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王都の分厚い城壁が黒鉄の軍靴によって踏み破られ、虚飾に塗れた旧体制が崩壊してから、およそ月が巡った。
季節は春の柔らかな陽光から、初夏の瑞々しい青葉が王宮の庭園に濃い影を落とす頃合いへと移り変わっていた。かつて、歴代の王妃や愛妾たちが、無為な遊戯と甘美な毒話に花を咲かせていたとされる「白薔薇の離宮」。その豪奢極まる空間は、今やわたくし、エレノア・フォン・アージェントの執務室となり、絶え間なく運び込まれる公文書の束と、王国の立て直しに奔走する文官たちの軍靴の音によって、常に熱を帯びた戦場と化していた。
壁に飾られていた享楽的な異国の絵画は取り払われ、代わりに王国の詳細な地図と、各領地の税収・兵力分布を示す冷徹な図表が掲げられている。香炉から立ち昇っていた甘ったるい媚薬のような香りは、今や墨と羊皮紙、そして使い込まれた剣の油の匂いへと完全に駆逐されていた。
わたくしは、黒檀で作られた重厚な執務机の前に座り、手にした銀の羽ペンを滑らせていた。身に纏うのは、王都の流行を追った窮屈なドレスなどではない。深い漆黒の絹地で仕立てられ、襟元と袖口にのみアージェント家の象徴たる銀糸の狼が刺繍された、極めて実用的かつ威厳に満ちた執務服である。
「エレノア様、南方穀倉地帯における今季の収穫見込みと、それに伴う税率改定の草案が上がってまいりました。しかし、かの地を治めるバルバロッサ伯爵より、東方領への食糧支援は領民の反発を招くとして、強い難色を示す書状が届いております」
有能なる若き文官が、うず高く積まれた書類の山から一通の羊皮紙を抜き出し、恭しくわたくしの前に差し出した。
わたくしは、その書状にざっと目を通すと、氷のように冷ややかな青い瞳を細め、短く鼻を鳴らした。
「……反発を招く、ですか。実に見え透いた言い訳ですこと。バルバロッサ伯爵は、ユリアン殿下の治世下において、王室への献金という名目で裏帳簿を作り、本来国庫に納められるべき小麦を隣国へ横流しして私腹を肥やしていた輩です。領民の飢えなど、微塵も気にかけてはおらぬくせに」
わたくしの静かで、しかし刃のように鋭い言葉に、文官は身を固くして頭を垂れた。
「直ちに、黒狼騎士団の査察部隊をバルバロッサ領へ派遣しなさい。大義名分は『新体制による治安維持と国境警備の強化』。そして、彼らが隠匿している裏帳簿と秘密倉庫を一つ残らず暴き出し、すべての小麦を差し押さえるのです。抵抗するようであれば、国家反逆罪として即刻拘束を。この国の血管に巣食う寄生虫を、これ以上太らせておくつもりは毛頭ありません」
「はっ、承知いたしました! 直ちに手配いたします」
文官が足早に退出していくのと入れ替わりに、今度は筆頭侍女のマーサが、苦虫を噛み潰したような顔で入室してきた。
「大公妃殿下。……またでございます。旧貴族派の面々が、離宮の面会室に列を成しております。皆、何やら大仰な贈り物を携え、殿下への忠誠を誓いたいと口々に申しておりますが……」
マーサの報告に、わたくしは静かに羽ペンを置いた。
「大公妃」という呼称。それは、あの玉座の間での宣言以来、わたくしに与えられた新たなる称号であった。王弟たるレオンハルト大公の正妃であり、実質的にこの国を統べる「国母」たる地位。かつてわたくしを「北の魔女」と忌み嫌っていた者たちが、今や保身のために、その魔女の足元に縋り付こうと必死になっているのだ。
「面会を通しなさい。ただし、贈り物はすべて入り口で没収し、国庫の救済基金へ回すように。彼らの顔色と、その下劣な弁明を見るのも、為政者たる者の務めですわ」
わたくしは立ち上がり、背筋を凛と伸ばして面会室へと向かった。
面会室に足を踏み入れた瞬間、そこを満たしていた数十人の貴族たちが、弾かれたように床に膝をつき、平伏した。彼らの背中は恐怖に震え、高価な香水で誤魔化しきれない冷や汗の匂いが室内に充満している。
「お、おお……大公妃殿下! 此度の御成婚、並びに新体制の樹立、心よりお祝い申し上げます!」
先頭にいた恰幅の良い侯爵が、媚びへつらうような笑みを浮かべて顔を上げた。
「我らは、あの愚かなるユリアン元殿下に騙され、不本意ながらも付き従っていた哀れな臣下に過ぎませぬ。ですが、我らの真の忠誠は、常に大公閣下と、高潔なるエレノア様の下にございました! どうか、我らのこの微力、新体制のためにお役立ていただきたく……」
「お黙りなさい」
わたくしの、静寂を引き裂くような冷ややかな一言が、侯爵の言葉を中途で切り捨てた。
わたくしは、平伏する彼らを見下ろしながら、一歩、また一歩と優雅に歩みを進める。その漆黒の衣擦れの音が、彼らには死神の足音のように響いていることだろう。
「『不本意ながら付き従っていた』と? 侯爵。貴方は、半年前の降誕祭において、あの男爵令嬢に国庫から三万金貨もの装飾品を見繕い、献上した張本人ではありませんか。それが不本意な者の行いだと、本気でわたくしが信じるとお思いですか?」
「ひっ……! そ、それは、その……!」
「貴方方が真に忠誠を誓っていたのは、王室でもなければ、国でもありません。ただ己の『利益と保身』のみです」
わたくしの声は、怒りに震えることもなく、ただ絶対零度の理をもって彼らを断罪していく。
「わたくしは、貴方方の見え透いたお世辞や、賄賂などという薄汚れた金貨に興味はありません。我が新体制において評価されるのは、ただ一つ。血と汗を流し、この国を豊かにするための『実利ある働き』のみです。命が惜しくば、領地へ戻り、自ら鍬を握って荒れた畑を耕しなさい。もし再び、私欲のために民から搾取したという報告がわたくしの耳に入れば……その時は、東方の黒鉄の刃が、貴方方の首を物理的に刈り取ることになるでしょう」
わたくしの最終宣告に、貴族たちはもはや声を発することすらできず、ただ床に額を擦りつけ、ガタガタと震え続けることしかできなかった。
彼らを面会室から追い払った後、わたくしは微かに溜息をつき、静かに目を閉じた。
愚か者たちを裁き、国を正すこと。それは、わたくしが望んだ道であり、アージェントの誇りにかけて成し遂げねばならぬ義務である。だが、それは同時に、終わりの見えない泥濘の中を進むような、果てしない孤独と精神の消耗を伴う作業でもあった。
「――相変わらず、容赦というものを知らぬな、我が麗しの氷の刃よ」
不意に、背後から重く、そして心地よい熱を孕んだ声が響いた。
振り返ると、面会室の奥の扉に寄りかかり、腕を組んでこちらを見つめる巨大な影があった。
漆黒の軍服に身を包み、右半顔の凄惨な傷跡と黄金の隻眼を持つ男。我が夫であり、この国の実質的な最高権力者たる東方大公、レオンハルト・フォン・ドラグノフその人である。




