レオナルドからの贈り物
夕暮れの光が差し込むカレンデュラ家の奥まった部屋。その窓辺の椅子にクロエはひとり座っていた。
カーテンが風に揺れ、窓から差し込む黄金色の光が彼女の白磁のような肌をほのかに照らす。
手には一通の手紙。上質な紙だが封蝋も印もない。貴族が読む手紙にしては随分と粗野な作りだが、彼女はそれをむしろ愛おしげに指先で撫でた。
「……ふふ、なるほどね」
読み進めるうちにかすかな嗤い声が落ちた。まるで、役者が観客の知らぬ筋書きを楽しむように、クロエの唇の端が静かに吊り上がる。
「レオナルド様は随分と愉快なことを考えていらっしゃるのね。お目にかからぬ間に、随分と独特なお考えをお持ちになられたようで……」
クロエは手紙をそっと畳み、窓の外を見やった。かすかに灯り始めた街の明かり。その遥か向こうの路地で彼女の『協力者』が動いている。
「いい協力者を得たわ。土地ごと店を買い取った甲斐があったわね。……さて、あの愚かな婚約者様にどんな反応をしてやろうかしら」
呟きは、誰に向けたものでもなかった。だが、その声音には確かな期待と少しの毒が混じっている。
かつて抱いていた婚約者レオナルドに対する怒りも悲しみも、今のクロエの中にはもう微塵も残っていない。
しばらく会わない間に、彼にそんな気持ちを抱くこと自体無駄だと気づいたからだ。
今はむしろ、受けた屈辱を倍にして返す方法を考えることで心が高揚していた。
それからしばらくして、クロエのもとに一通の手紙が届いた。
リンデン家の封蝋が押されたそれを見てクロエは口元に笑みを浮かべる。
「早速、きたわね」
それは、婚約者――レオナルドからの手紙だった。内容は要約すると『会いたい。渡したい物がある』というもの。その文面にクロエの紅い唇がわずかに吊り上がる。まるで獲物が罠にかかったのを見届けた狩人のように。
「ふふ、いいわ。お望み通り会ってあげる。……どんなモノを渡してくれるのか、楽しみね……」
クロエは机に向かい、白紙の便箋を引き寄せる。万年筆が紙の上を走る音だけが静かな部屋に響いていた。
*
数日後、カレンデュラ家の客間にてクロエはレオナルドの来訪を待っていた。深紅の絨毯、磨き抜かれたマホガニーのテーブル、そして控えめながらも品のある調度の数々。客間としては申し分ないが、そこに流れる空気はどこか張りつめていた。
クロエは背筋を伸ばしてソファに座り、銀の茶器に手を伸ばすこともなく、ただ扉の方を見据えていた。
その時、不意にノックの音が響く。
「失礼いたします。リンデン公爵家のご令息がお越しでございます」
執事の声の後、クロエは「いいわ、入ってちょうだい」と許可を出す。するとゆっくりと扉が開き、久方ぶりのレオナルドがその姿を現す。上質な服を纏い、手には小さな包みを携えていた。彼は一歩踏み出し、クロエの前に立つ。
「クロエ、久しぶりだね。会えなくて寂しかったよ」
「ええ、夜会以来でしょうか」
クロエが皮肉交じりの言葉を放つとレオナルドは無言のまま片眉をわずかに吊り上げた。
その顔に思わず笑いが込み上げそうになるのを我慢し、彼に座るよう促す。
「それで、本日はどのようなご用向きで?」
クロエのどこか義務的な態度にレオナルドは思わず「えっ」と声を漏らしそうになった。
ついこの間まで確かに存在していた二人のあいだの親しさ。それがまるで幻であったかのように消えている。
彼女の瞳はこちらを見ているようで見ていない。言葉も、どこか他人行儀だ。確かに以前から、どこか距離を保つような品の良さはあった。だが、今日のそれは明らかに違う。壁を作っているのだ――意図的に。
(ど、どうして……)
思い返せば、手紙の返事も以前よりそっけなかった。会う約束も何度か断られた。
だが、シェリーに「気を引きたいだけ」と指摘され、それなら図に乗らせるのもどうかと思い放っておいたのだ。
しかし、それは間違いだったのではないかという考えが頭によぎるほど、今の彼女はあまりにもよそよそしい。
まるで、婚約者ではなく赤の他人に接するような義務的な態度。ここで初めてレオナルドは危機感を覚えた。
何にそんなに怒っているのか、と問い詰めたい気持ちが喉までこみ上げてくる。
けれど、それをぶつけたとしても彼女は「どうしてそう思うのです?」と逆に問い詰めてきそうで声が出なかった。
(これは……不味いんじゃないか?)
