Ⅸ
やがて、王城の正門を易々と突破し、わたくしたちはあの降誕祭の舞台となった、大広間――現在は玉座の間として使われている場所へと辿り着いた。
重厚な大扉を、大公の騎士たちが蹴り開ける。
途端に、広間の中から、悲鳴とざわめきが波のように押し寄せてきた。
広間の中には、逃げ遅れた貴族たちと、完全武装しながらも後ずさる近衛兵たちがひしめき合っていた。
そして、その最奥。一段高くなった黄金の玉座に、王太子ユリアンが、血の気を失った青白い顔で座り込んでいる。彼の足元には、かの男爵令嬢セリアが、今度こそ本物の恐怖に震え、小さな塊となってうずくまっていた。
「……ユリアン。ずいぶんと立派な『勅書』を寄越してくれたではないか」
レオンハルト大公の、低く、腹の底を震わせるような声が玉座の間に響き渡ると、近衛兵たちは弾かれたように道を空けた。
大公とわたくしは、数百の敵意と恐怖の視線を浴びながら、全く歩みを乱すことなく、広間の中央を真っ直ぐに進み、玉座へと続く階段の下で立ち止まった。
「れ、レオンハルト叔父上……! そして、エレノア……! き、貴様ら、王都に対して軍を向けるなど、明らかなる反逆罪であるぞ! これは国王陛下に対する反逆だ!」
ユリアン殿下は、震える指をこちらに向け、裏返った声で絶叫した。
「余の命令が届かなかったのか!? エレノア、其方は直ちにセリアに頭を下げ、詫びるのだ! さ、さすれば、今回の反逆の件も、余の慈悲によって……!」
「……殿下」
わたくしの、静寂そのもののような、冷え切った一言が、ユリアン殿下の狂乱した声を完全に遮った。
わたくしは、一歩、玉座へと続く階段に足を踏み入れた。
その瞬間、玉座の周囲にいた近衛兵たちが、わたくしから放たれる絶対的な威圧感に耐えきれず、次々と武器を取り落とし、膝を屈してしまった。
わたくしは、表情一つ変えずに、ただ氷のように澄んだ青い瞳で、玉座で震える哀れな男を見下ろした。
「貴方様は、本当に何も見えておられない。わたくしが、なぜこの王城に帰還したのか。なぜ、大公閣下と共に一万五千の軍勢を率いてきたのか」
わたくしはもう一段、階段を上がる。
「それは、貴方様に謝罪するためでも、側室などという下劣な地位を乞うためでもありません。わたくしは、この王国の『真なる規律と品格』を取り戻すための、死神として参ったのです」
「な、なにを……」
「降誕祭の夜。貴方様は、このわたくしを毒婦と呼び、何の証拠もなく断罪なさいましたね。そして、この男爵令嬢の作り物の涙に溺れ、国家の最高防衛戦力であるアージェント家との絆を、自ら断ち切った。その結果が、これです」
わたくしは、背後に控える屈強な黒狼騎士団と、白銀の騎兵たちを手で示した。
「貴方様の浅薄な決断が、国を二分し、王都にこの黒鉄の軍靴を招き入れたのです。玉座に座る者としての責任感も、国家の情勢を見極める知性もない。あるのは、己の欲望と、見せかけのプライドのみ。……ユリアン殿下。貴方様は、為政者として、決定的に『無能』なのです」
わたくしの口から放たれた、冷徹にして完璧な事実の刃は、ユリアン殿下の虚栄心を跡形もなく粉砕した。
彼は口をパクパクと開閉させ、何事か反論しようとしたが、極度の恐怖と屈辱から、声にならぬ呻きを漏らすことしかできなかった。
「ひっ……! お、お願い、助けて……! わたくしは、殿下に強要されただけで……!」
足元にうずくまっていたセリア嬢が、ついに耐えきれなくなり、ユリアン殿下を見捨てて這うように逃げ出そうとした。彼女の可憐な仮面はとうに剥がれ落ち、そこにあるのは自己保身に走る醜い小動物の姿だけであった。
「お逃げなさい。誰も貴女のような小娘の命など狙ってはおりません。ただし」
わたくしは、逃げようとするセリア嬢を一瞥し、絶対零度の声で宣告した。
「二度と、その卑しい虚栄心で、国の政治に関わろうなどと考えないことです。貴女のその浅はかな野心が、いかに多くの血を流す火種になり得たか。その罪の重さを、一生涯、辺境の修道院で悔い改めるがよろしいでしょう」
