Ⅴ
わたくしは、両手を胸の前で交差させ、最も格式高い礼法をもって彼らの歓声に応えた。
「エレノア・フォン・アージェントと申します。レオンハルト大公閣下の寛大なる御心により、この地へ参りました。皆様方の揺るぎなき忠義と武勲に、心よりの敬意を表します」
わたくしの透き通るような声が響き渡ると、歴戦の戦士たちは顔を紅潮させ、一層の歓声を上げた。
─
その夜。
砦の中心にある、無骨だが堅牢な石造りの主塔の一室が、わたくしの私室としてあてがわれた。
豪華な調度品など一つもない。あるのは、清潔な麻のシーツが敷かれた木のベッドと、頑丈な机、そして暖炉の中で燃え盛る炎だけである。しかし、王都のあの息詰まるような豪奢な牢獄に比べれば、この殺風景な部屋のなんと居心地の良いことか。
侍女としてつけられた砦の女性(彼女もまた、元は戦士であったらしい)に手伝われ、幾重にも重なるドレスを脱ぎ、簡素なウールの寝衣に着替えた時、静かなノックの音が響いた。
「入るぞ」
短く告げて部屋に入ってきたのは、レオンハルト大公その人であった。
彼は甲冑を脱ぎ、飾りのない黒い軍服姿であった。その手には、銀の盆に乗せられた二つのグラスと、年代物の赤葡萄の瓶が握られている。
「夜分にすまぬ。長旅の疲れを癒やすには、強い酒と暖炉の火が一番だと思ってな」
「お心遣い、感謝いたします」
わたくしが立ち上がり、優雅に一礼すると、大公は椅子を勧めて自らも向かいの椅子に腰を下ろした。彼が自ら酒を注ぎ、一つのグラスをわたくしへと差し出す。
「東方領の酒は、王都のそれに比べて少々荒々しいかもしれんが、体は温まる」
「いただきます」
わたくしはグラスを受け取り、ゆっくりと口に運んだ。
確かに、王都で好まれる甘く洗練された葡萄酒とは違い、土の匂いと強烈なアルコールが喉を焼くような、野性味溢れる味わいであった。しかし、それは決して不快なものではなく、むしろ、凍てついた身体の芯から生命力を呼び覚ましてくれるような、力強い旨味があった。
「……素晴らしい味わいです。見せかけの華やかさはないものの、真の力強さを感じます。この東方領の皆様のように」
わたくしの言葉に、大公は黄金の隻眼を細め、フッと短く笑った。
「貴女は、本当に王都の貴族らしからぬ娘だ。そのような強い酒を、顔色一つ変えずに飲み干すとは。ユリアンめが、貴女を『北の魔女』などと恐れるのも無理はないかもしれんな」
「殿下は、真実を見る目を持たれぬだけです。わたくしは魔女などではなく、ただ、アージェントの娘として、在るべき姿で在り続けたに過ぎません」
パチパチと暖炉の薪が爆ぜる音だけが、部屋の中に響く。
レオンハルト大公は、グラスの底を見つめながら、ぽつりと口を開いた。
「……降誕祭の夜。私がなぜ、あの場に現れたか、疑問に思わなかったか?」
「大公閣下のお考えを、わたくし如きが推し量ることはできませぬ。ですが……もしや、王都の動向を、常に監視なさっていたのではありませんか?」
わたくしの問いに、大公は隠すことなく深く頷いた。
「いかにも。王都の腐敗は、もはや座視できぬ水準に達している。兄上(国王)はご病床に伏せられ、政治の実権は、欲に目の眩んだ奸臣どもと、あの愚かな甥に握られつつある。私は、東方の地より、機を窺っていたのだ。この国を、内側からの崩壊から救うための、決定的な機をな」
彼の眼差しは、大局を見据える覇者のそれであった。
「そして、あの夜。ユリアンが、己の我欲のために、王国最大の忠臣たるアージェント家との婚約を破棄するという凶行に及んだ。あれは、奴の致命的な失策だ。私は、あの場に介入し、貴女を救い出すことで、王都の貴族どもに明確な『反意』を示したのだ。レオンハルト・フォン・ドラグノフは、もはや現体制を容認せぬ、とな」
わたくしは、静かに大公の言葉を受け止めた。
彼がわたくしを助けたのは、単なる義侠心からだけではない。それは、高度な政治的判断であり、来るべき王都との対立に向けた「旗揚げ」の儀式でもあったのだ。わたくしという「大義」を手に入れることで、大公は王都の腐敗を正すという名分を確固たるものにしたのである。
「つまり、わたくしは、大公閣下の盤上における、最も価値のある『駒』となった、ということですね」
