十六 この光景……
賭の虫
十六 この光景……
「久子さん、がんばりや。わいが一発当てて心臓にええもん食わしたる」
隆夫の狙いは、第四レースと第十二レースに出場する森村だった。引退間近の五十九歳になる競艇選手森村は、この前のレースとは大違いで調子が良かった。今回のリーグ戦では準決勝まで駒を進めていた。
四十年前の森村のまくり差しは、今でも目に焼き付いている。強烈だった。
競艇場に掲示された出場選手写真のなかで、森村だけが異様に老けていた。ひたいから頭頂部にかけて髪がなくなり、それを隠すように左耳の上の毛を頭頂部に張りつかせていた。顔にはつやがなく老人性のシミや斑点があった。目の輝きも鈍く見えた。
隆夫は第一レース、第二レース、第三レースと、肩慣らしのつもりで賭けていった。本命を中心に二連単を流して買う。毎レース当たるには当たったが、儲けはまったくなかった。いつのころからか三連単などという賭け方もあるが、隆夫は昔ながらの二連単しか賭けなかった。
狙いの第四レースがやってきた。展示走行での森村の走りはまずまずだ。もちろん隆夫は森村を中心に賭けた。今リーグの森村の調子を知ってか、この前ほど森村の評判は悪くなかった。だが、それでも穴とも評価されず、二連単の森村絡みのオッズは五十倍付近の高値が示されていた。
第四レース、森村は六番。コースもいつものとおり、第六コースにとって大外からスタートしていった。六艇は一斉にスタートフラグをくぐり、第一ターンマーク目指して突進した。森村は大外から舵を左に切り、ほかの舟の間を通ってターンマークをまわろうとした。だが、同じようにターンマークをまわるほかの舟に蹴とばされるように波を立てられ、まわったときには大きく外に膨れあがってすでに最下位に落とされていた。
「どアホ、なに、もたもたさらしとんねん」
隆夫は思わず叫んだ。右足で地面をどんと突いた。とたんにズキンとすねが痛んだ。隆夫は「ぐあっ」と叫んで、あとは声も出せないまましゃがみ込み、痛みが治まるのを待った。しばらくして歩き始めた。ずきっずきっと右足が痛む。病院では松葉杖がじゃまだと思うときもあったけれど、やはり持ってきて良かった。
狙いのレースを落としてしまった隆夫は、十二レースまでの間、細々と賭けていくしかなくなった。
競艇場には三、四歳の子どもを連れた若い男の姿があった。平日なのにあの男は仕事もせずにこんなところで舟券を買っている。隆夫は昔、幸子ひとりに仕事をさせて、幼い正一を連れてあの男のようにレース場に来たことを思い出した。
第五レース、第六レース、第七レースとレースごとに残金が増えたり減ったりしていった。昼を過ぎて隆夫は、焼きそばを食べながらつぎのレースの予想をしていた。目の前の予想屋が十人ほどの客を前に演説していた。
「さあ、悪いことは言わん、一点だけにしとき一点に。あんたら、ボートなめたらあかんで。ボート場には、確かにようさん金が転がっとる。大きいのん一発当てたら、当分食うていけるやろ。せやけどその金はな、みんなあんたらが落としていった金や。ボート場にはな、なんでも飲み込んでしまうブラックホールがあんねん。底なし沼のこっちゃ。百万や二百万の金はすぐに飲み込んでしまいよる。車の一台や二台、家の一軒や二軒でも軽いもんや。嫁はんも親も、子どもまで食うてしまいよるで」
「よっ、演説、うまいぞー」と観客がヤジを飛ばす。
「おおきに」
予想屋は帽子を取って礼を言ったあと続けた。
「さあ、どうや。どうせあんたら、親兄弟や嫁はん泣かしてここ来とんやろ。もう家一軒食われたか、娘の結婚資金食われたか、息子の入学金食われたか。親や嫁はん泣かしたなかったら、もうボートは止めとき。子どもを真っ当に育てたかったら、今すぐボートはやめて、帰ってこつこつ働き」
予想屋はここまでしゃべったあと、観客を見渡して声のトーンを変えて言った。
「せやけど、せやけどやで、どうしても今すぐに、ゼニがいるんや、言うんやったら、ワシの言う一点だけにしとき。さあ一点にしとき、一点に」
