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第10話:露天風呂

 文明社会において、最も恐ろしい音とは何か。

 爆発音? 悲鳴?

 違う。

 水道の蛇口を捻った時に聞こえる、ゴボッ……シュウ……という、空気が抜けるような虚しい音だ。


「……出ない」


「……うん」


 俺とすずめは、キッチンのシンクの前で立ち尽くしていた。

 蛇口を全開にしても、一滴の水も落ちてこない。

 代わりに、郵便受けに入っていた一枚のハガキが、事態の深刻さを告げていた。

 『給水停止のお知らせ』。

 理由は単純明快。料金未納だ。


「……ごめんなさい、水も飲めないね……」


 すずめが深く項垂れる。

 思い当たる節はあった。いや、ありすぎる。

 先日の北海道物産展での出来事だ。


 リナの無邪気な笑顔と肉の焼ける匂いに絆され、俺たちはあろうことか3000円もするサイコロステーキを奢ってしまったのだ。

 あの時の無理が祟って、ついには水道代すら払えない状態になってしまったのだ。

 その重すぎる代償が、今、俺たちの喉の渇きと体のベタつきとなって返ってきている。


「俺が悪いんだから、すずめが謝る必要はない……」


 給水停止のハガキを虚ろな目で見つめながら、ボソボソと呟く。その後悔の念は底知れない。


 水がないというのは致命的だ。

 料理もできない。トイレも流せない。

 そして何より、ベタついた身体を洗うこともできない。


「銭湯に行く金は?」


「……ない。大人480円×2人分なんて、あったら水道代を払ってる」


 俺たちは絶望した。

 だが、汗は止まらない。

 このままでは、汗臭いカップルとして共倒れだ。


「……行くか」


「……どこへ?」


「公園だ」


 俺は決意の目で言った。

 深夜の公園。

 そこには、誰にでも平等に開放されたオアシスがある。


 ***


 午前二時。

 草木も眠る丑三つ時。

 俺たちはタオルと着替えを持って、近所の児童公園に潜入した。

 公園の街灯は薄暗く、人影はない。

 あるのは、ブランコが風に揺れる音と、虫の声だけだ。


「よし、誰にも見られてないな」


「……怖い。お化け出そう」


「お化けより人間の方が怖い。特に警察な」


 俺たちは水飲み場の前に陣取った。

 蛇口を捻ると、勢いよく水が噴き出した。

 文明の音だ。


「冷たい!」


「……しっ、声がデカい」


 俺はタオルを濡らし、身体を拭き始めた。

 冷たい水が肌を滑り、汗と汚れを拭い去っていく。

 その快感たるや、高級ホテルのジャグジーにも勝るとも劣らない。


「……気持ちいい……」


 すずめも濡れタオルで首筋や腕を拭いている。

 月明かりの下、服の隙間から見える濡れた肌が艶めかしく光る。


「……背中、拭こうか?」


「おお、助かる」


 すずめは当然のように俺の背後へ回ると、冷たいタオルを背中に当てた。


「うぉっ、冷たっ!」


「……我慢して。……あなた、今日ずっと汗かいてたから」


 最初は単なる親切だと思っていた。だが、タオルの動きは次第に背中から脇腹、胸板、さらには首筋から腹筋へと、不必要に広範囲を蹂躙し始めた。すずめの手がベタベタと肌に触れてくる。

