婚約者にドレスを贈る甲斐性もないのね
黄金の燭台に灯された無数の蝋燭が大広間の天井を照らし、まるで時の流れを忘れさせるほど幻想的な舞台を作り上げている。今宵、王都にて催される夜会には名だたる貴族たちが集っていた。楽団の奏でる音楽に乗せて、ドレスとタキシードの波が緩やかに揺れる。
人々はグラスを手に笑みを交わし、銀のトレイを手にした給仕たちは足音も立てずに客たちの間を行き交っている。
その華やかな場にあって、最も人目を引く存在。それがクロエであった。
月の女神を思わせるような神秘的な美貌もさることながら、彼女が纏う美しいドレスは見る者すべての視線を奪う。
繊細なシフォンを幾重にも重ね、動くたびに裾が風のように揺れる淡い菫色のドレスは彼女の華やかな美貌によく合っていた。胸元から肩にかけては極小のダイヤモンドと銀糸で刺繍が施されており、光が当たるとまるで星屑のようにきらめく。大胆だが優美なカットが彼女の白磁のような肌を引き立て、腰元には同系色のサテンリボンがあしらわれており、格式を保ちつつも軽やかさを醸し出していた。
「まあ……なんて美しいドレス。見惚れてしまいましたわ、クロエ様」
そう声をかけてきたのは、さる侯爵夫人。気品に満ちた女性で、装いには一分の隙もない。その彼女が目を細めて頷くほどにこのドレスは見事だった。
クロエはグラスを持つ指先を緩やかに下げ、優雅に会釈する。
「ご覧くださって光栄ですわ。……実はこのドレス、当家の工房に所属するデザイナーの作品なのです」
「まあ、貴家の工房のデザイナーが……。そうですか、わたくしはてっきり婚約者様からの贈り物かと……」
侯爵夫人は、ちらとクロエの隣に立つレオナルドに目をやり、その表情にかすかな興味をにじませた。
婚約者同士で夜会に出席する際、令嬢にドレスを贈るのは紳士の嗜みであり、社交界の不文律でもある。
にも関わらず、クロエが着ているドレスは彼女の家の工房のもの。それはすなわち、レオナルドからドレスを贈られることがなかったために、クロエは自らの手で用意せざるを得なかったことを意味する。
ほんの一瞬、侯爵夫人は嘲るような表情でレオナルドに視線を向けた。
まるで「婚約者にドレスを贈る甲斐性も無いのね」と言わんばかりの侮蔑に満ちた視線にレオナルドは顔を朱に染め、居たたまれぬように目を逸らす。
侯爵夫人は静かにクロエへと視線を送り、ひとつ感嘆の息を漏らすと、優美なドレスの裾へと視線を落とした。
「細部まで実に緻密……でも、それでいて決して重くない。お育ちの良さが、布にまで表れておりますわ」
侯爵夫人の称賛にクロエは静かに微笑んでみせた。隣のレオナルドが居心地悪そうにしていることなどまるで気にも留めず、彼女は柔らかく言葉を紡ぐ。
「実はこの冬、王都の第五区画にて、我が家の工房の直営店を開く運びとなりましたの」
その言葉に侯爵夫人の眉が上がる。会場のざわめきの中でも、その情報ははっきりと耳に届いた。
「まあ……それはまた、ご立派な。王都の第五区画といえば、貴婦人たちの集う一等地ではありませんか」
「ええ。まだ小さな店ではございますが、工房の職人たちの手による一点ものを揃えております。今夜のドレスのような仕立ても、ご希望に応じて承れるよう準備を進めておりますの」
そう言ってクロエはほんの少し身を乗り出し、声を落として囁いた。
「もしよろしければ……お披露目の日には、ぜひお越しくださいませ。お目の高い夫人にこそ、最初にご覧いただきたいのです」
「まあ、なんて光栄なこと。これは楽しみがまた一つ増えましたわ。クロエ様のご推薦とあらば、何があっても伺わなくてはなりませんわね」
その返答にクロエも小さく笑みを浮かべた。
「クロエ、さっきの行動はどういうつもりなんだ?」
「どう、とは?」
侯爵夫人と別れた直後、クロエはレオナルドに無言でバルコニーへと連れていかれた。振り返った彼の顔は怒りに歪み、そのままクロエに詰め寄ってくる。
「とぼけるな、クロエ! ドレスが自前だなんて、なんであんなことを言ったんだ? あれじゃ僕が笑い者だ!」
「まあ、驚いた。事実を言っただけではありませんか? 実際、わたくしが身に着けているこのドレスはわたくしが用意したものですし……」
レオナルドの怒った声を気にもせず、クロエは嘲笑うような表情で言い放つ。
それまで一度も彼女のそんな顔や態度を見たことがなかったレオナルドは驚きのあまり呆気に取られた。
