十二 久子
賭の虫
十二 久子
「ええ息子さんやねえ」
突然話しかけられて、隆夫は顔をあげた。目の前に、隆夫と同じ年格好の女がいる。この病院に入院しているのだろうパジャマ姿の女、隆夫は、女が誰かと思案して「ええと……」とつぶやいていると、
「あっ、ごめんなさい。きのう、息子さんやお孫さんと話してはったん、立ち聞きしてしもたんよ」
「そうやったんですか。いや、お恥ずかしい」
隆夫はそう言って、新聞をたたんで二人掛けベンチの片方を空けた。女は空いたところに腰かけた。
背が低く背中が少し曲がっている女は、ベンチに腰かけると、なお小さく見えた。フレームの太い老眼鏡をかけ、目尻や口元には隠すつもりもないしわが、何本も走っている。右のほおに浅黒いあざと、ところどころに肌の色素が抜けた黄色っぽいシミもあった。ひざの上に組んだ手の甲には、何本もの静脈が浮き出ていた。
「息子さん、おひとり?」
「そうですねん。わいが甲斐性ないから、苦労さしてしまいましてなあ」
「聞いててそんな感じしましたわ。あっ、ごめんやで。いやいやそんなことありませんよ、って言わなあかんとこやね」
「かめへん、かめへん。ほんまのことやから」
「息子さん、口では、お父さんけなしてはったみたいやけど、心んなかでは、心配してはりますよ」
「実は、半月ぐらい前、大げんかしましてなあ――。もう二度と面倒みいへん、言われとったんですわ。せやけど、どっかでわいが怪我したん聞いたんやろな、すぐに、見舞いにきてくれましてん。わいが言うのも変やけど、ほんまええ息子ですわ」
「お孫さんは、いくつになりますのん」
「今、八つ、小学二年ですわ。孫見とると、つい、息子の小さいときとだぶってしまいましてなあ」
「そうでしょうねえ。うちにも息子おりましたけど、今どこにおるんか……」
「息子さん出ていってから、連絡ないんでっか」
「いえ、息子が出て行ったんちゃいますねん。うちのほうが飛び出しましてん」
「なんぞ、事情おますのかいな」
「うちねえ――、若いとき、夫と子ども捨てて家出したんですわ。うちの夫はねえ、ほんま、どうしようもない男でしてねえ、働きもせんと遊んでばっかり。うち、子ども育てなあかん思て、一生懸命働いたんですよ。せやけど、うちがなんぼ働いても、その金、全部博打に使うてしまいよるような男でしたから……」
女はうつむいて、つぶやくように話しはじめた。隆夫は黙って聞いていた。自分のことを言われている気がした。隆夫も同じような仕打ちを幸子にしてきた。いつだったか、泣いて抵抗する幸子を平手で叩いて、力尽くで金をうばい取ったことを思い出した。息子を遠足に行かせるため、リュックサックと水筒を買おうと貯めていた金だった。
女は顔をあげ、隆夫のほうを見て急に笑顔になって言った。
「いややわあ。うち、なに話してんねやろ。聴かんかったことにしてや。あっ、もうこんな時間やわ。うち検査がありますねん。ほなまた」
女はベンチから立ちあがり、軽く会釈して病棟のほうに歩いていった。隆夫も「ほな」と返事して手を振った。病院の窓から差し込む真っ赤な夕陽のなかに女は消えていった。
つぎの日も女はロビーに来ていた。そのつぎの日も。隆夫と女は、毎日ロビーの同じベンチに座って、世間話をするようになった。
女は不遇な人生を送ってきたという。女の身の上話を聞くにつれ、隆夫は幸子の人生と重ね合わせてしまうのだった。
女は若いころ神戸に住んでいたという。女には正一と同じ年頃の子どもがいて、その子どもがまだ小さかったころ、昼間は旅館の給仕、夜は居酒屋で働くという休む間もない生活をしていた。しかし、そうして懸命に働いて得た金は、すべて女の夫が吸い上げていく。女はそれでも子どものためにと必死になって働いた。そんなとき、夫の浮気を知ったらしい。夫は、女から巻きあげた金を、賭け事だけでなく別の女につぎ込んでいたのだった。夜遅く、子どもが眠ったあと、女は夫を問い詰めた。夫は浮気はすんなりと認めたが、その後決定的なことを言った。
