Ⅵ
東方領、鉄鎖の谷。
この地に朝をもたらすのは、小鳥の囀りでも、柔らかな陽光でもない。黒曜石の如き絶壁を削り取るように吹き荒れる、北風の凄絶な咆哮である。
窓硝子にびっしりと張り付いた霜の結晶が、僅かに差し込む鉛色の曙光を乱反射している。吐く息すら白く染まる石造りの私室で、わたくし、エレノア・フォン・アージェントは、姿見の前に真っ直ぐに立ち、己の新たな装いを静かに点検していた。
王都を彩っていた重厚なベルベットや、歩くたびに波打つ過剰なシルクの襞は、もはやここにはない。
現在のわたくしが身に纏うのは、上質な、しかし徹底して実用性を重んじた濃紺のウールの乗馬服であった。無駄な装飾を削ぎ落としたタイトな意匠は、わたくしの身体の線を鋭く、そして冷ややかに強調している。首元には防寒のための白い毛皮があしらわれ、足元は、雪泥にまみれることを前提とした、磨き上げられた黒革のロングブーツ。そして腰には、護身用の短剣を帯びている。
アージェント公爵家に伝わる氷涙石のティアラは、今は厳重な真珠貝の箱の中で眠っていた。代わりに、漆黒の髪は機能的に一つに纏め上げられ、銀の細工が施された革紐で固く結ばれている。
鏡の中のわたくしは、着飾った人形のような王太子妃候補から、一人の「戦場に立つ貴族」へと変貌を遂げていた。
だが、その背筋の伸び、顎の角度、そして氷のように静かな青い瞳の奥に宿る光は、何一つ変わってはいない。環境がどれほど過酷になろうとも、己の魂の在り方を違えないことこそが、わたくしの誇りであるからだ。
「エレノア様、朝食の支度が整いました。本日は、砦の兵站会議にご出席されるとのこと、すでに各幕僚たちが大広間に集っております」
侍女としてわたくしに仕えることになった元女戦士のイルマが、恭しく頭を下げて報告する。
「ええ、参りましょう。東方の冬は苛烈を極めます。兵士たちの命を繋ぐ物資の管理は、一刻の猶予もならぬ急務です」
わたくしは短く応じ、外套を翻して部屋を後にした。
砦の大広間――それは王都の狂騒の舞台となった場所とは似て非なる、むき出しの石壁と長大な樫の木のテーブルだけが置かれた、軍議のための空間であった。
わたくしが広間に入ると、図面や羊皮紙を広げて激論を交わしていた無骨な将校たちが、一斉に姿勢を正し、一糸乱れぬ臣従の礼をとった。彼らの瞳には、もはやわたくしを「王都からの余所者」と見る色は微塵もない。そこにあるのは、自らの主君たる大公が見定めた「盟友」に対する、絶対の敬意であった。
「ご苦労様です、皆様。早速ですが、昨晩提出していただいた、厳冬期における兵糧と薪の備蓄目録について、いくつか指摘がございます」
わたくしは上座に用意された椅子には座らず、テーブルの上に広げられた巨大な帳簿の前に立ち、指揮棒を手にした。
「まず、第三城壁の守備隊への塩漬け肉の配給量が、規定よりも一割ほど不足しています。また、傷薬の原料となる『月見草の根』の備蓄が、過去数年の消費量に照らし合わせると、来月半ばには底を突く計算となります。吹雪により補給線が絶たれる最悪の事態を想定し、ただちに隣接する村落からの徴発と、保存食の再分配を行うべきです」
将校たちは、わたくしの口から淀みなく紡がれる正確無比な数字と、冷酷なまでに理路整然とした兵站の指摘に、息を呑んで顔を見合わせた。
アージェント公爵家は、北方の絶対防壁。わたくしは幼き頃より、詩や刺繍といった貴婦人の嗜みのみならず、領地経営、軍事教練、そして何より、戦を継続するための「兵站学」を徹底的に叩き込まれてきた。いかに前線で騎士たちが勇猛に戦おうとも、後方の補給が崩れれば軍は三日で瓦解する。その冷徹な真理を、わたくしは誰よりも熟知していた。
「お、恐れ入ります、エレノア様。我らのような武骨者は、剣を振るうことには長けておりますが、そのような細かな数字の計算となると、どうにも目が回りまして……」
兵站を預かる初老の将校が、冷や汗を拭いながら深々と頭を下げる。
「恥じることはありません。貴方方が命を懸けて最前線で剣を振るうからこそ、この砦は守られているのです。後方の数字の管理、命の算段は、このわたくしにお任せなさい。一つたりとも、無駄な血は流させませんし、飢えで倒れる兵も出しません」
わたくしの静かで、しかし絶対の自信に満ちた宣告に、将校たちの顔に安堵と、さらなる深い敬服の色が浮かんだ。
「――まったく。我が砦のむさ苦しい男どもが、手も足も出ぬとはな」
不意に、広間の入り口から、重厚な笑い声が響いた。
振り返ると、レオンハルト大公が腕を組み、壁に寄りかかってわたくしたちのやり取りを眺めていた。彼の顔の右半分の凄惨な傷跡が、微かな笑みによって歪み、黄金の隻眼が満足げに細められている。
「大公閣下。ご機嫌麗しゅう存じます」
わたくしが完璧な角度のカーテシーを行うと、大公は歩み寄り、わたくしの手を取って軽く口付けた。その自然で堂々たる振る舞いに、将校たちは咳払いをし、そそくさと視線を帳簿へと戻す。
「朝早くからご苦労、エレノア。貴女が来てからというもの、この砦の物資の無駄が劇的に減り、兵たちの士気も恐ろしいほどに高まっている。我が軍の幕僚長にでも任命せねばならんな」
「王都にて、意味のない茶会や中身のない世間話に時間を費やしていた日々に比べれば、このような実務は心が洗われる思いです。わたくしは、自らの義務を全うしているに過ぎません」
わたくしが淡々と答えると、大公はふっと息をつき、その黄金の瞳に鋭い光を宿した。
「頼もしいことだ。……だが、その貴女の腕前を、机上の計算だけでなく、実戦で頼らねばならぬ時が来たようだ」
大公の言葉の響きが、日常のそれから、戦場に立つ覇者の冷酷な響きへと変化した瞬間であった。
ウォォォォォォーーン……!!
