十七 久子とともに
賭の虫
十七 久子とともに
隆夫が病院に戻ったとき、橙色の巨大な夕陽が阪神高速と林立する高層ビルの間に沈みかけていた。
隆夫は病院に戻ると手術室へ向かい、受付にいた看護師に女の人の手術がどうなったか尋ねた。看護師は隆夫をいぶかしげな目で見ながらも、手術は無事に終わって今は集中治療室にいる、あさってには一般病棟に戻れるでしょう、と教えてくれた。隆夫は集中治療室の場所を聞き、「おおきに」と言ってその場を離れた。
集中治療室は循環器内科ナースステーションの隣にあった。窓からなかをのぞくと、少し離れたところで高齢の女がベッドに横たわっている姿が見えた。窓をコンコンと叩いた。なかの女性から反応はなかった。
「なにかご用ですか」
声に振り返ると、体格の良い中年の男が隆夫を見下ろしていた。
「いやっ、あの……。ちょっとした知り合いですねん」
「母は、手術終わったばっかりですから、静かにしてやってくれはると……」
「母? 息子さん――ですか」
「はい、そうですが」
男は隆夫の顔をじっと見ている。男の後ろには妻らしい女と三人の子どもが、不安そうな表情で、隆夫を見ていた。
「すっ、すんまへん。おじゃましました」
隆夫はその場を離れ、一般病室のほうに向かっていった。背後に男とその連れ合いの視線を感じた。隆夫は一般病室の廊下を松葉杖をつきながらゆっくりと歩いた。病室の前に患者の名前が掲示されている。隆夫はひとつ一つ確かめていった。
すべての病室を確認したあと、隆夫は「そういうことか――」とつぶやいた。
隆夫が外科病棟の自分の病室に戻って来ると、息子の正一が厳しい顔をして待っていた。息子は隆夫を見るなりたまっていた言葉をぶつけた。
「どこ行っとんたんや、親父! 自分がけが人やっちゅうこと、わかっとるやろ」
「すまん――」
「どうせまたボートやろ。ほんま、どうしょうもないな」
「せやから、すまんて……」
「――で、すっからかんかいな」
隆夫は少し考えて、こくっとうなずいた。
この日の朝、病院から、隆夫が無断外出したらしいと連絡を受けた正一は、心当たりを捜し回ったらしい。隆夫のアパート、パチンコ屋、喫茶店、兄の自宅……。隆夫がいた競艇場にも捜しに行った、と言った。そう言えば呼び出しアナウンスがあったような気がする。疲れ切った表情で父を非難する息子に、隆夫は「すまん、すまん」とあやまった。
看護師が急ぎ足でやってきた。いつもは優しい言葉をかけてくれる若い看護師だが、きょうは厳しい口調で隆夫に言った。
「谷岡さん、あした、また足のレントゲンを撮りますからね。外へは絶対に出ないでくださいよ。それから歩くときは、右足に体重かけたりしないで、必ず松葉杖を使うこと。わかりましたね」
「ほんま、すんまへん」
翌日、医師は、撮ったばかりの足のレントゲン写真を見ながら、ベッドに横になっている隆夫に言った。
「昨日、ひとりで外出したそうですね――。骨はまだ、完全につながってませんから、無理したら、またすぐに折れてしまいますよ。まっ、幸い、昨日の外出では、悪くなっていないようですが」
「そうですか。そら、良かったですわ」
「ご自分のからだのことですよ」
「はあ、すんまへん」
「まあ、気をつけてください。ところで谷岡さん、病院は窮屈ですか」
「ええ、まあ……。暇で、することありまへんさかい」
「そうですね――、レントゲン見る限り、はじめよりだいぶ良くなっていますから、外を歩いても大丈夫だと思いますけどね――。もし、入院してるんが嫌や、言うことでしたら、退院しますか」
「退院――ですか。いつ?」
「いつでもいいですよ。明日でも」
「あした――ですか」
隆夫は、久子が一般病棟に戻るのが明日だということを思い出した。
「明日は、具合が悪いですか」
「いや――、かまいません。ほな、あした言うことで」
診察が終わった隆夫は、久子が入院しているという内科病棟に行った。一般病室のなかをのぞいていくが久子の姿はなかった。一階ロビーまで行って、久子と世間話をしたベンチに腰かけた。目の前を人々が通りすぎていく。当然のことだが久子は来なかった。