まわりにいた客が予想屋の最後の言葉にどっと沸いた。なかのひとりは神妙な顔をしていた。
第九レース、第十レースと過ぎていった。隆夫の残金はだんだん減っていく。つぎの十一レースである程度儲けておかないと、十二レースで賭ける金がなくなる。十一レース、隆夫は考えに考えて本命に賭けた。だが、買った舟券ははずれ、いよいよ水際に追い込まれてしまったのだ。
最終、第十二レースの投票がはじまった。隆夫の残金はわずか、帰りの運賃を残しておくと賭けることができる金は千円しかない。
第十二レースでは森村が出場する。前のレースで惨敗した森村は、このレースではさらに評価が低かった。もともと強豪がひしめく最終レースに、まぐれで勝ち残ってきたような森村、予想するに足らないとみられていた森村絡みのオッズは二連単でも軒並み百倍を超えた。
こんな森村でも隆夫だけには買われていた。六番のゼッケンをつけた森村、四十年も昔のあの鮮やかなまくり、きょうこそあの技を見せてくれるに違いない。隆夫の頭のなかには森村以外に一着になる選手はいなかった。「問題は二着や……」隆夫は六艇のボートの動きを頭のなかに思い浮かべた。
「だんごのなかから抜け出しよるやつは……」
第一ターンマークで森村艇に蹴散らされてだんごになっている残りの五艇の様子を頭のなかで想像する。しばらく考えたあと、隆夫は決断した。
「よし、こいつや!」
隆夫は二番手に入る者としてゼッケン四番の男を選んだ。連勝単式六―四、隆夫はこの一点に最後の千円をつぎ込んだ。人気のない二選手のオッズは千数百倍、配当金は十万円を越える。もし当たれば、隆夫は百数十万円の金を手に入れることになる。
「一世一代の勝負や。久子さん、待っといてや」
隆夫はそうつぶやいて舟券を握りしめた。
レースがはじまった。実況中継のアナウンスが場内に響く。
「各艇、思い思いのスタート位置につきました。一コース斉藤、二コース大石……。六コース森村、大外からのまくりを狙った位置です。」とアナウンスが流れた。
「大時計が回りはじめました。六コース森村がスタートしました。続いて五コース、四コース……」
六艇は一斉にスタートフラグの下を駆け抜けた。森村のボートは水面をうまくつかまえている。大外でぐんぐんスピードを上げていった。水面を跳ねずに滑っていくような森村艇の動きは、四十年前のあのときと同じだった。
第一ターンが近づいてきた。森村はぐいっと舵を切ってターンマーク目がけて突っ込んだ。ノーマークだった森村艇に直前を横切られた四艇のボートは、先に進むべき水面がなくなって一瞬止まったかのように見えた。
つぎの瞬間、森村はターンマークに舟の先端を絡ませていた。さらに森村は自分の前でターンマークをまわろうとしていた残る一艇を、これもぐいっと突き飛ばしてその内側を差した。
「うおーっ!」
すさまじい喚声が上がった。観客席のベンチがびりっと震える感じがあった。森村はターンマークをトップでまわり、逃げの体勢に入った。あまりにもすごいまくり差しで、残りのボートはマーク付近で入り乱れていた。だんごとなった集団から二番手に抜け出したのは、隆夫が予想した強かな顔つきをした四番の選手だった。
「やった!」
隆夫は絶叫した。興奮で身体中が震えた。全身の血液が心臓から一気に放出される感覚があった。右足がずきずきと痛んでいることも忘れていた。
各艇はその後も順位が変わらず隆夫の予想どおりに着順が確定した。電光掲示板に「六―四」と表示された。観客席はふたたび「うおーっ!」と沸いた。ざわめきはしばらくの間続いていた。
隆夫は、まわりに悟られないように的中券を確かめて、ほくそ笑みながら観客席を下りていった。
レース場では、森村がレースの感動をかみしめるかのように、ゆっくりと周回していた。やがて森村がレース場から引きあげようとするとき、フェンス越しにヤジを飛ばす三十前後の男がいた。
「こらーっ、森村ーっ、よけいなことすんな。じじいは茶でも飲んで休んどかんかい」
男の言葉を聞いて、隆夫の心でなにかがはじけた。隆夫は、隆夫の意志とは違うなにか、得たいの知れないなにかにあやつられて、男に向かっていった。
