76.鹿
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鹿は動かなかった。
ただ静かに、こちらを見ている。
周囲の魔物たちも襲ってこない。
火吹きザルも。
風刃を放っていたハヤブサも。
全てが距離を取り、鹿の後方で待機していた。
まるで王を前にした従者だった。
ミハイルが小さく呟く。
「……なんなんですか、あれ」
「わからん」
ヴェルナも珍しく警戒を崩していなかった。
だが。
俺には見えていた。
鹿の周囲。
空気中へ広がる魔力波。
淡く脈動している。
一定ではない。
揺らいでいる。
波形が変化している。
規則性。
反復。
間隔。
俺は小さく目を細めた。
「……なるほど」
「何かわかったのか?」
ヴェルナが聞く。
俺は鹿から目を離さない。
「会話している」
沈黙。
「は?」
ヴェルナが眉をひそめる。
「いや待て、鳴いてねぇぞ」
「声ではない」
俺は静かに答える。
「魔力波だ」
ミハイルが困惑した顔になる。
「魔力波……?」
「人が魔法を使う時、何をする?」
「え?」
「術式を展開して、呪文を……唱えます」
「そうだ」
俺は頷く。
「術式は設計図」
「呪文は魔力波へ指向性を与えるためのものだ」
ヴェルナが腕を組む。
「……つまり?」
「言葉そのものが魔力波へ影響を与えている」
静かな森の中。
鹿の角が淡く明滅する。
「言霊というやつだ」
俺は小さく呟いた。
「人は言葉を発するだけで、無意識に魔力波を歪ませている」
「術式を作った人間は、おそらくそれを理解していた」
「魔力波が見えない人間でも魔法を使えるよう、言葉と術式を紐づけたんだろう」
ミハイルが呆然としていた。
「じゃ、じゃあ……」
「こいつは言葉を使わず、直接魔力波を操作している」
鹿を見る。
角が星空のように煌めいていた。
そして。
再び魔力波が揺れる。
『…………』
意味が流れ込む。
声ではない。
だが確かに理解できた。
「立ち去れ、と言っているな」
ミハイルが目を見開く。
「わかるんですか!?」
「ああ」
ヴェルナも若干引いていた。
「お前ほんと何なんだ……」
鹿の光が強くなる。
『…………』
「“この地に相応しくない者は入るな”」
ミハイルが恐る恐る鹿を見る。
「も、もしかして守り神って……」
『…………』
今度は強い揺らぎだった。
鹿の視線がヴェルナへ向く。
空気が変わる。
ヴェルナが顔をしかめた。
「……なんだよ」
俺は少しだけ目を細める。
「吸血鬼に魅了されたのか、と聞いている」
空気が止まった。
「え?吸血鬼って…?」
ミハイルが思わずソロモンを見る。
「ヴェルナのことだ」
ヴェルナは舌打ちした。
「はぁ?」
鹿の周囲の光が揺れる。
『…………』
「“なぜ共にいる”」
ヴェルナが剣へ手をかけかける。
「……気に入らねぇ鹿だな」
「落ち着け」
俺は短く言った。
「敵意は薄い」
「観察しているだけだ」
鹿は静かにこちらを見ている。
知性。
理解。
明らかに普通の生物ではない。
ミハイルが恐る恐る聞いた。
「先生……なんで会話できるんですか?」
「完全に理解しているわけではない」
俺は鹿を見る。
「だが、魔力波の変化には規則性がある」
「感情だけじゃない」
「意味を持って構成されている」
「つまり言語だ」
鹿の角がわずかに明滅する。
『…………』
今度は短い。
だが、驚きが混じっていた。
「こちらの言葉がなぜ理解できるのか、と」
ヴェルナが頭を押さえる。
「もう意味わかんねぇよ……」
俺は静かに答える。
「お前が魔力波を使っているからだ」
鹿の瞳が細くなる。
周囲の空気がわずかに震えた。
『…………』
「“見えているのか”」
「ああ」
短く答える。
「常に観測している」
沈黙。
森が静まり返る。
風も止まっていた。
鹿は俺を見ている。
まるで値踏みするように。
そして。
角の光がゆっくり強くなった。
『…………』
今度は長い。
複雑だった。
ミハイルには当然わからない。
「なんて言ってるんですか?」
俺は少し黙る。
そして静かに答えた。
「……“お前は、人にしておくには惜しい存在だな”」
ヴェルナが眉をひそめる。
「おい?」
鹿の光が揺れる。
『…………』
森の奥。
暗い方角。
そこから、魔力波が"発生"していた。
不自然なほど巨大な揺らぎ。
鹿はそちらを見たまま動かない。
そして。
『…………』
今度の揺らぎだけは、はっきりしていた。
警告。
拒絶。
恐怖。
ミハイルが小さく息を呑む。
「……何て?」
俺は森の奥を見る。
そして静かに呟いた。
「――“あれ”へ近づくな、と言っている」
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