翌日、隆夫は、正一と貴美子の付き添いで退院した。
半月ほど入院していただろうか、久々にアパートの部屋に戻ってきた隆夫は「やれやれ」と言って座り込んだ。病院に運びこまれる前、散らかり放題だった部屋は、喜美子がきれいに掃除してくれていた。敷きっぱなしだった布団は、たっぷりと陽に当ててふかふかになって、洗いたてのシーツがかけられていた。衣類は洗濯されたものが部屋の隅に重ねられていた。吸い殻で盛りあがっていた灰皿や汚れた茶碗や湯飲みが片づけられすっきりしていた。
隆夫は喜美子に礼を言ったあと、部屋のなかを見渡して、両手の親指と人差し指で正方形を形作って尋ねた。
「このくらいの写真があったはずなんやが、見んかったですか」
「そうそう、お義母さんの写真ですね。大事なものや思て、あたしが預かっときました」
喜美子はハンドバッグを開けてカード入れを取りだし、挟んであった写真を隆夫に手渡した。隆夫は「おおきに」と言って写真を受け取り食卓の上に置いた。
「親父、ほな帰るわ。もう無茶すんなよ」
正一はそう言って貴美子と一緒に出ていった。
部屋には喜美子の化粧水の匂いが残っている。こんな汚いところに来ても嫌な顔ひとつ見せず、隆夫のことを気づかってくれる嫁がほかにいるだろうか。
「のう、ええ嫁やの」
隆夫は写真のなかの幸子に話しかけた。写真のなかの幸子がうなずいたような気がした。
部屋の外ではうるさいセミがひっきりなしに鳴いていた。紫陽花の花はとっくに萎れていた。夏本番、ぎらぎらとした太陽は、ほかの地域と区別することなくこの町にも強烈なエネルギーを降り注いでいた。
退院して一か月が過ぎた。隆夫の目に、今まで、陰湿で汚いだけと思っていたこの町の風景が、どことなく明るく見えてくるようになった。夏休みも終わりに近い日、焦げ茶色に焼けたランニング姿の小学生の集団が、大勢の日雇い労働者が行き交う道をすり抜け駆け回っている。先頭の小学生が「足の悪いおっちゃんおんで。気いつけや」と叫んだ。小学生たちは松葉杖をついて歩く隆夫の横を、大きく迂回して通りすぎていった。隆夫は立ち止まって、強烈な陽の光を手でかざしひたいの汗をぬぐった。
さらに一か月が過ぎた。
隆夫は、中華料理店のスポーツ新聞で競艇選手森村が引退したことを知った。競艇欄のなかで小さく扱われた記事だったが、森村が過去、数々のタイトルを取ったことを紹介していた。競艇欄をしばらくながめていたが、なんの感情も沸いてこなかった。今まで、隆夫のからだのなかから襲ってきていた、どうしようもない衝動が、嘘のように消えていた。
足が直り、普通に歩けるようになってきたころ、部屋に意外な人が訪ねてきた。久子だった。数日前に病院を退院したという。
「谷岡さん、冷たいわあ。退院するんやったら言うてくれはったらええのに」
「それは、すまんことしました。せやけど久子さん、なんでここが……」
「そんなん、簡単なことですやん。谷岡さん、たぶんここらへんに住んではる人や言うの、わかってましたさかい。最近退院しはったこんな人はいませんか、言うて聞いてまわったら、すぐにわかりましたわ」
「そうでっか。せやけど、久子さんが、わいみたいな男、訪ねてくれるやなんて……」
「うち、ほんま、がっかりしたんですよ。手術終わって集中治療室出たら、谷岡さんもう病院におれへんかったでしょ。谷岡さん、あのベンチで待っとったる言うてくれてはったやんか。うち、退院するまで、ほんま、寂しいて寂しいて、気い抜けたような感じやったんですよ」
久子は、心のなかにためていた言葉を吐き出すようにしゃべり続けた。隆夫は久子の熱っぽい目を見て「わいもまんざらやないな」とほくそ笑んだ。ふと隆夫は、食卓の上の幸子の写真に気がついた。そして久子に気づかれないようそっとそれを裏返した。
秋が過ぎ木枯らしが吹くようになったころ、隆夫と久子は、三畳間で小さな食卓を挟んで向かいあって座っていた。
「ごほっ、ごほっ、ほんま、しつこい風邪や、なかなか直らん」