「お前があんな旅館で、わずかなゼニしか、もろてけえへんからこないなるんや。俺のこと引き留めたい思うんやったら、パンパンでもやってもっと稼いでこんかい」
これが夫の本心だった。女は夫のほおを一発はたいたあと、オーバー一枚だけ持って家を飛び出した。ぬぐってもぬぐってもあふれ出てくる涙をそれでもぬぐい、家から遠く離れた港まで走った。海が見えるベンチに腰かけ声をあげて泣いた。暗い海からザザーッザザーッと波の音が聞こえてくる。このまま冷たい海に身を投げようと決心して海のすぐそばまで行った。けれども飛び込む勇気はなかった。ほおが切られるような陸風に身をさらして、一睡もせずに夜を明かした。鼻先や耳たぶを真っ赤にする凍りつきそうに寒い冬の晩のことだった。
その後、女は大阪に移り住み、二度と神戸の家に戻ることはなかった。ただひとつ、子どもを連れ出せなかったことを後悔し続けていた。女は大阪に来てから、いっさい男気を寄せつけず、たったひとりで生きてきたという。
この話をしたあと、女はぼろぼろと涙を流した。ガーゼのハンカチを老眼鏡の内側に入れてしきりにまぶたを押さえる仕草を、隆夫は黙って見ていた。隆夫がまだ四国の町にいたころのこと、映画「二十四の瞳」を見たあとの公園で、しきりにまぶたを押さえて泣いていた幸子の姿と重なった。
女が家を飛び出したとき、女の子どもは、今の真吾と同じ八歳だったという。
「ほんま人間のくずでしたわ」
「ほんま、そうですなあ――。実は、わいも、ギャンブ……」と言いかけて、隆夫は言葉を飲み込んだ。あえてしゃべることはない。黙っておこう。
女は続けた。
「せやけど、あんなどうしようもない人間でも、いっぺんは夫にした男でっしゃろ。今ごろどないしてんのやろ、と思うときもありますねん。人間って不思議なもんやねえ」
「今でも、惚れてまんのんか」
「嫌やわ。惚れてるんとちゃいます。気になりますねん。うち、この歳になってはじめて病気しましてんけどね。病気したら気い弱なるってほんまですなあ。なんや今になってひとりや言うんが、ものすごう寂しなりましてなあ……」
女は、昔置き去りにしたという息子の写真を隆夫に見せた。何度も何度も手にとってながめたのだろう、モノクロ写真は数か所でひび割れ、縁はもろもろとはげていた。写真には、これから入学式に向かうのか、嬉しさと照れ笑いを一緒にしたような表情の少年が写っていた。少年は、自宅らしい共同住宅の前で真新しいランドセルを背負っていた。
「辛い人生やったんやなあ、おたく」
「おたくやて、嫌やわあ」
「せやかて、名前まだ聞いてませんさかい」
「あっ、そうでしたわな。うち、久子いいますねん。久々の久ゆう字と子どもの子」
女は名前だけを言った。夫の姓を名乗りたくないのかもしれない。
「久子さん――でっか。ええ名前ですなあ」
「谷岡さんもええ名前ですやん。隆夫さん言わはるんでしょ」
「えっ、なんで知ってはりますのん」
「嫌やわあ。前に言うてはりましたやん」
「そうでしたかいなあ……。まあ、今ごろ言うのも変やけど、よろしゅう頼んますわ」
久子――、もし幸子が生きていたら、このような女性になっているのだろうか。久子の不遇な人生は、幸子のそれを映したように似ている。
久子は、老眼鏡を外してレンズをハンカチでふいた。そのハンカチで鼻を押さえ少し音を立てて鼻水をすすった。
「うち、きょうはもう病室に戻りますわ。しょうもない話してごめんやで。せやけど聞いてくれて、ものすごう気い楽になりましたわ。おおきに」
そう言って久子は立ちあがった。久子のひざからなにかがはらりと落ちた。さっき見せてくれた息子の写真。
「あっ、これ」
隆夫が写真を拾って、久子に渡そうとしたとき、すでに廊下に久子の姿はなかった。隆夫は写真を胸ポケットに入れた。
「八歳のときか……」
隆夫は、正一が八歳のときの私鉄のガード下での出来事をまた思い出した。
―――――
(つづく)




