Ⅲ
静まり返った大広間に、わたくしの声だけが、冬の夜空に輝く星のように冷徹に、そして残酷なまでに美しく響き渡る。
わたくしは、完全に怯えきって抱き合う二人を見下ろした。
「わたくしは、王家に絶対の忠誠を誓い、この身を国家の礎と定めた女です。そのような下劣で、見え透いた、そして何より『品格を欠く』陰謀など、わたくしの誇りが断じて許しはいたしません。殿下、貴方様は、このわたくしを貶め、排除するにしては、あまりにも脚本が杜撰に過ぎます」
「き、きさまぁっ……!」
己の論理の破綻と、底の浅さを完全に暴き出されたユリアン殿下は、顔を真っ赤にして激高した。
「この不敬なる魔女め! 近衛兵! この女を直ちに捕らえよ!! 反逆罪として、地下の冷牢へぶち込め!!」
殿下が狂乱したように絶叫する。
しかし、広間の壁際に控えていた近衛兵たちは、互いの顔を青ざめたまま見合わせるだけで、誰一人としてわたくしに向かって動こうとしなかった。わたくしが全身から放つ、犯しがたい圧倒的なまでの威光と、武門の頂点たるアージェントの血の圧力に、彼らの本能が「この者に剣を向ければ、魂ごと斬り裂かれる」と激しい警告を発していたのである。
「何をしている! 余の命令が聞こえぬか!!」
誰も動かないことにさらに逆上した殿下が、自らの腰に提げた儀礼用の剣の柄に手をかけた、まさにその時であった。
「――その見苦しい三文芝居は、そこまでにしておけ、青二才」
地を這うような、重く、そして鍛え抜かれた鋼のように冷たく硬い声が、大広間の大扉の奥から響き渡った。
決して大きな声ではなかった。しかし、その声を聞いた瞬間、広間にいた百戦錬磨の老将軍たちですらビクリと肩を震わせ、広間の空気が、物理的な重みを持ってズシリと沈み込んだ。
群衆が、まるで海が真っ二つに割れるかのように、恐慌状態に陥りながら左右へと道を空ける。
そこを悠然と歩いてくるのは、一人の巨大な影であった。
漆黒の狼の毛皮で作られた分厚い外套を翻し、歩くたびにカチャリ、カチャリと、ブーツにつけられた銀の拍車を不気味に鳴らす男。
黒い髪の間から覗く、顔の右半分に深く刻まれた凄惨な剣傷が、彼がこれまでに潜り抜けてきた死線の数と、その苛烈な人生を如実に物語っている。
残された左の瞳、獲物を狙う鷹のように鋭い黄金色の隻眼が、広間の人間すべてを値踏みするように見据えていた。
隻眼の、恐るべき覇王。
東方大公、レオンハルト・フォン・ドラグノフ。
現国王の弟にして、周辺諸国から「鮮血の大公」と恐れられる、大陸最強の武将と呼ばれる男であった。彼が王都に滞在していることすら、この場の誰一人として知らなかったはずである。
彼は、完全に青ざめて硬直するユリアン殿下を一瞥すらせず、真っ直ぐにわたくしの前へと歩み寄った。
そして、大公である彼が。王族である彼が。
誰よりも誇り高く、誰よりも恐れられ、数多の敵兵の血を啜ってきたあの「鮮血の大公」が。
わたくしの前で、外套を翻して静かに片膝を突き、深々と、臣下としての最上級の礼をもって頭を垂れたのである。
「レオンハルト……叔父上……!? な、なぜ、貴方がここに……いや、なぜ、そのような毒婦に膝を屈しておられるのです……!」
ユリアン殿下の、悲鳴のような、ひっくり返った声に、レオンハルト大公はゆっくりと立ち上がり、冷酷な黄金の隻眼を向けた。
「黙れ、痴れ者が。貴様らのような、温室でぬくぬくと育った蛆虫どもには、この御方の真の美しさが、その果てしなく高い気高さが見えぬと見える」