「タバコ吸いすぎや。ここ、横んなっとき」
布団に寝転がった隆夫のひたいに、久子の冷たい手が触れる。
「ふーん、熱も、あるみたいやなあ」
「なあ、久子さん、きょうも、帰らんでええんか」
「うち帰ったってなんもすることあれへん。看病したげるさかい、今晩も泊めてえな、ええやろ」
「すまんな」
「なあ谷岡さん、うちらの関係で、久子さんって呼ぶん、もうやめへん? なんやよそよそしいてなあ。うちのこと、お前て言うてくれてええで。うちも谷岡さんのこと、あんた、て呼ぶから」
「なんや、照れるなあ」
隆夫顔しわしわ歯のない口でれっ開け答えた。赤茶けた隆夫の顔少し染まった。外肌寒い風吹きはじめていた。
あわただしい師走が過ぎ、またつぎの年が来ようとしていた。
大晦日、隆夫と久子は、古いトランジスタラジオを聞いていた。
「ごほっ、ごほっ」
「ほんま、しつこい風邪やなあ」
「ああ、なんでやろ。薬ちゃんと飲んどんのに……」
「年明けたら、病院行ってみる?」
「せやなあ……」
ラジオから紅白歌合戦が聞こえる。
「二十世紀が終わりや言うとるなあ」
「二十一世紀になにがあるんか、うち、ようわからへん。それよりあんたとこうしてここにおるほうがええわ」
「ええっ、なんやて」
「ん、もう。聞こえへんふりして。恥ずかしいこと何回も言わさんといて。それともあんた、耳遠なったんか。耳くそほじくったるからここに寝ころび」
隆夫寝ころぶ久子のひざの上。久子老眼鏡かけ隆夫の耳掃除はじめた。隆夫目の前久子の腹、腹の奥窓からの光ぼんやり見えた。隆夫つぶやいた。
「なあ――、幸子」
「なんや? えっ? さち……」
「そうか――、やっぱり、幸子やったんやな」
「……。ばれとったんかいな――。あんた、いつ、気いついたん?」
「病院で会うてたとき、なんや変や思てん。お前、病室に戻る言うて、廊下歩いていくときなあ、なんや透けて見えてん」
「……」
「それに、お前、わいの連れ合いのこと、全然聞けへんかったやろ。ほんまやったら、奥さんどないしはったんとか、聞いてくるもんとちゃうか」
「……せやね。そら、おかしいわ。あーあ、うちも抜けとったなあ」
「息子さんや言う、あの写真のことやって……」
「うまいこと、話作ったつもりやったけど――、あかんなあ」
「それとわい――、病室全部見てまわったんや。久子言う名前、どこにも、あれへんかった」
「久子言うん、おなご先生の名前やねん。ほら、昔、あんたと観に行ったことあるやろ。うち、あの映画、ずーっと心んなか残っててなあ」
「神戸に住んでたとか、もっともらしい作り話しよって――、似たような話あるもんやなあ、思て……。わい、ほんま、だまされてたわ」
「ようできてたやろ。うちやって、考えるん、苦労したんよ」
ごほごほ隆夫せき続く。隆夫の背久子トントンたたいた。
「なあ、いつごろから、わいのとこおったんや」
「梅雨のころ。ほら、あんた、いっぺん、死にかけてたやろ。あのときお迎えに来たげてんで。覚えてへんか。うち、あんたの耳にささやいたってん。来たげたでえ、言うて」
「そうか、あのとき――」
ごほごほっ隆夫せき止まずひたいの熱ますます高く。幸子腹の向こうの灯りだんだん明るく陽の光のよう。
「ごほっ、ごほっ、今度はなんで来たんや」
「……」
「わい、長うないんか」
「……、なあ、あんた」
「……ん」
「うちが来て、迷惑やったか」
「めっ、迷惑なわけあるかい。うれしいに決まっとるわ」
隆夫、幸子の腹に顔押しつけ懐かしい匂い。
「わっ、わいは、どないしたらええ」
「あんた、うち死んでから、ずーっと寂しい思いしてたんやろ」
「……」
「この写真、いつもながめとってくれたんやろ」
「……」
「賭け事の虫も、完全になくなったんやろ」
「……」
「うちと一緒に逝こか」
隆夫あふれる涙幸子の腹ぬぐい「連れてってくれ」言った。
いつしか紅白歌合戦終わる。ラジオからなんやら寺除夜の鐘響いていた。
鐘の音新しい年訪れたこと告げる。聞く人なく。
(了)




