Ⅳ
グラン・ロヴェール王国の王都を背にしてから、幾度目の夜明けを迎えたであろうか。
重厚な樫の木と錬鉄で組まれた馬車は、車輪をきしませながら、名もなき荒野に穿たれた雪深い街道を北東へと進んでいた。分厚い熊の毛皮が敷き詰められた車内であっても、東方領へ近づくにつれて凄みを増す冷気は、容赦なく外套の隙間から忍び込み、わたくしの肌を刃のように撫でていく。
小窓の分厚い硝子越しに見えるのは、ただ果てしなく続く白と灰色の世界。吹き荒ぶ吹雪は視界を遮り、巨大な松の木々が雪の重みに耐えかねて悲鳴を上げるように軋む音が、時折、風の咆哮に混じって聞こえてくる。王都の絢爛たる大広間での光景――虚飾に満ちたシャンデリアの光や、甘ったるい香料の匂い、そして浅薄な者たちの嘲笑――は、もはや遠い前世の幻影のように思えた。
ただ静かに背筋を伸ばし、膝の上で組んだ両手を見つめていた。
降誕祭の夜、レオンハルト・フォン・ドラグノフ東方大公の手を取り、王太子との婚約を自ら捨て去ったその瞬間から、わたくしの運命は完全に彼方へと舵を切った。我がアージェント公爵家は、王家に絶対の忠誠を誓う武門の頂。王太子の婚約者という立場を放棄し、さらには王弟であるレオンハルト大公の庇護下に入ったことは、一族にどれほどの波紋を呼ぶか、想像に難くない。父である公爵は、激怒するか、あるいは王家の愚行を見限り沈黙を守るか。
だが、後悔は微塵もなかった。
あの澱んだ宮廷の空気の中で、己の魂を少しずつ腐らせながら、偽りの国母として生き長らえることなど、わたくしの誇りが断じて許さなかった。わたくしを救い出したのは、レオンハルト大公の差し伸べた手であったが、同時に、わたくし自身の内に燃え続ける「アージェントの矜持」であったのだ。
「……お寒くはありませんか、エレノア嬢」
突然、馬車の分厚い扉が外から叩かれ、重々しい声が吹雪の音を切り裂いて響いた。
小窓を開けると、そこには漆黒の甲冑に身を包み、同じく漆黒の巨大な軍馬に跨がったレオンハルト大公の姿があった。彼の顔の右半分に刻まれた凄惨な剣傷は、雪明かりに照らされて一層の深みを増し、残された黄金の隻眼は、吹雪の中でも揺らぐことなくわたくしを真っ直ぐに見据えている。
彼の背後には、同じく黒金の甲冑を纏った「東方黒狼騎士団」の面々が、猛吹雪など意に介さぬ様子で無言のまま進軍を続けている。彼らは、王都の近衛兵のような華美な装飾はいっさい身につけていない。その武具のすべては実戦のために研ぎ澄まされ、幾多の血と油を吸い込んだ鈍い光を放っている。死と隣り合わせの辺境で、常に魔獣や蛮族と血で血を洗う死闘を繰り広げてきた本物の戦士たちであった。
「ご配慮に感謝いたします、レオンハルト大公閣下。ですが、この程度の寒さ、アージェントの血を引くわたくしには、冬の微風に等しいものでございます」
わたくしは、表情一つ崩さずに、静かな声で答えた。
実際、わたくしは寒さに震えるような素振りは一切見せていなかった。背筋は真っ直ぐに伸び、呼吸すらも乱れてはいない。
その答えを聞いたレオンハルト大公は、隻眼をわずかに細め、その口元に微かな、しかし獰猛な笑みを浮かべた。
「左様か。やはり貴女は、王都の温室で愛でられるべき花ではなかった。北方の絶対防壁たるアージェントの娘。その血には、厳冬を耐え抜く鋼が混じっていると見える」
「お褒めのお言葉として、謹んでお受けいたします。……大公閣下、並びに騎士の皆様こそ、このような猛吹雪の中での行軍、誠にご苦労様に存じます」
「我らにとって、これしきの雪は日常に過ぎぬ。だが、貴女がそのように平然としていることは、我が部下たちにとって良い刺激となっているようだ」
大公の言葉の通り、馬車の周囲を固める騎士たちの視線には、当初のような「王都から来た軟弱な貴族令嬢」に対する侮蔑や厄介者扱いの色は、すでに完全に消え去っていた。
王都を出立して数日。過酷な行軍の中、わたくしはただの一度も不平や不満を口にしなかった。馬車が揺れても、食事が硬い干し肉と黒パンであっても、野営の火が乏しくとも、わたくしは常に完璧な姿勢と礼節を保ち続けた。彼らが与えてくれた毛布には必ず深い感謝を示し、夜営の際には、護衛に立つ騎士たちに温かい薬湯を振る舞うことすら自ら申し出た(アージェント家で仕込まれた、寒冷地におけるサバイバルの知識が役立った)。
