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第9話:バイキングに行こう

 あの日、すずめは一切の妥協を許さなかった。

 隣人のリナが置いていった、あの手作りハンバーグへの強烈な対抗心。それが、彼女の中の料理人魂を完全に目覚めさせてしまったのだ。


 宣言通り、すずめは翌日、近くのスーパーで特売の豚こま肉を奮発して買い込んできた。

 そして、包丁で親の仇のように、しかしどこまでも丁寧に、トントントントンと果てしない時間をかけて粗引きのミンチを作り上げたのだ。

 つなぎのパン粉は食パンの耳を削って作り、玉ねぎはじっくりと飴色になるまで炒められた。

 完成した巨大なハンバーグは、肉汁がナイフを入れた瞬間に滝のように溢れ出す、まさに極上のハンバーグだった。


「……どう? あいつの肉団子より、美味しい?」


 上目遣いで、包丁を背後に隠し持ちながら尋ねてくる彼女に、俺はハンバーグを頬張りながら頷いた。


「最高!世界で一番美味しい!」


「……ふふっ。よかった」


 そうして、俺たちは大満足の夕食を終えた。

 本当に美味しかった。あんなに手の込んだ、愛情の詰まった料理を食べられる俺は、間違いなく幸せ者だ。


 しかし、現実は非情である。

 あの世界一のハンバーグは、俺たちの脆弱な家計を直撃した。

 予定していた数日分の食費を、あの一食で完全に使い果たしてしまったのだ。

 結果として、その日から俺たちの食卓は、見渡す限りの白銀の世界――つまり、もやし一色に染まった。

 もやし炒め、もやしのおひたし、もやしスープ。バリエーションこそあれど、主成分は水分とわずかな豆の風味のみ。

 動物性タンパク質のカケラもない、完全なる草食動物の生活環境が構築されてしまった。


 そして今日で、もやし生活7日目。

 俺の肉食いたい欲は、ついに限界臨界点を突破しようとしていた。


「すずめ……俺、もう駄目かもしれない……」


 ちゃぶ台に突っ伏したまま、俺は焦点の合わない目で天井の木目を数えていた。


「……ごめんね。私が、見栄を張っちゃったから……」


 内職の造花を作りながら、すずめが肩を落とす。

 彼女の華奢な手元では、今日も無機質なビニールの花が着々と量産されていた。一本一円。

 この果てしない作業を何百回と繰り返さなければ、あの日のハンバーグ代は回収できないのだ。


「いや、あのハンバーグは本当に美味かった。悔いはない。でも……でも肉が食いたい。せめて切れ端でいい……!」


「……待ってて。昨日、公園で罠を仕掛けておいたから。ひょっとしたら、丸々と太った鳩が……」


「急にサバイバルすぎるだろ! 回収してこい!」


 俺のツッコミを受けて、すずめはしょんぼりとうつむいた。

 いかん、彼女を責めたいわけじゃないんだ。ただ、脳が、体が、強烈なアミノ酸を求めているだけなのだ。

 気分転換にでもなればと、俺はフラフラと立ち上がり、アパートの郵便受けを見に行った。

 家賃の督促状か、電気料金の赤い紙か。そんなものしか入っていないポストを開けると、珍しくカラフルなチラシが目に飛び込んできた。


『秋の大北海道物産展!! 〜北の大地からの贈り物〜』


 駅前のデパートで開催される物産展のチラシだった。

 普段なら「ふーん、金持ちの道楽だな」で即座にゴミ箱行きだが、今の俺の目は、チラシの隅に小さく書かれたある一文に釘付けになった。


『各店、試食あり! 北の味覚を心ゆくまでご堪能ください!』


「……し、試食……」


 ゴクリ、と唾を飲み込む。

 試食。それは、無料で提供される神々の恵み。貧者のオアシス。

 北海道物産展といえば、ソーセージ、いくら、ジンギスカン、チーズ、カニ……夢のような高タンパク食材たちのオンパレードではないか!


 俺はチラシを握りしめ、弾かれたように部屋に戻った。


 ***


「……ここが、北海道……」


「いや、駅前のデパートだぞ」


 休日の昼下がり。

 俺とすずめは、普段着のスウェットとパーカーという完全なるオフモードの姿で、デパートの最上階に足を踏み入れていた。

 周囲は、いかにもお金を持っていそうなマダムや、休日を楽しむ家族連れで溢れている。

 だが、そんなことなど気にならないほど、フロア中に充満する匂いが俺たちの理性を吹き飛ばそうとしていた。


 焼ける肉の匂い。醤油とバターの焦げる匂い。海の幸の潮の香り。

 もやし7日目の俺たちにとって、ここはまさに天国だった。


「……すごい。空気が、美味しい……」


「深呼吸だけでご飯3杯いけそうだな。でも、今日は実際に食うぞ、すずめ」


 俺たちの作戦は単純明快。


『試食コーナーを巡って、ひたすらタダで腹を満たす』


 無論、一人でバクバクと何個も食べるわけではない。

 買い物に来たけど、買うかどうか迷っている客を装って、少しずつ味わうのだ。


「よし、まずはあそこだ!」


 俺が指差したのは、威勢の良いお兄さんが立っている『北海道産手作りソーセージ』のブースだった。

 ホットプレートの上で、パリッと音を立てながら様々な種類のソーセージが焼かれている。

 爪楊枝に刺されたソーセージの破片が、小皿の上に並べられていた。


「いらっしゃい! お兄さん、お姉さん! 焼きたてだよ、食べてって!」


「あ、じゃあ……すいません、いただきます」


 俺は震える手で爪楊枝を手に取り、口に運んだ。

 パリッ。

 ジュワァァァァッ。


「う……うおおおおおおっ!!」


 口の中に爆発的に広がる、豚肉の強烈な旨味とスパイスの香り。

 7日ぶりの肉!! アミノ酸!! 圧倒的なカロリー!!

