十四 父ひとり
賭の虫
十四 父ひとり
正一は、隣町のマンションが建ち並ぶ一角に引っ越した。そこには、今までの町とは違う人種が住んでいた。人々の目にぎらぎらした緊張感がなかった。マンションからは、朝はネクタイを締めたサラリーマン、制服を着た高校生が続いて出かけ、その後は小学生、中学生、つぎに幼稚園児が母に連れられて出ていった。最後に家に残った若い母たちは赤ん坊を抱き公園で談笑していた。このあたりの公園は、長靴姿の日雇い労働者ではなく、うすく化粧した若い母と幼児が占拠していた。異様な臭いが漂うこともなく、紙屑や酒の空き瓶が散らばっていることもない。食べ残した弁当に群がる野良犬もいなかった。
がらんとした部屋のなかで正一は寝つけない晩を迎えていた。
ひとりが旅立ったあと、隆夫ひとりが残った六畳一間のアパートも、いつになく静かな晩を迎えていた。憎しみ、けなし、ののしりあいながらも、ときには笑い、思いやり、支えあってきた父子ふたりの生活がこれで終わった。
さらに年月が経った。正一は三十を越え、白い髪がぱらぱらとめだつようになってきたころ喜美子と結婚した。新婚生活をはじめた2DKの賃貸マンションは、八世帯のうち六世帯が二十代の夫婦が住んでいた。絵に描いたような幸せそうな家庭の風景に正一は溶け込んでいった。
隆夫は相変わらず六畳一間のアパートで生活している。五十を越えた隆夫、短く刈った白髪だらけの頭に赤茶けた顔、目尻やあごに深いしわができ、前歯は半分が抜けていた。ところどころに黄土色のシミ、たるんだ胸やぼてっと飛び出した腹、筋肉質を自慢できた昔の姿は見るかげもなくなっていた。特有の体臭を漂わせ、えりの汚れたニットシャツを着、ジャージのズボンをはき、底がぺたんとした運動靴の踵を踏んで音を立てて歩く姿は、見るからに遊び人のそれだった。
五十を過ぎた遊び人は、当然のことながら日雇いの手配師からも敬遠された。隆夫がたまに日雇いに出ようとしてもたいていは断られる。人手が足らずどうしようもないときに、ようやく雇ってもらえる始末だった。最後の最後には、その日のめし代ぐらい日雇いで稼げた若いころとは大違いだった。隆夫は、息子から金の援助を受けながら、ノミ屋の手伝いや風俗営業の看板持ちをやって金を手に入れるようになっていた。次第に、隆夫のまわりは寂しい空気が漂うようになっていった。
隆夫は「わいはひとりがええねん」と強がっていたが、ある日それが本当に強がりだということを正一は知った。
何年かぶりに正一が隆夫の部屋を訪ねてきたときのことだった。タバコ臭い匂いが立ち込める部屋の隅にそれはあった。どこから拾ってきたのか小さな座机の上に、二十年以上もしまったままにしていた幸子の遺影が立てかけられ、その前に薄墨で戒名が書かれた白木のままの位牌、位牌の前には半分ほど水の入った湯飲み茶碗とカップラーメンが供えられていた。座机の手前には吸い殻が二、三本入った灰皿があった。線香もろうそくもりんも花もないところに立てかけられた和服姿の幸子の遺影は、二十数年前の告別式の日と同じように寂しそうに隆夫と正一を見つめていた。
水とカップラーメンだけで祀られた幸子の霊だったが、正一には、その祀り方が、どんなに立派な仏壇に飾られるよりも、どんなに徳の高い僧に経を読んでもらうよりも、心が込められているように思えた。老いた隆夫が、話し相手のいないこの部屋で、タバコを吹かしながら亡き妻の写真に語りかけている、そんな光景が正一には想像できた。
