目が覚めたクロエ
あの夜会の後、レオナルドがどれだけ会いたいと訴えてきてもクロエは応じなかった。
リンデン家の使者が何度手紙を届けに来ても、クロエはすべて丁重に断り、決して受け取ることはなかった。
彼が自分以外の女に愛を捧げていると知っても、せめて結婚までは形だけでも婚約者として振る舞おうと思っていた。だが――あの夜会の一件ですべてが馬鹿馬鹿しく思えてしまったのだ。
よくよく考えれば、クロエには何の非もない。
なのに、どうしてここまで見下されなければならないのか理解できない。
今までの彼のどこを見て、大切にされていると思い込んでいたのか。それが不思議でならない。レオナルドはこんなにもクロエに対して見下すような態度を平然と取り続けていたというのに……。
「ドレス一枚贈らないうえに、他者にそれを知られたら身勝手にも怒り出すような、気が利かないうえに器も小さな男のどこが好きだったのかしらね……」
あんな男を好きだった過去の自分がどうしようもなく情けなく思えた。
温室育ちのお嬢様といえど、男を見る目が無さ過ぎる。レオナルドは「ドレスくらいで……」と軽く考えているのかもしれない。けれど、それをやるとやらないでは天と地ほどの差があると、何故分からないのか。
彼はシェリーという”最愛”がいるから、クロエのことをただの”逆玉の輿の道具”と思っているのだろう。だが、生憎こちらは感情のない道具に成り下がった覚えはない。ましてや、たかが公爵家の次男坊ごときに見下される理由もない。
「――本当に、何様のつもりなの……」
冷静になって考えれば考えるほど、レオナルドの行動は理解に苦しむ。
彼には継ぐ家がないため、クロエへの婿入りの話がなくなれば貴族として生きていくことはできない。加えて、彼の家は王太子に疎まれており、カレンデュラ家との縁談こそが社交界における立場を守る唯一の望みである。
だというのに、何故こうもクロエを見下すような態度に出るのか。
こちらはレオナルドとの縁談が破談になったところで何の痛手もない。しかし、彼とその家にとってはまさに死活問題だろう。
もしクロエが彼の立場だったなら、自分の将来と家のために懸命に相手に尽くそうとしたはずだ。そうしないと貴族の身分を失い、生きていくことすらままならなくなるのだから。身の回りの一切を他人に委ねて生きてきた貴族が、平民として暮らしていけるはずがないということは考えなくても分かる。
なのに何故、彼はそうしないどころか見下すような真似をするのだろう。
そしてクロエはそんな彼をどうして理想的な婚約者だと思っていたのか。
夜会にドレスすら贈らないことを、何故不愉快に思わなかったのか……。
「もしかして、これが『強制力』というやつかしら……?」
今の今まで、あんな男に好意を持っていたことも、彼の行動に疑問を感じなかったのも、どう考えてもおかしい。
もしかすると所謂『乙女ゲームの強制力』というものが働いていたのかもしれない。ゲームの舞台の幕を上げるためにはレオナルドがクロエのもとに婿入りする必要があるから。
だとしたらゾッとする。自分の意志ではない、何らかの見えざる力が働いていたなんて気味が悪い。
前世の記憶が戻ったことで、その強制力から解き放たれたのだろうか。だとすれば助かった。あんな男に人生を壊されずに済むのだから。
*
暖かな陽光がやわらかく差し込むガラス張りのサロン。
シャンデリアの光が銀食器に反射して、空間をまるで夢のように彩っていた。
貴婦人たちの笑い声と上質な紅茶の香りが入り混じり、まさに上流社会の名にふさわしい場だ。
クロエはその中心のテーブルに優雅に腰を下ろしていた。気晴らしに参加した茶会だが、彼女の気は少しも晴れていなかった。
ローズピンクのドレスに身を包み、カップを持つ手はしなやかに、完璧な淑女の所作を演じている――少なくとも外から見れば。
けれど、彼女の内心は穏やかではなかった。
(レオナルド様からの手紙がしつこいわ……鬱陶しいこと)
あの夜会の晩を境に、レオナルドとの一切の関わりを拒んできた。どうせ解消の難しい婚約なら、いっそ結婚の日まで会わなくてもいいと思ったからだ。
今までは彼の本性など知らなかったから、彼と良い関係を築こうとしてきた。だが、彼の醜悪な本性を知ったうえに、自分が見下されていると知った今ではそんなことをする意味が見いだせない。だって無駄なのだ。こちらがどれだけ心を尽くそうとも、彼の心はシェリーのものなのだから。
他の女に心を捧げ、クロエのことを見下しているような男と交流すること自体が時間の無駄に思える。
