十五 賭の虫
賭の虫
十五 賭の虫
引っ越しのあとも、隆夫の怠惰な生活は続いた。今まで遊び呆けてきた六十の隆夫がいまさらなんの仕事ができよう、昼間は競輪や競艇に行くか、そうでなければノミ屋に入り浸り、夜になるとパチンコ屋で閉店になるまでねばる。深夜になってから部屋に帰り、幸子の写真に語りかけて眠るという毎日だった。
それでも、なにかのきっかけで仕事に出てみようと思い立つこともある。何か月ぶりかに隆夫は、早朝の日雇い求人センターに出向いた。聞くところによると、今明石海峡に巨大な橋を建設中らしい。労働者を求めて、また以前のようなにぎわいが戻っているかもしれない。そんな仕事のおこぼれにあずかれればという気持ちだった。
だがそんな考えは甘いということを知った。昔は、本船、ダム建設、道路工事、トンネル掘削、ビル工事……、早朝から大型バスが次々に乗りつけていた日雇い求人センターだったが、今はせいぜい小型バスが数台並んでいるだけ。手配師たちは、若くてイキの良さそうな男だけを選んでバスに乗せて出発していくのだった。
そんな光景をながめていると、友人が声をかけてきた。
「なんや谷やん、ここ来るって、めずらしいやんけ」
「なに言うとんねん。わいやって働くことぐらいあるわい。やっさんこそ、仕事する気いあるんか」
「あるかいな。このかっこ見たらわかるやろ」
ワンカップを手にした友人は、サンダルばきの足もとを見せて言った。
「その気い、あったって、わいらみたいなん、連れてってくれるわけあれへん。昔とちゃうねん。わいら、もうアンコでけへん。バッ、バルブが、はじけたんや」
「バブル、言うんとちゃうんか」
「せやせや、そのバルブや」
道路際のブロックに友人が腰かける。隆夫もその横に腰かけた。
「バブル言うたら、学のあるやつらの博打のこっちゃろ。なんや、ごっつい金賭けて、みんな負けてしまいよった、そういう言うこっちゃろ」
「せやせや、谷やん、うまいこと言うわ」
「結局、あいつらもわいも変われへん。どっちもギャンブルにおぼれとんねん」
「谷やん、昔、よう奥さん泣かしとったもんな」
「やっさんに言われたないわ。やっさんやって、親兄弟泣かしたんちゃうんけ」
「ああ、わいはこれでな」
やっさんはワンカップを持ちあげて見せた。
「あんなあ、谷やん、テレビで偉い先生言うてはったんやけどな、ギャンブルやめられへん言うんは、病気らしいで」
「病気?」
「せや、わいのアル中とおんなじや、ギャンブル中毒言う病気があんねん。競輪やボートやってるとき、脳みそのなかで、なんやら言う物質が出るらしいねんな。その物質がまたえらい気持ちのええもんや言うんで、やめられへんようになってしまうらしいんねん。しばらくやれへんと、からだがむずむずして、どうしようもなくなるんやて」
「気持ちええ物質なあ――」
「どや、心当たりあるやろ」
「わいなあ、からだんなかに虫おるような気いすんねん。その虫、いつもなんや、ざわざわ騒いどる気いしてなあ」
「せやせや、その虫や。その虫が気色ええ物質出しよんねん。せやけど、この病気は直らん。薬もなんもあれへん。二十四時間しばりつけとくしかないねん」
三十分ほど話をしていただろうか。いつの間にか求人バスは一台もなくなっていた。ふたりの老人は、どっこいしょと言って立ちあがり、日雇い求人センターをあとにした。
隆夫は、ポケットから一枚も印紙が貼られていない日雇い失業保険手帳を取りだし、恨めしそうにながめてポケットに戻した。求人が終わった日雇い求人センターは、廃墟となった古代遺跡のようだった。
やがて孫の真吾が生まれた。正一たち家族が遊びに行くときは隆夫も誘われるようになった。隆夫は幼児向けの遊具がある遊園地に喜々として出向いた。「ベロベロバー」とあやす隆夫と「きゃっきゃっ」と笑う孫。隆夫の顔にぷよぷよの手が触れる。やけど痕の赤紫のあざを孫の手がなでた。
隆夫の興味はギャンブルから真吾に移ったように見えた。
四十年以上前、隆夫の心の奥底に住み着いた賭け事の虫は、ときにざわざわざわざわと騒ぎ、いてもたってもいられないような心理状態に追い込むこともあれば、ときに静かにひそんでいるだけのころもあった。その周期は二、三年の長きに渡ることも一、二か月の短いときもあったが、ともかく、大きいまた小さい振幅の振動をくり返していた。その振動は、四季の移り変わりのようでもあり、為替相場の値動きのようでもあり、太平洋のまっただなかに浮かぶ小舟の動きのようでもあり、人の呼吸のリズムのようでもあった。その波動のなかで、今は谷。虫は冬眠しているかのように活動を停止していた。
定収入がない隆夫が、正一からもらう金だけで生活できたわけではない。隣の市に住む七十歳になろうとする兄や四国に住む兄弟にも金の無心は続いていた。しかしその金額は以前に比べると減っていた。
アパートの共同洗面所にかけられた鏡の前に立って、隆夫は老いた自らの顔をながめた。ほとんど白髪となった髪、土色に焼けた顔、焼けただれた痕がでこぼこになった右目横のあざ、にっと笑ったときに見える上下で五本だけ残った前歯、目尻の深いしわ、ほおの下とあごには白い無精ひげ、六十歳になった隆夫の姿が鏡のなかにあった。
―――――