突如として、砦の外から、腹の底を震わせるような、おぞましくも巨大な獣の咆哮が響き渡った。
それは、一匹や二匹ではない。何十、あるいは何百という獣の遠吠えが重なり合い、吹雪の音を掻き消して谷全体に木霊している。
同時に、砦の高い見張り塔から、甲高い警戒の鐘が狂ったように打ち鳴らされた。
「急報!! 『氷喰狼』の群れです!! 数は推定五百以上! 猛吹雪に紛れて谷へ侵入、現在、第一城壁に向けて猛烈な速度で突撃してきております!!」
血相を変えた伝令が広間へ転がり込み、絶叫した。
広間の空気が、一瞬にして極限の緊張状態へと引き絞られる。将校たちは即座に帳簿を放り出し、腰の剣に手をかけた。
氷喰狼。
北方の極寒の地に生息する、馬ほどの巨体を持つ魔獣である。その牙は鋼をも噛み砕き、その息は触れたものを瞬時に凍らせる。通常は群れを作らず単独で行動するはずの魔獣が、五百以上の大群をなして砦を襲撃するなど、前代未聞の事態であった。
「……なるほど。王都の阿呆どもが我らの動向を探っている間に、北の魔境では妙な動きがあるらしいな。群れを束ねる『主』が誕生したか」
大公は、焦る素振りも見せず、ただ獰猛な笑みを浮かべて愛剣である巨大な両手剣の柄を握った。
「皆の者、戦支度だ! これより東方黒狼騎士団は打って出る! 第一城壁の門を開け、雪原にて奴らを平らげる!」
「ハッ!!」
怒号と金属音が交錯し、砦は一瞬にして巨大な殺戮の機械へと変貌した。
大公が振り返り、わたくしを見る。
「エレノア。貴女は直ちに主塔の安全な場所へ退避せよ。これは我らの戦いだ」
「お待ちください、レオンハルト様」
わたくしは、静かに、しかし断固たる声で彼を引き留めた。
「五百もの魔獣の群れに対し、打って出るのは下策です。敵は吹雪に紛れており、地の利はあちらにあります」
「この砦の堅牢な城壁に籠もっていれば安全だと言うのだな。だが、奴らの牙は石壁を少しずつ削る。放置すれば後顧の憂いとなる」
「ええ。ですから、籠城せよとは申しません。ですが、わたくしもただ塔の中で震えているつもりは毛頭ございません。わたくしに、城壁上の『重石弓』部隊の指揮をお任せください」
わたくしの提案に、大公は隻眼を見開いた。
「貴女が、後方支援とはいえ、実戦の指揮を執るというのか?」
「アージェント公爵家は『盾』です。攻め寄せる敵をいかに効率よく削り、前線に立つ剣をいかに援護するか。その兵法は骨の髄まで染み込んでおります。貴方様が前線で存分に剣を振るえるよう、わたくしが、最も冷酷で正確な『死の雨』を降らせてご覧に入れましょう」
わたくしは、唇に薄く、氷のように冷たい笑みを浮かべた。
それは、王都の貴族たちを震え上がらせた「氷の令嬢」の真骨頂であり、同時に、最愛の伴侶の背中を守るための、気高き決意の表れであった。
大公は、数秒の間わたくしを見つめ、やがて腹の底から湧き上がるような哄笑を放った。
「……ははははっ! 素晴らしい! まったく、貴女という女は、どこまでも私の魂を震わせてくれる! よかろう、城壁の指揮は貴女に預ける。エレノア・フォン・アージェントよ、我が背中、存分に守ってみせよ!」
─
吹き荒れる猛吹雪の中、第一城壁の上は、重石弓を構えた数百の兵士たちの熱気と、極寒の風が交錯する異様な空間と化していた。
眼下の雪原には、無数の青白い眼光が、猛烈な速度でこちらに向かって迫ってくるのが見える。氷喰狼の群れだ。雪と同化した白い毛皮を持つ彼らは、まさに動く吹雪そのものであり、その咆哮は大地を揺るがしていた。