大公の言葉は、静かでありながらも、雷鳴のように広間を震わせ、すべての者の心臓を鷲掴みにした。
「この娘は、たった一人で、貴様ら数百の愚か者を前にして、一歩も引かず、ただ真実のみを武器に己の誇りを守り抜いた。いかなる恐怖にも屈せず、いかなる悪意にも染まらず、ただ真っ直ぐに立ち続けた。その孤高なる精神の在り方こそが、我がロヴェール王国が本来持っていたはずの、真の『貴族』の姿である。他国から買い集めた見せかけのドレスや宝石で着飾っただけの、お前のような薄っぺらな男に、彼女を断罪する資格など万に一つもない!」
レオンハルト大公は、周囲の者たちが息をすることすら忘れる中、再びわたくしに向き直った。そして、ゴツゴツとした、幾つもの無骨な傷跡が刻まれた分厚い手で、わたくしの純白の手袋に包まれた手をそっと、まるで壊れ物を扱うかのように優しく取った。
「エレノア・フォン・アージェント公爵令嬢。いや――我が魂の主よ。このような腐敗しきった下劣な場所は、貴女の清らかなる白百合の如き御霊には、決して相応しくない」
彼は、わたくしの手の甲に、深い敬愛と忠誠に満ちた口付けを落とした。
「私と共に来られよ。王都を捨て、我が東方の凍てつく大地へ。そこは過酷な死の土地だが、偽りはない。我が領地ならば、我が軍勢ならば、貴女のその気高い美しさを、誰よりも正しく、誰よりも尊く、命の限り守り抜いてみせよう」
大公の黄金の隻眼が、至近距離でわたくしを真っ直ぐに射抜いていた。
そこにあるのは、哀れみでも、政略的な計算でもない。わたくしという人間の本質を、鋼のように硬く冷たい魂の形を、絶対的な肯定をもって見つめる、熱を帯びた眼差しであった。
その瞬間。
幼い頃から、どれほど厳しい修練を積んでも、どれほど冷たい言葉を投げかけられても決して揺らぐことのなかったわたくしの中で、初めて、何かが小さく震えた。
厚い氷で覆われ、永遠に凍りついていたはずの心臓の奥底に、微かな、しかし確かな熱が灯るのを感じる。
わたくしの生き方は、わたくしの守り抜いてきた誇りは、決して間違いではなかったのだ。
「……レオンハルト大公閣下」
わたくしは、静かに、しかし力強く、彼のごつごつとした大きな手を握り返した。
わたくしの声は、もはや平坦ではなかった。そこには、初めて己の意志で運命を切り拓こうとする、生命の響きがあった。
「わたくしの誇りは、誰にも奪わせはいたしません。……ええ、参りましょう。貴方様と共に。真実のみが存在する、貴方の領地へ」
わたくしは、呆然と立ち尽くし、ただ震えることしかできないユリアン殿下とセリア嬢に、二度と視線を向けることはなかった。
ただ、レオンハルト大公の力強いエスコートに従い、王太子の婚約者という虚飾の地位を捨て、群衆に背を向けた。
大広間の重厚な扉が開かれ、外の猛吹雪が容赦なく吹き込んでくる。
しかし、不思議なことに、その冷たく荒れ狂う風は、今のわたくしには少しも寒くは感じられなかった。むしろ、宮廷の澱んだ空気を洗い流す、心地よい清風にすら思えた。
背後で、ようやく事態を呑み込んだ王太子の絶望的な叫び声と、崩れ落ちるような足音が響いた気がしたが、それすらもはや、遠い別の世界の下等な出来事のように思えた。
こうして、わたくしエレノア・フォン・アージェントは、王都を自らの意志で去った。
否。
これは追放ではない。逃亡でもない。
自らの誇り高き魂に従い、凍てつく真冬の空の下、真なる夜明けへと向かうための、栄光に満ちた最初の一歩を踏み出したのである。




