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第11話:お茶会

「……ふふっ、卵一パック、98円……これは勝負時」


 そう言い残し、すずめがボロボロのスニーカーを履いて出陣していったのは、今から一時間ほど前のことだ。

 なんでも、隣町のさらに向こうにあるスーパーで、今日限定の卵特売祭りが開催されているらしい。

 1家族1パック限定、そのお値段なんと98円。物価高の今、このお値段は破格だ。

 片道一時間、往復二時間をかけてでも、買いに行くだけの価値がある。


 おかげで、俺は久々に一人きりの時間を満喫していた。

 まあ街で遊ぶ金もないから、家で漫画を読むぐらいしかすることがない。


「この漫画、もう5回ぐらい読んだよな……」


 コンコンコン。


 玄関のドアが、軽やかにノックされた。

 すずめにしては早すぎるし、あいつなら勝手に鍵を開けて入ってくるはずだ。

 セールスか、あるいは宗教勧誘か。

 俺は少し警戒しながら、チェーンを掛けてドアを開いた。


「にーちゃん!」


 隙間から顔を覗かせたのは、隣に越してきた女子大生、春日井リナだった。

 彼女はショートヘアを揺らしながら、人懐っこい笑顔を向けてくる。今日も相変わらず、無警戒で眩しい陽キャのオーラを放っていた。


「リナか。どうした?」


「お義姉さん、さっき出かけてったの見えたからさ。にーちゃん一人でお留守番でしょ? よかったら、うちでお茶でもしないかなーって思って!」


「お茶?」


「うんっ! 実は実家からちょっといいお菓子が送られてきてさ。それに私も新作のクッキーを焼いてみたから、一人じゃ食べきれないし、味見も手伝ってほしくて!」


 お菓子。

 その三文字が脳髄に到達した瞬間、俺の理性が吹き飛んだ。

 お菓子だと!? 最後に俺が砂糖の塊なるものを口にしたのはいつだ? 

 もはや前世の記憶レベルである。

 最近食べた甘いものといえば、もやしを噛み締めた時に滲み出るデンプンの甘みくらいだ。


「お言葉に甘えさせてもらおうかな!」


 俺は光の速さでチェーンを外し、ドアを全開にした。

 すずめが帰ってくるまでにはまだ一時間は余裕がある。

 あいつがいたらリナとお茶なんて許してもらえないだろうし、ササッとお菓子を堪能しないとな。


***


「おぉ……天国だ……!」


 リナの部屋に足を踏み入れた瞬間、俺は思わず感涙にむせいだ。

 換気された部屋には心地よい春風が通り抜け、ほのかに甘い香りが漂っている。さらに、テーブルの上には淹れたての紅茶。そして、美しい焼き色のついた実家からの高級フィナンシェと、いびつだが素朴な手作りクッキーの山。

 なんというブルジョワ! なんという文化的な生活!


