頭の悪いお貴族様
──まずいかもしれない。そう、レオナルドは今までにないほど焦りを感じていた。
婚約者のクロエとあの夜会で口論して以来、彼女はまったく顔を見せてくれなくなったのだ。
それどころか手紙の返事すら寄越してはくれない。
こんなことはこれまで一度もなかった。
それに、クロエがレオナルドに逆らうようなことを言ったことも、ただの一度もない。
そんな彼女の今までにない反応に、レオナルドはどうしていいかわからず戸惑っていた。
「どうしたの、レオ? なんだか上の空だけど……何かあった?」
きょとんとした表情で問いかけるシェリーにレオナルドは「あ、ああ……実は」と、クロエとの一件を話し始めた。最愛の彼女との逢瀬の最中だというのに、クロエのことが頭から離れない。こんなことは今まで一度もなかった――その事実にレオナルドはひどく戸惑っていた。
レオナルドの話を聞いたシェリーは「ふうん」と呟き、顎に指を当てる。
まるで、どうでもいいかのように。
「ねえレオ、それ、たぶん婚約者さんはあなたの気を引きたいだけなんじゃない?」
「気を……引きたい?」
「そうよ、きっとあなたに構ってほしくて拗ねているだけ」
「なんだそれ……まるで子供みたいじゃないか」
「甘やかされたお嬢様なんてそんなものよ! ここで構ってしまっては相手の思うツボよ。放っておいた方がいいわ」
「そうか……そうだな! ありがとう、シェリー。やはり君は最高だ……」
うっとりと互いを見つめながら、テーブルの上でそっと手を握り合う二人。
そんな様子に冷ややかな視線を送りつつ、女給仕は静かに次の料理をテーブルへと置いた。
「ああ、君。ワインをもう一本頼む」
「……かしこまりました」
女給仕──正確には、この店の店長の妻はレオナルドの注文に軽く頷き、ワインを取りに厨房へ向かった。
厨房の入り口をくぐると、彼女はワインセラーに向かう前に、まず台の上に置かれた白紙の束にさらさらとペンを走らせて何かを書き記す。
「……今日は書くことがいっぱいね」
書き終えると、それを小さく折りたたんで引き出しへとしまい込む。
そうしてようやくワインセラーへと向かい、ワインの瓶を手に取りながらそっと呟いた。
「嫌われていることに気づかないなんて、残念な頭のお貴族様ね……」
この店でも最高級のワインを持ち、彼女はワインセラーから出てレオナルド達の待つテーブルへと向かった。
*
シェリーの助言に従い、クロエに構うのをやめたレオナルド。
どうせそのうち謝ってくるだろう──そう高をくくっていたのに、どれだけ待っても彼女からの音沙汰はなかった。
(どういうことだ……。何故、連絡してこないんだ……!)
待てど暮らせど、クロエからは何の音沙汰もない。
婚約者として定例だったお茶会も食事会も、まるでなかったことのように招待の知らせすら来ない。
そんな現状に、レオナルドは流石に焦り始めた。
そして、ちょうどその頃からだ。貴族の令息たちが集うサロンで、彼は何かと皮肉交じりの言葉を向けられるようになったのは。
「レオナルド卿、最近レディ・カレンデュラとご一緒にいらっしゃるところをお見かけしませんが……まさか、ご婚約を解消なさったのでしょうか?」
ニヤニヤと笑いながら話しかけてくるのは伯爵家の次男坊。格下の身分の者からこんな不躾な言葉を投げかけられ、本来なら怒るべきところだがレオナルドはあえて愛想笑いを浮かべて流す。
「いや、彼女の体調が優れないので逢瀬を控えているだけですよ。愛しい婚約者に無理をさせたくはないでしょう?」
ここで怒れば相手の思うつぼだと、レオナルドは必死に怒りをこらえた。
ムキになればなるほど相手の言葉に真実味が出てしまい、かえって図星だと思われかねない。
「おや、そうですか? 先日夜会でお見かけしましたが、お元気そうでいらっしゃいましたよ」
「……は? 夜会で……?」
その言葉を聞いて、レオナルドは思わず息を呑んだ。
まさか、クロエは婚約者である自分を誘わずに夜会に出席したというのか──。
「ああ、その夜会でしたら私も参加しましたよ。まことに光栄の至りにて、レディ・カレンデュラのダンスのお相手を賜りました。あのひとときは、誠に夢のようでございましたよ……」
そこへ別の令息が加わり、うっとりとした表情で語り出した。レオナルドはまるで信じられないものを見るように、その言葉をじっと聞いていた。
「おや、それは羨ましい限りです。私もぜひお相手を務めたく存じておりましたが……王族の方々が次々と彼女にダンスを申し込まれておりまして、どうにも気後れしてしまいましてね」
最初に話しかけた令息が芝居がかった口調で残念そうに言った。
レオナルドは目を見開き、信じられないといった声で「王族だって……?」と小さく呟く。
だが、彼らの目は冷たく、まるで何を今さらと言いたげだった。
「レオナルド卿もご存知のように、レディ・カレンデュラは、王族の皆さまの間でもたいへんご評判が高いのですよ。美しさと気品、さらに名門のご出自──そのすべてが備わった、比類なき淑女でございますから」
皮肉交じりで令息がそう告げると、レオナルドは完全に黙ってしまった。
知っていた。クロエがどれほど美しく、気高く、由緒ある家の娘であるかも。
だが──理解してはいなかった。心の底から、それがどういうことなのかを。
「ええ、私ごときには分不相応でしょうが……もし許されるのなら彼女にドレスを贈り、夜会で共に踊る栄誉にあずかってみたかった。彼女のためならば隣国の極上の絹を取り寄せ、この国でも指折りのデザイナーに最高の一着を仕立てさせてみせるのに……」
その言葉に、レオナルドの顔がみるみる赤く染まった。
嫌味だとすぐに気づき、思わず拳を握る。
(私がクロエにドレスを贈らなかったことを言っているのか……! だが、何故それを知っている? あれを知っているのは、あの時話しかけてきた侯爵夫人だけのはず……)
困惑しているレオナルドは気づかない。周囲の令息が彼を見て冷ややかな嘲笑を浮かべていることに。
社交界において噂などあっという間に広がる。ましてや、それが影響力のある人物が流せばなおのこと。
あの侯爵夫人は社交界において多大な影響力を持つ。彼女が広めれば数日後には瞬く間に広がることは想像に難くない。だが、焦りに囚われたレオナルドはそれに気づくことすらできなかった。
そして、その噂がすでに家の者にまで届いているという事実にも──。