最初は戸惑い、遠巻きにわたくしを見ていた歴戦の猛者たちも、やがてわたくしの中に宿る「武門の娘」としての覚悟と品格を感じ取ったのだろう。今では、彼らの目に宿るのは、明確な敬意と、守るべき主君の賓客に対する忠誠の光であった。
「日暮れまでには、東方領の入り口である『鉄鎖の谷』の砦に到着する。そこでまともな休息が取れよう。今しばらくの辛抱だ」
「承知いたしました。楽しみにしております」
わたくしが静かに会釈をして小窓を閉めると、馬車は再び単調なリズムを刻みながら雪道を進み始めた。
─
やがて、灰色の空がさらに暗く沈み、吹雪が夜の帳と混じり合う頃。
車窓からの景色が一変した。
これまで広々としていた雪原が突如として途切れ、両側を切り立った巨大な黒曜石の絶壁が挟み込むような、険しい谷間へと入ったのである。風は谷間を抜ける際に凄まじい悲鳴を上げ、まるで無数の亡霊が叫んでいるかのように響き渡る。
ここが、「鉄鎖の谷」。東方大公領への唯一の陸路であり、同時に、外界からの侵略を阻む絶対の防衛線である。
馬車が停止し、わたくしが大公の従騎士に手を取られて外へ出ると、そこには息を呑むような壮絶な光景が広がっていた。
絶壁と絶壁の間、谷を完全に塞ぐようにして、巨大な黒鉄の城壁がそびえ立っているのだ。それは人間の手による建造物というよりは、大地そのものが隆起して作られたかのような、圧倒的な質量と威圧感を持っていた。城壁の上には等間隔で巨大な篝火が焚かれ、その赤々とした炎が、吹き荒れる雪を血の色に染め上げている。
城壁の巨大な鉄扉が、地鳴りのような重低音を響かせながらゆっくりと開き始めた。
「歓迎しよう、エレノア嬢。ここが、我が領地の入り口、そして我らが『盾』だ」
馬を下りたレオンハルト大公が、わたくしの傍らに立ち、その巨大な城壁を見上げて言った。
「素晴らしい堅牢さです。これならば、いかなる軍勢であろうとも、一歩たりとも退かせることはないでしょう。王国の東の果てに、このような偉大なる防壁が存在していたとは」
わたくしは、心からの感嘆を込めて言った。王都の貴族たちは、魔獣の脅威を過去のものと笑うが、この地では今もなお、人類の生存を賭けた戦いが続いているのだ。その事実が、この城壁の無数の傷跡からひしひしと伝わってくる。
砦の中へと足を踏み入れると、そこは一つの独立した軍事都市の様相を呈していた。
整然と立ち並ぶ石造りの兵舎、火花を散らす鍛冶場、そして吹雪の中でも黙々と鍛錬を続ける屈強な兵士たち。王都の華やかさとは無縁の、鉄と血と汗の匂いが立ち込める空間。しかし、そこには確かな「生」の活力があり、淀みのない澄んだ規律があった。
レオンハルト大公の帰還を知り、砦の司令官をはじめとする多くの武将たちが集まってきた。彼らは皆、一癖も二癖もある歴戦の強者たちであったが、大公の前に立つと一様に深く頭を垂れ、絶対的な忠誠を示した。
「閣下、ご無事の帰還、何よりに存じます。……して、そちらの麗しき御方は?」
砦の司令官である初老の騎士が、わたくしを見て驚きの表情を隠せずに尋ねた。無理もない。東方の最前線たるこの過酷な砦に、極上のベルベットのドレスを纏い、王族ですら滅多にお目にかかれないような氷涙石のティアラを戴いた公爵令嬢が現れたのだから。
大公は、周囲の兵士たちにも聞こえるよう、よく通る声で告げた。
「皆の者、心して聞け。この御方こそ、アージェント公爵家が長女、エレノア・フォン・アージェント嬢である。王都の腐敗に抗い、たった一人で自らの誇りを守り抜いた、真に高潔なる魂の持ち主だ。我らはこの御方を、我が東方領における最上位の賓客として、いや、我が『盟友』として迎え入れる!」
その宣言に、場は一瞬の静寂に包まれた。
しかし、すぐに怒涛のような歓声が巻き起こった。
「北方の盾、アージェントの姫君だと!」「あの腐りきった王都から、自ら出てこられたというのか!」「見ろ、あの凛とした佇まいを。並の令嬢ではない!」
彼らは、王都の貴族たちのように、出自や見かけだけで人を判断しない。彼らが重んじるのは、その者の魂の強さと、行動の真実である。大公の言葉と、わたくしの微塵も揺るがぬ立ち姿を見て、彼らは即座にわたくしという人間を「認め」、受け入れたのであった。