 荒い息遣いが耳元から聞こえてきた。


「おい、すずめ? 前は自分で拭けるから……、そこ腹筋! 撫で回すな!」


「……大丈夫。私が、隅々まで全部綺麗にしてあげるから……あ、汗ばんだ筋肉……すき……」


「完全に性欲のバケモノになってるぞ! タオル貸せ!」


 俺は強制的にタオルを奪い取った。暗闇に紛れているが、すずめの目が完全に据わっている。油断するとすぐこれだ。

 とはいえ、やられっぱなしというのも性に合わない。


「じゃあ次、俺が拭くから後ろ向いてろ」


「……え?」


「背中、自分じゃ無理だろ」


 すずめはびくっと肩を揺らし、すこし視線を彷徨わせた後、観念したように俺に背を向けた。

 白いうなじから肩、そして薄い服越しの細い背中が月明かりに浮かんだ。


 俺はため息をつきながら、冷水を含んだタオルをそっと彼女の背中に当てた。

 肩から背骨に沿って、ゆっくりと下へ滑らせる。


「……ひゃんっ」


 いきなり変な声が出た。


「おい、変な声出すな。誰かいたらどうするんだ」


「……ち、違うの。……冷たいのと……あなたの手が……あっ、そこ、だめぇっ」


 すずめは俺がタオルを動かすたびに「んっ」「はぁっ……」と、深夜の公園に全くそぐわない艶かしい声を上げ続けた。

 俺に体重を預けるみたいに寄りかかってくるため、拭く作業がひたすらやりづらい。


「前も……! 拭いて!」


「そこは自分で拭けるだろ!」


 公園の水飲み場で、深夜二時に、男女が背中を拭き合っている。

 自分から仕掛けた勝負とはいえ、どう見てもただの変態にしか見えない。

 俺の額からは冷水で拭ったはずの汗が、別の焦りとともに噴き出していた。


「洗髪はどうする? バケツ持ってきたか?」


「うん。……シャンプーもあるから、最後にバケツで洗い流すの手伝って」


「任せろ」


 俺たちは交互に頭を流し合った。

 水道代の代償を噛み締めながら、冷水で流すシャンプーは頭皮と心に沁みる。


 そうして全身を拭き清め、サッパリとした気分でベンチに座った。

 夜風が濡れた髪を撫でていく。


「悪くないな」


「……うん。露天風呂みたい」


「それは言い過ぎだ」


 俺が苦笑した、その時だった。


 ザッ、ザッ、ザッ。


 砂利を踏む音が近づいてきた。

 誰か来る。

 警察か? 通行人か?


「隠れろ!」


 俺はとっさに彼女の肩を抱き寄せ、滑り台の裏側の暗がりへと押し倒した。

 ドサッ。

 砂の上に倒れ込んだ彼女に、俺の身体が覆いかぶさる形になる。


「……っ……」


 彼女が小さく息を呑んだ。

 密着した身体から、生々しい感触が伝わってくる。

 薄い生地が肌に張り付いているのがわかる。

 冷たいはずの水滴が、熱を帯びて俺の肌に触れる。

 暗闇の中で、彼女の濡れた瞳が潤んで俺を見上げていた。


 現れたのは、ジャージ姿の女性だった。

 首にタオルをかけ、スマホを見ながら歩いている。


「あー、卵孵化しないなー」


 その能天気な独り言。

 聞き覚えがありすぎる。


「リナだ……」


「……またあいつ……」


 リナだった。ポケモンGOでもやっているのだろうか。

 リナはしばらく周りをウロウロしたあと、水飲み場の方へ近づいてきた。


「喉乾いたー。水飲も」


 彼女が蛇口に口を近づけようとした瞬間。

 彼女の足が止まった。

 地面に落ちているある物に気づいたからだ。


「あれ?」


 それは、俺たちが慌てて置き忘れた、濡れた手ぬぐいだった。

 しかも、よりによってすずめがお気に入りの、ピンク色のハート柄の手ぬぐいだ。

 リナはそれを拾い上げ、首を傾げた。


「誰かの忘れ物? ……これ、お義姉さんのじゃん……なんでこんなところに」


 リナの視線が、公園の周囲を彷徨う。

 そして、俺たちが隠れている滑り台の方へ。


 ガッツリ目が合った。

 そう認識した瞬間、リナの顔がパッと赤くなる。


「キャッ! もしかして……その……イチャイチャした後に……!?」


 リナは口元を押さえ、妄想を爆発させた。

 水飲み場。濡れた手ぬぐい。深夜の公園の暗がりに潜む男女。

 彼女の貧弱な恋愛脳が導き出した答えは、「野外プレイ」だったらしい。


「す、すみません! お邪魔しましたー!」


 リナは手ぬぐいをその場に丁重に置き直すと、脱兎のごとく走り去っていった。

 全速力で。


「……行ったか?」


「……うん」


 俺たちは滑り台の陰から這い出した。

 冷や汗が出た。せっかく身体を拭いたのに、また汗だくだ。


「……誤解されたな」


「……うん」


「野外プレイカップルだと思われた方が、水が止まった貧困カップルだと思われるよりは、まだ尊厳が保たれる」


「……そう?」

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