 俺の細胞の一つ一つが歓喜の声を上げている。もやしという名の冬の時代は終わりを告げ、俺の体に春が来たのだ。


「……美味しい」


 隣で、すずめも目を丸くしてソーセージを咀嚼していた。


「お一ついかがですか!」


「あ、すいません、ちょっと他のも見たいんで!」


 俺は適当に流しつつ、自然にその場を離れることに成功した。


 よし、次だ次!

 二人はフロアを練り歩く。


「お兄さん、こっちのいくらもつまんでって!」


「あ、はい!」


 プチプチと弾けるいくらの醤油漬け。濃厚な海の恵み。

 濃厚なカマンベールチーズ。

 生ハム、カニカマ、ホタテの浜焼き。


 次々とターゲットを発見し、俺たちは順調にタンパク質を摂取していった。

 店員たちの攻勢適当にスルーしつつ、俺の胃袋は確実に満たされていく。

 作戦は完璧に成功していた。誰にも怪しまれず、一円も使わずに、高級食材を味わうことができている。

 素晴らしい。北海道最高。試食バンザイ。


 もう十分にお腹も膨れたし、そろそろ帰ろうか。

 そう思った時だった。


 フロアの奥。『十勝牛 プレミアムステーキ』と書かれた巨大なのぼりの下から、やけに聞き覚えのある元気な声が響いた。

 ビクッとして振り返ると、そこには見慣れた赤いバンダナを頭に巻き、法被を着て鉄板の前に立つ少女、隣の部屋に住む、春日井リナの姿があった。


 目が合った。

 エプロン姿の春日井リナだ。


「えっ、お兄ちゃん!? お義姉さん!?」


 リナが大声を上げた。

 周囲の客が一斉にこちらを見る。

 まずい。非常にまずい。


「しっ! 静かにしろリナ!」


「え、なんでここに? 買い物?」


「いや、その……」


「リ、リナちゃん……ここでバイトしてるの……?」


 彼女がおずおずと尋ねた。


「はい! 夏休みの短期バイトです! まさかお兄ちゃんたちが来てくれるなんて!」


 リナは満面の笑みで、皿に山盛りの肉を乗せた。


「ほら、食べてください! 身内サービスです!」


「ば、バカ、そんなに盛ったら……!」


「いいじゃないですかー。どうせ試食ですし!」


 リナは悪気なく、本来一人一個のサイコロステーキを、五個も六個も突き出してくる。

 周囲の客からの「あいつら知り合いか?」「ズルじゃね?」という視線が痛い。


「ありがとう……いただくよ」


 俺は冷や汗を流しながら肉を受け取った。

 口に入れると、極上の脂が溶け出した。

 美味い。死ぬほど美味い。

 だが、居心地の悪さは異常だった。


「どうですか? おいしいですか?」


「あ、ああ……最高だ……」


「よかったー! じゃあ、これお土産に包みますね!」


「は?」


「はい、商品!」


 リナは手際よく精肉パックを袋詰めし、レジに打ち込んだ。


「お会計、3千円になります!」


「……え」


「えっ」


 俺と彼女は凍りついた。

 リナはニコニコと笑っている。


「リナちゃん……私たち、お金が……」


「あれ? お財布、忘れちゃったんですか?」


「……」


「……」


 沈黙。

 致命的な沈黙。

 無論、リナは俺達が貧乏であることは知っているだろう。

 しかし、しかしだ。まともな大人が、まさか買う気のない試食目的で北海道フェアに来るだろうか。


 リナの笑顔が、「まさか大人二人が揃って財布も持たずにデパ地下に来たなんてないですよね?」という純粋な信頼に輝いている。


 逃げられない。

 この空気で「金がないから買えない」とは言えない。

 これだけ食べて黙って立ち去るなんて、俺の肝はそこまで座っていないのだ。


 俺は震える手で、スーツの内ポケットを探った。

 そこには、封筒が一枚入っている。

 つい先日、俺と彼女が血の滲むような思いでやり遂げた「造花作り内職」の報酬だ。

 3千個作って、3千円。

 指先の皮がめくれ、肩が凝り固まり、精神が摩耗するほどの単純作業の結晶。

 それを、今ここで使うのか。

 たかがサイコロステーキ数切れのために。


「……あなた……」


 彼女が俺の袖を掴む。

 その瞳は潤み、「やめて、それは豚こまが3kg買えるお金よ……!」と訴えている。


 だが、俺は首を横に振った。

 ここで支払わなければ、社会的に終わる。

 プライドと社会的信用を守るための必要経費だ。


「……リナちゃん。これ、受け取ってくれ」


 俺は封筒から1000円札を3枚取り出し、カウンターに置いた。

 指先が離れない。

 お札が俺の指に吸い付いているようだ。


「はい! ありがとうございます!」


 リナは満面の笑みで、俺の指からお札を引き剥がし、レジに吸い込ませた。

 チャリーン、という音が、俺の心臓を抉る。


「はい、お買い上げありがとうございました! また来てくださいね!」


 リナから渡された精肉パックはずっしりと重かった。

 そして、俺の心もずっしりと重い。


 百貨店の外に出ると、夕方の熱気が俺たちを包んだ。

 俺たちは無言で帰り道を歩いた。


「……3千円……」


「……うん……」


「造花、3000個分……」


「……うん……」


 その夜。

 六畳一間の薄暗い部屋で、高級ステーキ肉を一切れずつ、涙を流しながら味わって食べた。

 極上の味だ。きっと、労働の汗と涙のスパイスが効いているのだろう。

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