わたくしは、一切の動揺を見せずに、冷徹な事実を口にした。
普通の令嬢であれば、自分が利用されたと知れば、悲嘆に暮れるか激怒するであろう。しかし、わたくしは違った。政治とは、血を流さぬ戦争である。自らの価値を正しく認識し、それを最大限に活かすことこそが、貴族の在り方なのだ。
そのわたくしの言葉を聞いたレオンハルト大公の反応は、予想外のものであった。
彼は、グラスをテーブルに置き、その黄金の隻眼で、わたくしの目を真っ直ぐに射抜いたのである。そこには、盤面の駒を見るような冷酷さは微塵もなく、燃え盛る炎のような、強烈な情念が宿っていた。
「駒、だと? ……エレノア嬢。貴女は、己の価値をいまだ正しく理解していないようだ」
大公の声は低く、しかし、地を這うような重圧を持っていた。
「私が欲したのは、大義名分などというつまらぬ飾りではない。私が欲したのは……あの狂気の夜において、数百の敵を前にしても、ただ一人、凛として真実を貫いた、貴女のその『気高き魂』そのものだ」
彼はゆっくりと立ち上がり、わたくしの前へと歩み寄った。そして、再び片膝を突き、わたくしの目線に己の視線を合わせた。
「私は、生涯を戦場に捧げてきた。血と泥に塗れ、多くの命を奪い、多くの部下を死なせてきた。この両手は、決して洗い落とせぬ穢れにまみれている。……だが、だからこそ。私は、真の『美しさ』を知っている。それは、黄金の輝きでも、虚飾のドレスでもない。いかなる絶望の淵にあっても、己の誇りを汚さず、真っ直ぐに立ち続けることができる、その鋼のような意志のことだ」
大公の傷だらけの無骨な手が、わたくしの頬にそっと触れた。その手は、恐ろしいほどの力を持つ武人の手でありながら、信じられないほど優しく、熱を帯びていた。
「エレノア。私は貴女を、政治の道具とするために連れ出したのではない。この東方の地で、私の隣で、共に生きてほしいと願ったからだ。王都の腐敗を切り捨て、新たな時代を築くための、我が『対等なる伴侶』として」
それは、宮廷劇の甘い愛の囁きとは全く異なる、血を吐くような、真摯で重々しい「誓い」であった。
わたくしの胸の奥で、再びあの微かな震えが起こった。
幼い頃から、「王太子の完璧な婚約者」として己を殺し、感情を封じ込めてきたわたくし。誰からも恐れられ、「氷の令嬢」と呼ばれたわたくしの、その冷たい氷の奥にある本質を、この隻眼の武将は、恐ろしいほどの正確さで見抜き、そして、全身全霊で肯定してくれている。
「……大公閣下。貴方様は、本当に恐ろしいお方です」
わたくしは、微かに震える声で答えた。それは、恐怖ではなく、未知の感情に対する戸惑いからくる震えであった。
「わたくしは、愛だの恋だのといった甘やかな感情など、持ち合わせてはおりません。わたくしにあるのは、アージェントの血の誇りと、己の定めた道を行くという覚悟のみです」
「それで十分だ」
大公は、力強く頷いた。
「私が求めるのは、柔弱な愛ではない。互いの誇りを尊重し、背中を預け合い、共に過酷な運命を切り拓いていくことのできる、強き魂の結びつきだ。貴女のその覚悟こそが、私にとって何よりの救済なのだから」
暖炉の炎が、二人の影を石壁に濃く映し出していた。
外では依然として猛吹雪が荒れ狂っている。しかし、この冷たく無骨な石造りの部屋の中には、かつて王都のいかなる絢爛な広間でも感じたことのない、絶対的な安心感と、静かなる熱気が満ちていた。
「……承知いたしました、レオンハルト様」
わたくしは、初めて彼の名を、敬称を外して呼んだ。
それは、わたくしが彼を、単なる庇護者としてではなく、共に並び立つべき存在として認めた証であった。
「わたくしのこの魂、この誇り。貴方様の覇道のために、そして、真に気高き王国を取り戻すために、惜しみなく捧げましょう。この東方の地で、わたくしは真の白百合として、決して枯れることなく咲き誇ってみせます」
わたくしのその誓いの言葉を聞き、レオンハルト大公の凄惨な傷跡のある顔に、初めて、心の底からの歓喜に満ちた、少年のような無垢な笑みが浮かんだ。
二つのグラスが、静かに、しかし確かな響きを持って打ち鳴らされた。
それは、偽りに満ちた古い時代の終わりと、黒鉄の騎士と白雪の令嬢が紡ぐ、新たな叙事詩の始まりを告げる、静かなる祝砲であった。