正一は祭壇ともいえない質素な祭壇に手を合わせた。からだの奥からわき上がってくる冷気とも寒気とも形容しがたい毛穴が逆立つようなぞくぞく感を感じ、必死にそれを押さえようとした。が、ついにぼろっと一粒の涙が目からこぼれ落ちた。その後は、次々とあふれてくる涙を止めることができなかった。
一分ほどの静寂のあと、隆夫が沈黙を破った。
「正一、何泣いとんねん」
そういう隆夫の目もうるんでいた。
一か月ほど経って、正一は隆夫から遺影と位牌を引き取った。母の霊をきちんと祀りたい、との正一の提案を隆夫が受け入れたからだった。遺影と位牌を引き取った正一は、仏壇を買って金文字で戒名を刻印した黒塗りの新しい位牌を安置した。白木の位牌は幸子が分骨された京都の大寺院に納めた。正一はこのことで親孝行したつもりだった。このことがよけいに隆夫の寂しさを増幅させていたことには気がついていなかった。
心のよりどころだった位牌と遺影を持っていかれた隆夫は、寂しさを心のなかにずっとため続けた。隆夫にとって寂しさをまぎらわすことができるものは、今となってはわずか五センチ四方の幸子の写真だけだった。ずっと財布のなかに入れていたため折り目がつき、ぼろぼろにすり切れてしまった写真だった。写真のなかの幸子は笑っていた。隆夫は毎晩その写真をながめて枕を濡らしていた。
―――――
「あの写真、どこ、いったんやろ」
ベンチに座ってさっきまで久子という初老の女と話していた隆夫は、ふと写真のことを思い出した。病院に運びこまれる前、衰弱しきったからだで横を向いたときに見えたあの写真。あの写真に向かって「往くのは今度や」とつぶやいていたことを、隆夫は思い出した。
「せや、あの写真や。あれがのうなったらあかん。まだ部屋にあるやろか」
隆夫は不安になった。退院したらすぐあの写真を捜さなければ、と思った。
同じ入院患者の久子と湿っぽい話をしてから二、三時間も経ったろうか、いつの間にか夕方になっていた。「どれ、部屋に戻るか」そうつぶやき、隆夫は松葉杖をついて一歩一歩にかけ声をかけながら外科病棟に戻った。
つぎの日の昼過ぎ、隆夫はロビーの例のベンチに座って、約束もしていない久子がやって来るのを待っていた。十分も座っていただろうか久子が笑みを浮かべてあらわれ隆夫の隣に座った。
「ひょっとして、また谷岡さんいはるんちゃうか思て来てみたんですわ。谷岡さんも、うちが来ると思てはりましたん」
「ええ、まあ」
隆夫は照れて答えた。
「久子さん、きのう写真落としていきはったでしょ。それ返そう思いましてん」
「えっ、写真?」
「ほら、息子さんの写真ですよ。こんな大事なやつ、落としたらあきまへんがな」
隆夫は胸ポケットから写真を取りだした。確か写真――だったはず。だが、それは写真ではなく普通の厚紙だった。どこやらの会員カードと書いてあった。隆夫は驚いた顔をして言った。
「あれーっ、なんやこれ。おっかしいなあ――」
久子は「谷岡さん、なに、勘違いしはりましてん」と言った。
「変やなあ……」
隆夫はまだ腑に落ちない様子だった。久子が話題を変えていった。
「病院って、昼間なんにもすることが、あらしまへんやろ。ほんま暇やわあ。先生や看護婦さんは、いっつも忙しそうに働いてはるのにねえ」
「ええ、まあ、そうですなあ。わいもここ来て退屈しのぐしかありまへんねん」
「実はね――。うち、あした、心臓の手術しますねん」
「へえ、そら、えらいこってすがな。のんきに話しとったらあきませんやん」
「かめへん、手術すんのはお医者さんで、うちは寝とるだけやから」
「そら、そうやろけど……」