どうせ結婚しなければならないし、その後はさっさと離婚するつもりだからこのまま会わずともクロエは一向にかまわない。もう彼の顔も見たくないのだから。
それでも――いや、それどころか、なおも執拗に絡もうとしてくる。
流石に不味いと思ったのか、それとも家族に何か言われたのか。いずれにせよ、クロエはこれ以上彼と交流する気は一切無かった。
そうでもしなければ、婚約者に逆玉の輿の道具だと思われてきた惨めな気持ちの置き場所が無かった。
そんな折、クロエの隣に座っていた侯爵夫人が紅茶を飲む手を止めて話しかけてきた。
「クロエ様、うちの二番目の息子をご存じかしら? 先日の夜会であなたのお姿を見て、あの子、帰ってからずっと浮かれているの」
いきなりそんなことを言われ、クロエは驚いたように顔を上げる。侯爵夫人は「ふふっ」と小さく笑いながら続ける。
「もちろん、婚約者がいらっしゃることは重々承知しているわ。でも……仮に、何か事情があって解消されたとしても、クロエ様ほどの方ならどの家も手を挙げると思いますの」
それに続くように、別の貴婦人が扇子で口元を隠しながら言った。
「まったく同感ですわ。うちの弟など、クロエ様のお姿を拝見するだけで天にも昇る気持ちだと申していて――。ご婚約者様の最近の噂、聞いていますのよ?」
クロエはその言葉に驚いて息を呑む。噂、とはもしかして先日の夜会でのドレスの一件のことだろうか……。
「ねぇ、クロエ様。名門カレンデュラ家の嫡女たるご自分を過小評価してはなりませんわ。貴女を大切にしない方など、貴女の隣に相応しくなくてよ」
優しく甘い声。それでいてどこか含みのある言葉。
社交界の貴婦人たちの言葉は、まるで甘やかな毒。けれど、その毒は冷たく乾いたクロエの心にじわじわと染み込んでいく。
「――それにしても、夜会にドレスを贈らない婚約者なんて初めて聞いたわ」
紅茶の香りにまぎれて、誰からかふ投げられたその言葉がクロエの胸に小さな棘となって刺さった。
「まぁ、それは本当に信じられないわね」
「ドレスを贈らない? クロエ様に? 面白くない冗談ね」
扇子を優雅にあおぎながらも、貴婦人たちの声色にははっきりとした驚きと憐れみが滲んでいた。
婚約者からドレスすら贈られない令嬢など、社交界では憐れみと嘲りの目にさらされるのが常。
その程度の価値しかない、と見なされるのも無理からぬことだった。
それが自分の立ち位置なのだと、改めて思い知らされる。
夜会という婚約者にエスコートされるその一夜は令嬢にとって特別なもの――ドレスや宝飾品は相手から贈られるのが当然だとされている。それは単なる形式ではない。相手への敬意、誇り、そして「彼女は私の伴侶です」という無言の証だった。
それがないということは、相手に伴侶だと思われていないも同然。軽んじられ、尊重されていない相手だという証になってしまう。胸の奥に惨めな感情がじわりと広がろうとしたその瞬間。どこからか、別の誰かの声が上がった。
「うちの息子でしたら、婚約者のために何人もの職人を動員して最高のドレスを仕立てると思いますわ」
「あら、うちの甥はね、相手のためとなれば労も財も惜しまないのよ。ドレスはもちろん、最高のジュエリーまできっちり用意するわ」
話は次第に熱を帯び、段々と『クロエにふさわしい男』を推す声に変わっていった。
「本当に、あなたのような方がどうして……ねえ、クロエ様。よろしければ、一度うちの息子に会っていただけませんか? とても優しい子なんですのよ」
「私からもお願いしたいわ。うちの弟は思いやりもあって、とても礼儀正しいの。夜会でドレスを贈らないなどという不作法は、決して致しませんわ」
笑いながらも、その目は真剣そのもの。
誰もがクロエと縁を結ぶことを願っている。そこでハッと気づいた。
蔑まれているのはクロエではなく、レオナルドの方だ。そして、彼女達は『クロエの隣』をレオナルドから奪おうとしている。これほどまでに、カレンデュラ家の婿の座が貴族たちの間で熱望されているとは知らなかった。
次々と繰り出される婿候補。それはまるで市場に品物を並べるように、貴婦人たちは次男坊、三男坊、果ては遠縁の甥にいたるまで次の伴侶候補として持ち出してくる。
クロエはそれを笑顔で受け流しながらも、心のどこかで――ふっと、肩の力が抜けたような気がした。
(……そう。こんなにも社交界でクロエの価値は高いのね)
以前なら、こうして紹介されることさえ「無遠慮だ」「無礼」と思ったかもしれない。
けれど今は違う。これはクロエが彼女達にそれだけ評価されているという証なのだから。




