リンデン公爵夫人の怒り
参加者たちから嫌味の応酬を受けたレオナルドは苛立ちを抱えたまま屋敷へと戻った。
そこで出迎えたのは怒りを押し殺したような母親──リンデン公爵夫人だった。
「お帰りなさい、レオナルド」
「は……母上、ただいま戻りました……」
「話があります。ついていらっしゃい」
有無を言わさぬ声にレオナルドは無言のまま頷く。そのまま母親の背に向かって歩を進めたが、放たれる痛烈な怒気に背筋を冷たい汗が伝った。聞かなくても分かる。これはかなり怒っていると。
部屋に通され、椅子に座るように促される。座った瞬間、詰める言葉が飛んできた。
「レオナルド、お前、今の社交界でどんな噂が流れているか知っている?」
母の声は氷のように冷たかったが、その瞳には怒りの炎が燃えていた。
その恐ろしさにすくみ上がり、レオナルドは「知りません……」と今にも消えそうな声を絞り出すのが精一杯だった。
「ふふ……そう、知らないのね。お前がクロエ様にドレスの一枚も贈ったことがないという噂なのだけどねぇ……」
表情を崩すことなく貼りついた笑みを浮かべながら、夫人は上品な笑い声を立てた。
「母上! それは出鱈目です! 私がそんな真似をするはずないじゃありませんか……?」
引きつった笑みを浮かべながら否定するレオナルドを夫人はじとりと睨みつけた。
まるで、真相を見透かしているかのように。
「……本当に? 夜会のドレスはいつもクロエ様が自分でご準備なさっていると聞いたのだけど……」
「そんなはずないじゃありませんか! きちんと毎回用意して贈っています!」
「ふうん……誰が?」
「え? 誰って、私に決まっているではありませんか」
「違うわよ。誰がクロエ様のもとにドレスを届けたのかと聞いているのよ。あなたが直接ドレス一式を収めた箱を持って行ったとでも言うつもり? そういうのは使用人にやらせるものよね。なら、いったい誰が毎回クロエ様の屋敷に届けているの? 使用人全員に聞いたけど、誰も覚えがないと言っているわよ?」
「え、あ……そ、それは……」
明らかに困惑する息子の様子に夫人は頭を抱えた。
「やっぱり嘘だったのね? 贈ってなんかいないじゃない! 何を考えているのよ、お前はっ……!!」
怒声をあげながら激高し、近くのテーブルを拳で叩きつけた。
響き渡る音と鬼気迫る夫人の形相にレオナルドの体は凍りつく。
「は、母上……落ち着いてください」
「これが落ち着いていられますか! わたくしはお前を婚約者にドレスも贈らない、常識知らずの愚か者に育てた覚えはなくってよ!」
「誤解です! これは、その……そう、クロエが私の贈るドレスは気に入らないと言うからです! そんなことを言われてはとても贈る気になれないでしょう?」
「嘘を重ねるんじゃないわよ! 言ったでしょう? クロエ様のもとにドレスを運んだ形跡が無かった、と。一度も贈ったことがないのに、どうしてクロエ様が『気に入らない』と言えるのよ!?」
レオナルドの拙い嘘はすぐに夫人に見抜かれてしまった。脂汗をにじませる彼に夫人はなおも詰め寄る。
「カレンデュラ家のご令嬢を軽んじるなど、どういうつもり? お前の態度がどれだけ我が家の立場を危うくしているか、分かっていないわね!?」
「いや……別に軽んじてなんか……」
「そういう台詞は最低限の礼を尽くしてから言いなさい! クロエ様との婚約が解消になったら我が家はどうなると思っているの! 今だってまだ肩身の狭い立場で、お茶会の誘いすら滅多に届かないのよ? そのせいでこうやって情報を得るのが遅くなっているの!」
ついに夫人の目から涙がこぼれ落ちた。それでも怒りは尽きず、彼女は今度はレオナルドの頬に平手打ちを食らわせた。
「それもこれも全部あの人のせいよ! あの人が側妃に鼻の下を伸ばして言いなりになったせいで、こんな仕打ちを受ける羽目になったのよ、わたくし達は!」
夫人の悔しさの滲む言葉に、レオナルドは内心「またか……」とうんざりした。数年前、跡目争いで敗れた第二王子を擁立した父のことを母は今もなお恨んでおり、こうして頻繁に呪詛の言葉を吐いている。
「社交界での立場を失い、日陰の身となった我が家が再び表舞台に立つには、カレンデュラ家との縁がどうしても必要なのです。わたくしがどれだけ方々に頭を下げてお前とクロエ様の婚約を成立させたと思っているの?」
夫人の涙ながらの言葉も、レオナルドにはどこか恩着せがましく響いた。
好きでもない相手と婚約させられ、ご機嫌取りまでしなくてはならないこちらの身にもなってほしい――そう思わずにはいられない。
(それもこれも、父上があんな阿婆擦れに誑かされたせいだ……)
数年前、第一王子と第二王子のどちらを王太子とするかを巡る争いが起こった。そのとき、レオナルドの父・リンデン公爵は国王の側妃から懇願され、劣勢に立たされていた第二王子の後ろ盾となってしまったのである。当然のことながら夫人は反対した。だが、側妃の虜となった彼はその言葉に抗えず、第二王子派として尽くした。そして案の定、争いには敗北。王太子となった第一王子の不興を買い、公爵家も社交界における立場を失ってしまったのだ。
家柄においても、本人の素養においても、第一王子の方が圧倒的に上であった。しかも彼の派閥にはカレンデュラ公爵までついていたのだ。最初から勝ち目のない争いだった。それでも、野心に燃える側妃は息子を玉座に据えるという野望を捨てきれず、色香に惑いやすそうな男を見極めては巧みに籠絡し、息子の陣営に引き入れていったのだ。
その結果、争いに敗れた側妃は王妃の命により離宮に幽閉され、以後その姿を公の場で見ることはなかった。
第二王子は国外へ婿として送り出され、彼に与した家々は社交界における立場を失い、たちまち衰退の一途をたどった。彼らはそのときになって我に返ったかのように自分たちの選択を悔やんだが、既に遅い。
夫人は側妃に傾倒し、家を傾けた夫を決して許さなかった。
当主としての肩書きだけを残し、実権のすべてを嫡男に移した上で夫を領地の片隅にある小さな家へと押し込み、監視をつけてただ形ばかりの仕事を与えている。表舞台に立つことを決して許さないし、今後も許すことはないだろう。
そうして夫人は昔の伝手を辿って、カレンデュラ公爵に息子との縁談を申し入れた。
幾度断られても諦めずに懇願を重ね、ついに息子レオナルドと公爵家の嫡女クロエとの婚約が成立したのである。
カレンデュラ家との婚約によって凋落寸前だったリンデン家はなんとか持ち直すことができた。
依然として社交界では嘲笑の的となることもあるが、レオナルドが婿入りし、跡取りが生まれさえすれば、いずれはそれも収まると見ている。
この婚約がリンデン家再興の鍵だというのは理解している。
だが、レオナルドにしてみれば好意もない相手と婚約し、しかも機嫌まで取らされるという状況にはどうしても納得がいかなかった。
「クロエ様を下に見るような真似は絶対に許しません。今からでも遅くはないわ。宝飾品のひとつでも贈って、これまでの非礼をきちんと詫びなさい」
すでに全てが遅すぎるとも知らず、夫人がそう言い放つとレオナルドは「え……」と顔を強張らせた。