こちらに気を引きたいどころか、もう全く関心がないのではないか――そんな想像が静かに背筋を冷たく撫でるように襲ってきた。
「レオナルド様……?」
「あっ……すまない! 今日は君に……贈り物を。見つけた時、これは君に似合うと思ったんだ」
訝し気なクロエの視線にハッと我に返ったレオナルドは、おずおずと手に持つ小さな包みを差し出す。
白くて薄い紙の箱。角はわずかに潰れ、淡い水色のリボンが申し訳程度に結ばれている。
それを恭しく彼女の前に差し出した。
「まあ、これを……わたくしに」
貴族の持ち物とは思えない粗末な箱を見て、クロエのまつ毛がわずかに動く。
彼女はその箱を手に取り、そっと開いた。
中に納められていたのは、小さな真鍮製の髪飾り。花の形を模した金属細工の上には青色の粗いガラス片がはめ込まれている。光にかざせば淡く輝くが、その輝きは宝石のそれには遠く及ばない。
クロエは指先でその髪飾りをそっと持ち上げた。軽い音がして、パチン、と金具がかすかに鳴る。
(想像以上に粗末な品ね……。申し訳なさ程度にわたくしの瞳の色を模したガラスが使われてはいるけれど……)
クロエは市場の露店に行ったことがないので、前世の露店で売られていたアクセサリーのようなものを想像していた。安価ではあるものの、まあそれなりに可愛らしいのだろうなと。
だが、レオナルドから贈られたそれはクロエの想像からかなりかけ離れた品だった。色褪せて、どこかくたびれて見える。お世辞にも綺麗とは言えないそれをクロエは無言でじっと見つめていた。
(よくもまあ……こんな物を恥ずかしげもなく婚約者に渡せたものだわ)
仮にも公爵家の令息が、一目で安っぽく古いとわかるような品を贈り物として差し出すとは……。
レオナルドのその神経にクロエは呆れずにはいられなかった。
結局、彼にとってクロエは『安くて、古びたもので充分』――そういうことなのだ。
あらためて思い知らされても、もう傷つくことはなかった。「ああ、やっぱり」と、ただそれだけ。彼にとっての自分の価値を、納得する気持ちの方が勝っていた。
(まあ……どうせ、わたくしがこれを人に言いふらすような真似はしないと思ってのことでしょうけど……)
気位の高い貴族の令嬢が婚約者からこんな庶民が身に着けるような安価なアクセサリーを贈られるなどという屈辱、他人に知られること自体が耐えがたいので黙っているだろう。レオナルドはそう高を括っているはずだ。クロエはきっとこのことを誰にも言わないだろう、と。
彼も分かってはいるはずだ。こんな安物を婚約者に贈ったと世間に知られたら”恥”だということを。
この程度の審美眼しか持っていない、残念な令息なのだとして彼の社交界での評判は地に落ちる。
貴族にとって”贈り物”とは贈る相手の目利きと、贈る相手に”見合ったもの" を選ぶという意味でもあるのだから。
(……そうだわ。せっかくの贈り物だもの、使ってあげなきゃ失礼よね……)
レオナルドはこの品がクロエに似合うと思って選んでくれたのだ。
街の露店で購入した、色褪せた古い髪飾りを……公爵家の令嬢に似合うと。それがどれだけ無神経で不躾な行為か、知ったうえで贈ってくれたのだ。ならばこちらもそれに応えねば失礼だと、クロエは口元を吊り上げる。
「……ありがとうございます。レオナルド様のお気持ち、とても嬉しく思います」
含みのある言い方で、にっこりと微笑むクロエ。
どこか底知れぬ微笑みに気圧され、レオナルドはびくりと体を震わせる。
「あ、ああ……。喜んでもらえて嬉しいよ」
彼女の反応は、一応はレオナルドの想定の通りだった。
「こんなもの」と怒るか、それとも文句ひとつ言わずに受け取るか――そのどちらかだと思っていたから。
大人しく従順なクロエは、きっと後者だろうと踏んでいたのだが……何だか不思議と違和感がある。
──彼女は、こんな含みのある笑みを浮かべる女だっただろうか……。
どこか胸の奥に不安を覚えながらも贈り物を渡せたという事実に満足し、レオナルドは深く考えようとしなかった。まさか、それが自分に不幸をもたらす始まりだとは、夢にも思わずに。
数日後、とある茶会に、銀糸の髪を色褪せた安物の髪飾りで飾ったクロエが現れ、出席者たちの注目を一身に集める騒ぎとなった。
この驚くべきお茶会の話は瞬く間に社交界を駆け巡り、リンデン公爵家を窮地へと導く火種となることを、この時のレオナルドはまだ何ひとつ知る由もなかった……。