「うちねえ、ちょっと前から、歩いたらすぐしんどなるようになりましてなあ。こっからあの辺ぐらいまで歩いても、しゃがみとうなってくるくらいですわ。それで、この病院に来ましたんやけど、なんや、カンドウミャク言うんが、詰まりかけてるらしいんやね」
「冠動脈――、ああ、知ってまっせ。わいの友だちも、いっぺん心筋梗塞で救急車乗って行きよったことありまっさかい」
「それでうち、あした、心臓の血管バイパス手術言うのんしますねん。手術言うたら胸切って心臓むき出しにしますのやろ。うち怖うて怖うて……」
「久子さん、付き添いの人はおりませんのか」
「うち、身よりはひとりもおまへん。なあ、谷岡さん、もし手術が失敗してうちが死んでしもたら、谷岡さんがうちの骨ひろてくれへん」
「なっ、なに、あほなこと言うてますねん。久子さんが死ぬわけあれへん。またここで会いまひょ。わい待っとったるさかい」
「おおきに、なんや、谷岡さんと話しとったら、ちょっと元気出てきましたわ」
―――――
正一は結婚したあとも、隆夫の面倒をみていた。隆夫は、定期的に正一がくれる生活費では足らず、直接正一に金をねだりに来ることもあった。が、喜美子のいる家に上がり込むことはせず、金の受け渡しはいつも外で行われた。
隆夫は六十になった。とうとう日雇い求人センターではいっさい雇ってもらえなくなった。隆夫は、息子よりも若いチンピラにあごでこき使われて、ふたたびノミ屋の小間使いで金を稼ぐようになっていた。
ある蒸し暑い夏の夜、トランクス一枚で大の字になって寝ていた隆夫は、夢を見た。
夢のなかで、隆夫は祭りの主役を演じていた。頭に鉢巻きを巻き、胴にさらしを巻いて、法被を羽織り地下足袋をはいた隆夫は、猛スピードで突き進んでいる大きな山車の屋根に乗っている。両手にうちわを持って腰をかがめ、右に左にまた右にとジャンプして、屋根の上を移動していた。岸和田競輪近くで一度見たことがある祭り、今、隆夫の夢のなかで催されていた。速いテンポで鳴り響く太鼓と笛が興奮を盛りあげる。「カンカンカンカン」と鐘の音が響き、「そうりゃあ、そうりゃあ」と山車を引く大勢の男のかけ声が聞こえていた。山車は町を縦横に駆けめぐり、道路脇では大勢の観客が隆夫の勇姿を見あげていた。観客のなかに幼い正一を抱いた幸子がいた。ほかの見物人と同じように隆夫を見あげて手を振っていた。
突然、夜になった。山車はふわりと宙に浮いて、夜空に向かって突き進んでいく。隆夫は山車の屋根から振り落とされた。うちわを両手に持ったままグライダーのように空を滑りはじめた。なにもない空間を飛ぶ隆夫の耳に、カンカンカンカンという鐘の音と、そうりゃあ、そうりゃあ、というかけ声だけは聞こえていた。ほどなく地面があらわれた。そこは地獄絵図に描かれた焦熱地獄だった。鬼がこん棒を振り回し、おびただしい数の罪人が炎をあげる穴に突き落とされていた。強烈な熱気が下から伝わる。隆夫はうちわを必死に振り回した。上昇しようともがいた。カンカンカンカン、そうりゃそうりゃそうりゃそうりゃ。鐘の音とかけ声は響き続けていた。
突然、隆夫は目を覚ました。
「火事や、火事や、火事や、火事や」
がばっと飛び起きた。窓の外を見る。前の路地で男がなにか叫んでいた。部屋の外で奥の住人がダダダッと走っていく足音が聞こえた。「あんた、待って!」と叫び声が続いた。
部屋の扉を開けた。廊下の向こう二つ先の部屋から炎がふき出している。炎は廊下を伝って隆夫の部屋のほうにも向かってくる。隆夫はいったん部屋に戻った。また窓の外を見た。人々がバケツを持って走っている。ホースを火の方向に向けて放水する者もいる。消防車のサイレンや鐘の音がけたたましく聞こえた。カンカンカンカン……。