セリア嬢はヒッ、と短い悲鳴を上げ、その場で失神して崩れ落ちた。
「エレノア……き、きさま……」
玉座の上で、ついに孤独となったユリアン殿下が、絶望の涙を浮かべてわたくしを睨みつける。
その時、大公がゆっくりと階段を上り、わたくしの隣に並び立った。
彼は、腰に提げた長剣の柄に手をかけ、玉座を見下ろして言った。
「ユリアンよ。兄上(国王)は現在、重い病に伏せられておられる。本来ならば、次期国王たるお前が国を導くべきであった。だが、お前にはその器がない。この東方大公レオンハルト・フォン・ドラグノフが、王家の長老として、そしてこの国を憂う武将として、お前の王位継承権を永久に剥奪する」
「なっ……! ば、馬鹿な! 貴様にそのような権限が……!」
「権限だと? 笑わせるな」
大公は、隻眼を獰猛に光らせた。
「権限とは、力が作り出すものだ。今、この王都を完全包囲し、実質的に制圧しているのは私とアージェントの軍勢である。そして、何よりの『大義』が、私の隣にある」
大公は、わたくしの腰を力強く抱き寄せ、広間にいるすべての者たちに向かって、雷鳴のような大音声で宣言した。
「皆の者、心して聞け! この御方、エレノア・フォン・アージェントこそが、我が唯一にして絶対の妻であり、これからの新たな時代を共に統べる、真なる『大公妃』である! その高潔なる魂と、比類なき知略、そして揺るぎなき誇り。彼女こそが、この腐りきったロヴェール王国に、再び栄光と規律をもたらす光なのだ!!」
広間は、水を打ったような静寂に包まれた。
先刻まで、わたくしを嘲笑し、ユリアン殿下に媚びていた貴族たちは、今やわたくしの前に頭をすりつけ、その圧倒的な威光にひれ伏すしかなかった。
武力による制圧だけでなく、精神的にも完全に彼らを支配したのである。
「……大公閣下の御言葉通りです」
わたくしは、玉座の前の最も高い場所から、ひれ伏す群衆を見下ろした。
わたくしの青い瞳には、もはや怒りもない。あるのは、冷徹な為政者としての、王国の未来を見据える覚悟だけであった。
「これより、この国は生まれ変わります。虚飾に溺れ、義務を忘れた者には容赦なき鉄槌を。そして、真に国を憂い、汗と血を流す者には正当なる報いを。わたくし、エレノア・フォン・アージェントは、レオンハルト大公閣下と共に、この国を『鋼と氷の規律』をもって治めることを、ここに宣言いたします」
わたくしの透き通るような、しかし絶対的な力を持った声が、王城の隅々にまで響き渡った。
ユリアン殿下は、ついに玉座から滑り落ち、その場に力なく頽れた。彼の虚飾に満ちた時代は、たった今、完全に終わったのである。
大公が、わたくしの耳元で低く囁いた。
「見事な宣言だ、我が妻よ。貴女のその冷たくも気高い瞳に見下ろされると、私でさえも背筋が凍る思いがするぞ」
「お戯れを、レオンハルト様。わたくしたちの戦いは、ここから始まるのです。この広間に転がる無能な者たちの処遇、そして、国の立て直し。休む暇など、一刻もありませんわ」
わたくしが、微かな、しかし心からの信頼を込めた微笑みを向けると、大公は満足げに頷き、わたくしの純白の手袋に包まれた手を強く握りしめた。
春の柔らかな陽光が差し込む王都の広間で、黒鉄の騎士と白雪の令嬢は、真なる覇者として玉座の前に立ち並んだ。
不当なる貶めを受けた孤高の白百合は、誰の庇護に縋ることもなく、自らの誇りと知略、そして最愛の伴侶の剣をもって、ついに自らを真の救済へと導いたのである。
この日より、ロヴェール王国の歴史には、一人の偉大なる大公妃の名が、決して消えることのない黄金の文字で刻まれることとなる。
それは、偽りの愛に泣くことを拒み、凍てつく真実の中に気高き華を咲かせた、美しくも恐ろしい「氷の令嬢」の、終わりのない叙事詩の始まりであった。