「え、クロエ……?」
「レオナルド様は何をそんなに怒っていらっしゃるの? まさか……黙っていればご自分が贈ったことになったのに、などとはおっしゃいませんよね? そんな恥知らずなことを……」
侮蔑の目を向けられたレオナルドはショックのあまり二の句が継げなかった。
いつも従順だった婚約者からこのような目を向けられたことなどただの一度も無い。
「あ、だ、だって……今までは……」
「ああ、今までは確かに貴方に配慮して何も言いませんでしたね。貴方、というよりリンデン家にですけど。夜会前に婚約者にドレスを贈る経済的な余裕もないのかと……。でも、貴方の装いを見る限り、それはいらぬ配慮だと知りました。ご自分の衣装を新たに仕立てる余裕はあるようですので……」
クロエの指摘にレオナルドはハッとして慌てて自分の衣服に目を向けた。
流行を巧みに取り入れた真新しいデザインと上質な仕立てが施されたそれは、王都で名高いデザイナーの手によるもの。彼はクロエにはドレスを贈らなかったものの、しっかりと自分の衣装を新調していたのだ。
「いや……これは……隣に立つクロエが恥をかかないように、と……」
「その配慮も大切ですが、わたくしが婚約者にドレスの一枚も贈られず悲しむとは思いませんの? そういった配慮もせず、その事実すら黙っていてほしいとは……いささか図々しいのではなくって?」
「なっ……図々しいだと! それは言い過ぎではないのか!?」
「あら、ではレオナルド様はわたくしにドレスを贈る気はないけれど、それを他者に知られるのは恥ずかしいから、その事実は黙っておくようにとおっしゃるの? ……それは、あまりにもわたくしを馬鹿にしていますわね」
はっきりと事実を突きつけられたうえで、怒りと軽蔑を滲ませた声で告げられたレオナルドは困惑を隠せなかった。今まで何も言ってこなかったクロエが、どうして今になってこんなことを言うのかと。
「……そんなこと、今まで何も言ってこなかったじゃないか」
「わたくしは貴方の母親ではありませんことよ。成人した殿方相手に『婚約者にはドレスを贈るものですよ』とわざわざ教えねばなりませんか? そういった常識はご家庭で身につけるものですよ。他人が教えるものではございません」
やけに他人という言葉を強調するクロエにレオナルドは危機感を募らせた。
最近、どこか冷たくなったように思えた彼女。でも、贈り物でもしておけば機嫌くらいは取れる――そう思っていた。
しかし、それが間違いだったと彼はようやく思い知らされた。機嫌をとるどころか、ますます損ねているようにすら感じられる。
「婚約者に礼を尽くさないことが、貴家の流儀なのでしょうか。当家の流儀とは相いれませんね……。わたくしは、父に婚約者には最大限の礼を尽くすものだと教わりましたもの」
「ク、クロエ……どうしたんだい? いつもの君らしくないよ?」
「いつもの”わたくし”……ですか。それは、貴方に夜会の度にドレスを贈られずとも、黙ってヘラヘラと愛想笑いを浮かべている、みっともないわたくしのことでしょうか?」
クロエの語気が強まる度にレオナルドの勢いが弱まっていく。彼の知るクロエはまさに彼女が自ら口にしたとおりの人物だった。何をされても笑って許す、愚かしいほどに優しい女。
だからこそ、目の前で強気に詰め寄ってくるこの女性が彼の知るクロエと同じ人物だとは思えなかった。
「……貴方には失望しました。婚約者にドレスを贈るという最低限の礼儀も尽くさないばかりか、それを黙っているように強要するなど……みっともない」
蔑みを込めた声と侮蔑の表情で「みっともない」と言い捨てられ、レオナルドは羞恥に頬を真っ赤に染めた。
彼もまた、夜会の前に婚約者にドレスを贈るのが礼儀であると知っていながら、あえてそれをしなかったという負い目があるため反論できない。
「違う……。そんなつもりじゃ……」
「言い訳は結構です。そして、これ以上の話し合いも不要にございます」
「そんな……! そこまで怒らなくても……」
「いえ、怒っているのではありません。呆れているのです。それに、貴方とは分かり合える気が致しません。今宵はこれで失礼いたします」
冷ややかにそう吐き捨てるとクロエは優雅に一礼し、そのまま彼の前を立ち去った。
残されたレオナルドはクロエを追いかけるでもなく、ただ茫然としたまま立ちすくんでいた。
宮廷雀たちがその様子を盗み見て、くすくすと笑っていることなど露知らず――。