あれから七年、先日見舞いにやって来た真吾は八つになっていた。隆夫は、病室の洗面所にかけられた鏡の前に立って、老けた自分の顔を見つめていた。目尻のしわや無精ひげは昔から変わらないように見えたが、前歯の数は三本に減っていた。
―――――
ギャンブル熱が薄まっていた隆夫だったが、孫が大きくなり出会う機会が少なくなるにつれ、ギャンブルの虫がまた騒ぎだした。正一に金をねだり兄に泣きつき姉をいじめる。隆夫はそんな生活にまた戻っていった。
六十五歳のとき、区から派遣されたという職員が三人、隆夫の部屋を訪れてきた。職員は、いかにも惨めな生活をしているように見えた老人に、医療保険や生活保護を受給するように勧めた。区の職員の「蓄えは? 仕事は? 身内は? 健康状態は?」などという質問に隆夫は、「とにかく食うのに困っとる」とだけ答えた。職員が示した用紙の何か所かにサインしただけで、何万円かの金を定期的にくれるようになった。思わぬ収入が入ることになった隆夫は、その金をもギャンブルにつぎ込んでいく。そのことがきっかけとなって、ますます隆夫の心のなかの虫を活動させ、正一や兄弟に無心する金額を増やしていった。永久に死滅することがない賭の虫、隆夫はその虫に心の底まで食いつくされていた。
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隆夫が餓死寸前で病院に運ばれたのも、もともとは隆夫が兄の年金を奪いその金を競艇ですったことが原因だ。
「わい、ぼこぼこに殴られて死にかけたけど――、このまま死んでくれたら良かったのに、と兄さん、思とるやろなあ」
病室の洗面所の前、鏡のなかの老いぼれた自らの姿を見て、隆夫はそうつぶやいた。
翌朝、病院の朝食を食べたあと、隆夫は行動を起こした。
手術室のある階に向かう。手術室前の待合室にはすでに多くの付添人が控えていた。隆夫は三人掛けベンチの端にどかっと座り松葉杖を壁に立てかけた。ベンチのもう一方の端で婦人雑誌を見ていた中年女が、隆夫のほうを横目で見た。女と目があった。女はケロイドの痕が残る顔からぎょろっとにらむ目を見たあと、すっと目をそらし、また雑誌に目を落とした。
待っていると、ストレッチャーに乗せられた患者が、ひとりまたひとりと手術室に入っていった。ストレッチャーの前後に配されたふたりの看護師が、慣れた様子で担当する患者を手術室に導いていく。
三十分ほど待っただろうか、エレベータの扉が開いてストレッチャーに乗せられた小柄な女があらわれた。隆夫はあわてて左足だけではねながら、ストレッチャーに向かった。
看護師たちはストレッチャーの速度をゆるめることなく手術室の入り口に向かう。
「あっ、あの……」
隆夫はストレッチャーに近づこうとした。ひとりの看護師が振り向いて隆夫を見て言った。
「あっ、寄ってこないでください。これから手術ですから」
看護師は隆夫の動きを制止した。隆夫は少し離れたところから女を見た。初老の女、めがねを外しているがたぶん久子だ。
「久子さん……」
もうひとりの看護師が入り口横のキーボードになにやら入力すると、手術室の扉が開いた。ストレッチャーは看護師に押されて手術室のなかに消えていった。
「久子さん、がんばりや」
隆夫は胸の前で指を組んでつぶやいた。
隆夫は、しばらくその場に留まったあと一階まで下りた。新聞の自動販売機でスポーツ新聞を買った。それから病室に戻り、いつものとおり新聞のなかほどを開いた。競艇欄の記事を確かめた。そのあと松葉杖をベッドに立てかけて、両足で歩くことを試みた。ギプスで固めた右足に体重をかけたとき、ズキッとする痛みがあったが、耐えられないことはなかった。右足をぶらんぶらんと振った。そのあとひょっこひょっことベッドのまわりを二、三度往復した。
つぎに財布の中身を確かめた。正一からもらった二万円のうち一万七千円あまり残っている。パジャマを脱いで、病院に運びこまれたときのポロシャツとズボンに着替えた。衣類は汗と小便で異臭を放っていたが、嫁の喜美子がきれいに洗ってたたんでくれていた。底がぺたんこのはき慣れた運動靴にはき替えたあと、洗面所の鏡の前に立った。朝から二回目の洗顔を行い、短く刈った白髪を手のひらでなであげた。それから帽子をかぶり、タオルを首に引っ掛けた。新聞をズボンの後ろポケットにねじ込んで、松葉杖を使って病室を出た。同室の男性がいぶかしげにながめていたが、視線を合わさず出ていった。
廊下をエレベータに向かって歩いていく。ナースステーションの前を通りすぎた。緊張したが隆夫のことに気づいた看護婦はいなかった。エレベータに乗って一階に下り、そのまま外来患者の待合室を通って病院の外に出た。途中でいつも久子と会うベンチの前を通った。ベンチには誰も座っていなかった。
日差しの弱い朝だったが、それでもカラッとした暑さが夏の到来を告げていた。久しぶりに見る外の世界は新鮮だった。隆夫は地下鉄の入り口に向かって歩いていった。松葉杖で階段を下りるときが苦労だった。右足に鈍痛を感じたが、痛みに耐えてホームまで歩いていった。
地下鉄と私鉄を乗り継いで、競艇場のある駅に着いた。駅から競艇場までの専用通路は、レース場特有のすえた臭いが漂っていた。入場券を買ってなかに入り、レース予定表を取ってベンチに腰かけた。「ふう」とため息をついた。
「久子さん、がんばりや。わいが一発当てて心臓にええもん食わしたる」
(つづく)