隆夫は、男の後ろから、自分の頭ほどの高さにある肩をぐいっと引っぱった。そして男につかみかかった。
「だれが、だれがじじいやねん。もういっぺんぬかしてみい」
突然、隆夫に言いがかりをつけられた男は、弁解して隆夫をいなそうとした。
「ちゃ、ちゃうがな。おっさんのこと言うたんとちゃう」
「だれがじじいやねん。だれがじじいやねん」
隆夫は男の言うことを聞くこともなく、男の胸ぐらをつかみ、なおもしつこく絡んでいった。胸ぐらをつかまれた男は、ついに声を荒らげて言い返した。
「なにさらすんじゃ、おっさん。おっさんのこと言うたんとちゃう、言うとるやないけ」
男はそう怒鳴って、隆夫の手首をぐいっとひねった。そして、男にすれば軽い力で隆夫を突き飛ばした。隆夫はよろめくこともなく、まるで棒が倒れるようにごろんとひっくり返った。倒れた横に松葉杖が転がっていた。
そのときまた観客席がどよめいた。電光掲示板に目をやった。払戻金十一万あまり。
が、隆夫の視線の先には、掲示板とは違う別のものが映っていた。
この光景……、どうしたことだろう……。
フェンスの先、電光掲示板の下に、あるはずの池がなかった。さっきまで選手が走っていたボート場がなくなって、代わりに競輪場があらわれていた。何人かの競輪選手がゆっくりと周回している。ついさっきまで熱戦を演じていたのだろう。選手は疲れた足をいたわるかのように、ゆっくり走っていた。急斜面のバンクをのぼってくる選手、少し年をくっている――。そうだ! 思い出した! 確か――ふる――、古川だ。幸子が交通事故で亡くなった日、あの日の昼間のレースで、驚異的なまくりを見せた古川、その古川が、今隆夫の目に映っていた。
隆夫のからだのなかで、なにかがぐーっとうねった。奥の奥にひそんでいた虫が、今までにない動きをした。四十数年もの間、隆夫の心を縛り続けていた虫、その虫が、一斉にからだの表面に向けて移動してきた。おびただしい数の虫は、ひたいから首筋から――、腹から腰から腕から足から、ありとあらゆる全身の毛穴からにじみ出、水がしたたるように地面に落ちていった。
「わい――、今まで、どんだけの人泣かせてきたんや。幸子、正一、姉さん、兄さん、父さん、母さん、親戚だけやない、めし屋のばばあ、散髪屋のおっさん、喫茶店のマスター、風呂屋の旦那、正一の担任、幸子の職場の主人、数え切れない人を苦しめてきた。わいは腐りきっていた――」
まわりの人々の計り知れない苦しみと代償に得たものを、ことごとくレース場に散らしてきた隆夫。隆夫は地面にへたり込んだ。手には百万円を越える的中券があった。冷たいコンピュータが打ち出した的中券は、名刺ほどの大きさのぺらぺらの紙切れだった。
隆夫は、的中券を両手の親指と人差し指でつまみ、幼い正一が元旦にもらったお年玉をうばい取って正月から競輪場に出向いたときのこと、幸子が泣いて嫌がるのをむりやり衣料修理店の主人の家に連れていきせっつくようにして給料の前借りをさせたときのこと、幸子を失ったときに得た賠償金で隆夫と同じようにギャンブルに狂う友人に散財してまわったときのこと、私鉄のガード下で帰省に反対し泣き叫ぶ正一のほおを何度も何度も叩いたときのこと、姉の職場に押しかけ大勢の社員が見つめるなか大声をあげて金をくれと怒鳴り散らしたときのこと、兄の全財産ともいえる年金をうばい取ったときのこと、そのような今まで自分がしてきた償っても償っても償っても償いきれない行為を悔い、たとえようもない苦しみを与えてしまった数々の人々に詫び、おのれに対する激しい自責の念を込めて、破った。
二枚に破った的中券を重ねて破り、またそれを重ねて破った。そんなことを何回かくり返したあと、隆夫はバラバラになった紙切れをフェンスに向かって放り投げた。
フェンスの向こうに見えていた競輪場は、ボート場に戻っていた。的中券の残骸は風に乗って池に飛んでいった。水面に落ちた切れ端は、小さな波に乗ってその場で上下に揺れ、やがて水に溶け込むように沈んでいった。
(つづく)