「谷やん! そっから飛び下りろ!」
隆夫のパチンコ友だちが見えた。隆夫に向かって叫んでいる。隆夫は窓枠にのぼった。手すりに足をかけ身を乗りだした。そのときだ。手すりがぐらっと傾いた。ぞわっと鳥肌が立つ。地上までの三メートルほどの隔たりがものすごく高く感じた。パチンコ友だちは手のひらを上にして、すくいあげるような動きで「飛び下りろ。飛び下りろ」とわめいていた。
怖い……。隆夫は飛び下りる決心がつかなかった。まだ廊下のほうがましだ。炎に包まれた廊下のほうが。隆夫は窓を下り扉側に戻った。部屋を飛び出した。炎のなかに飛び込む。炎に包まれた廊下を抜けた。階段まで来た。そこで隆夫は、突然思い出した。
「せや写真や。幸子のあの写真、持ってこなあかん」
隆夫は部屋のほうに取って返した。すでに廊下の向こうは火の海。その向こうに隆夫の部屋がある。隆夫は息を止めて炎に突っ込んだ。板張りの廊下がバキッと音を立てた。部屋に入る。写真を入れている財布を取ってふたたび廊下に出ようとした。火のまわりが速い。部屋の入り口は猛烈な炎に包まれていた。
「くそっ!」
また炎のなかに飛び込んだ。廊下がバキッと音を立ててくずれた。前向きにからだが倒れた。倒れたところにサラダ油の缶があった。熱せられた缶のふたがポンと弾け、高温となった油が顔にザバッとかかった。
「あじゃあ!」
隆夫は叫んだ。つぎの瞬間、油に炎が引火した。炎が顔を焼く。強烈な痛みが襲う。夢中で起きあがり炎のなかを駆けていった。なにも見えない。炎は猛烈な勢いで隆夫を襲った。必死の思いで炎を抜けた隆夫は廊下の突きあたりにぶち当たり、階段をすべり台のように滑って下りた。路地に飛び出して倒れ込んだ。頭部が火だるまになっていた。誰かがバケツの水をぶっかけた。何度も何度も水を浴び頭の炎と熱はようやくしずまった。水浸しとなった隆夫はぜいぜいと息をついていた。トランクスだけを身につけた隆夫。右手には財布が握りしめられていた。
古い木造アパートは一時間も経たないうちにすべてが焼けた。隆夫は救急病院に運ばれやけどの手当てを受けた。幸いにも目には異状がなかったが、顔の右半分はケロイドの赤紫のあざとなって残った。
その後、隆夫は別の三畳一間のアパートに移った。三畳一間は隆夫がこだわった間取りだった。幸子と幼い正一を連れて大阪に着いたとき、はじめて住みはじめた部屋、掃き出し窓を出たところに七輪、その上に釜を置いて飯炊きしていたころの生活、夏、蒸熱がわき上がる夜、南京虫が畳の縁からうようよと出てくる部屋、つぶしてもつぶしてもにじみ出てくる南京虫から逃れるために部屋から出て窓の外の土間の上に新聞紙を敷いて眠ったことも、雪が降り冷たい風が吹く厳冬の朝、トタン屋根が寒さに震えているようにガタガタと音を立てている土間で、たらいのなかに凍りつきそうな水を入れ、固形の洗濯石鹸を洗濯板に擦りつけて下着を洗ったことも、ゴホゴホと咳をする正一を気づかって、部屋のなかに七輪を持ちこみポカポカとしたなかで眠り込んでしまい、いつの間にか練炭が不完全燃焼を起こし危うく一酸化炭素中毒になりかけたことも……。幸子が死んだあとも正一とともに転々とドヤを移った。そのどれもが三畳一間の部屋だった。狭っ苦しく窮屈な部屋だが三畳間には隆夫の凝縮された思い出があった。
隆夫は部屋のなかに一人用の食卓をおき、その上に火事のとき命がけで取りに行った幸子の写真を置いた。縁がセピア色に染まり銀影はくすんだ灰色に変色した写真のなかの幸子は、隆夫を見て微笑んでいた。
(つづく)




