗に「新しいものと取り替えろ」という意味だと気づいたレオナルドは哀しそうな顔で俯く。
(まるで自分が被害者のような顔をするのね。滑稽だわ……。私を殺そうとしている悪魔のくせに……よくもそんな顔ができたものね)
クロエは知っている。
二十五歳の春、夫となったレオナルドが長年盛り続けた毒によって命を落とす未来を。
残された『娘』が彼に長年に渡り虐げられる未来を。
彼が自分の死後、愛人と、愛人との間に生まれた娘を屋敷に連れてくる未来を。
その娘が、クロエの娘とそう年が変わらないという事実を──。
全部、教えてくれた。クロエが思い出した記憶、ここではない世界で暮らしていた前世の記憶によって……。