「どうぞどうぞ、遠慮しないで食べてね!」


「あ、ああ……いただくよ」


 俺は震える手でお菓子を口に運んだ。

 ……甘い。あふれ出す圧倒的なバターの風味と糖度。暴力的な幸せが、脳みその中で弾けまわる。


「う、美味すぎる……なんだこれ、本当に食べ物か? 糖分が、糖分が俺の細胞を生き返らせていく……っ! 手作りクッキーも絶品だ!」


「あははっ、にーちゃん大げさだよー。でも喜んでもらえてよかった!」


 お菓子の甘みに舌鼓を打った後は、高級そうな紅茶を喉に流し込む。

 茶葉の香りを楽しみ、甘味を食らう。これが本来の人間らしい営みだったのだ。監禁と限界節約生活を繰り返すうちに、俺は大切な何かを見失っていたらしい。


「いやあ、助かったよ。最近は甘いものを買う余裕もなかったからなぁ」


「お義姉さんは大丈夫なの? そんな息の詰まるところばっかりにいたら、具合悪くならない?」


 リナは首を傾げながら、不思議そうに尋ねてきた。


「あいつは……まあ、しぶといというか、俺がいれば満足らしい」


「へえ〜。おふたりって、やっぱりラブラブなんだね! いつも一緒にいるし」


「ラブラブというか、まあ……色々と複雑な事情が……」


 どうしてこんな生活になったのか、俺でさえ上手くできる自信がない。

 俺は適当に愛想笑いを浮かべて誤魔化した。


しかし、リナの追及はそこで終わらなかった。


「ねえねえ、にーちゃんたちって、結婚してどれくらいなの?」


「えっ? あ、いやあ……どれくらいだったかな。まだ浅いというか、うん」


「ふーん。どっちから告白したの?」


「そ、それは……向こうから強引に、というか……」


 俺の額から、紅茶の熱さとは別の嫌な汗が吹き出し始めた。嘘をつくのが苦手な俺は、明らかに挙動不審になっていた。


「あれ?」


 リナは首を傾げ、俺の手元をじっと見つめた。


「にーちゃん、結婚指輪は?」


「あっ、いや、これは、その……貧乏だからな、まだ買えてないんだ。」


「ふーん義姉さんもしてないよね? いつもすっぴんだし、指輪もしてないの、ちょっと気になってたんだ。仕事はやめちゃったの? まあ、あんな職場、辞めて当然だと思うけど」


「ああ……そう、だな。あいつに無理矢理やめさせられたよ。今思えば滅茶苦茶な職場だったな……」


「へえ、よかったねー」


 リナはニコッと笑った。

 だが、その笑顔の奥に、いつもの無邪気さとは違う何か別の感情が混じっているような気がした。


「じゃあさ、結婚記念日はいつ?」


「けっ、結婚記念日?」


「うん。大切なお祝いでしょ? いつに入籍したの?」


「それは……春くらい……いや、秋だったかな! バタバタしてて、ちゃんと覚えてなくて……」


 俺の答えを聞いた瞬間、リナは「っ」としばらく息を止め、それからクスクスと肩を揺らして笑い始めた。


「……あははっ、にーちゃん、嘘下手すぎー」


「えっ?」


「入籍した日を『春くらい?秋だったかな?』なんて答える旦那さん、この世にいないよ」


リナは持っていた紅茶のカップをコトリとテーブルに置いた。

 窓から吹き込んだ少し強い春風が、部屋の空気をスッと冷やしていく。

 彼女の目が、まっすぐに俺を射抜いた。


「……にーちゃんたち、本当は結婚してないんでしょ?」


 心臓が大きな音を立てた。

 俺は言葉を失い、ただ目を見開くことしかできなかった。


「あ……いや、それは……」


「お義姉さん、すっごいにーちゃんに執着してるっぽいのに、にーちゃんはそれほどなの、ずっと不自然だなって思ってたんだよね」


リナの細い指が、テーブルの上に置かれた手作りクッキーの皿の縁をなぞる。

 そして目を少し細めた後、念を押すようにもう一度俺に問いかけた。


「で、結婚してないよね」


「……ああ、そうだよ。結婚はしてない」


 そういった途端、リナは机に体重をかけて、身を前に乗り出しながらまくし立てた。


「どうだと思った! そうだよね! だって、いくらなんでも、にーちゃんが大好きで結婚した相手をあんな風にぞんざいに扱うなんてあり得ないもん。

 お義姉さんって、いつも自分のペースばかりで、にーちゃんへの気遣いが全然足りないじゃない?

 にーちゃんみたいに優しくて魅力的な人が、あんな息の詰まる貧乏くさい部屋にずっと押し留められて、あんな自分の感情ばかり押し付けてくるような人のワガママに付き合わされてるなんて、ずっとおかしいって思ってたんだ。

 おおかた、にーちゃんの人の良さにつけ込んで無理矢理家に住まわせて、養ってあげるからとか、変な恩を着せて仕方なく一緒にいさせてるってところでしょ?

 にーちゃんには、もっとちゃんと尽くしてくれて、大切にしてくれる人が他にいるのに!」


 穏やかな静寂の中、窓の外からは楽しげな鳥のさえずりが微かに聞こえてくる。


「……まあ、残念。足音が聞こえてきたから、早く家に戻ったほうがいいよ。続きはまた今度。その時はあの人との関係、ちゃんと教えてね!」

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