十一 幼い息子
賭の虫
十一 幼い息子
母を失った正一は、子どもの無邪気さからか、ひと月もしないうちに母のいない生活に順応していた。
賭け事に狂う父と、小学低学年のひとり息子だけの生活がはじまった。
父子の生活は相当にすさんでいた。毎日の食事は店屋物を買ってくるか外食ですます。服は何日も着たきり、洗濯物がたまったら洗面器の下に隠して風呂屋に持っていき、見つからないよう陰でこそこそと洗った。
三畳間のなかは、敷きっぱなしの布団の上にスポーツ新聞が広げられ、その上に脱いだばかりの衣服やランドセルからあふれた教科書やノートが散らばっていた。部屋の四隅には食べ残しの汁が残るどんぶり、カビが生えた割り箸、ジュースの空き瓶、スイカの皮、トマトのへた、タバコの吸い殻で盛りあがった灰皿。部屋を斜めに渡した洗濯ひもには黄ばみの残った下着がぶら下がっていた。
隆夫は、朝、正一が学校に行く時間になると起こす。隆夫がする親らしい役割はこれだけで、息子が起きるとふたたび眠る。起こされた正一は、洗顔も歯みがきもすることなく、寝床に座ったまま、眠い目をこすりながら前の晩に買ってあった菓子パンをひとりで食べ、服も着替えずに登校した。
学校から帰るころには父は出かけていた。正一は、部屋のゴミをどこかに寄せ、ノートを広げられるだけのスペースを空けて、寝転がって宿題を片づけたあと、公園に遊びに行く。夕方、父が帰ってくるころに家に戻り、ふたりで夕飯を食べに出かける。そのあとはいつものパチンコ屋。閉店の音楽が鳴るまで父が打つ台の横に座って過ごし、そのあと風呂屋に寄って帰る。そんな生活だった。
すさんだ生活だったが、隆夫はしばらくの間、遊ぶ金に困ることはなかった。幸子をはねた運転手から多額の賠償金を手に入れたからだ。思わぬ金が手に入った隆夫は、今まで金をせびってきた親戚に一円も返そうとせず、全部現金にして持ち歩いていた。「倹約してつかいまいよ」と言う母の言葉を「ふんふん、わかっとる」と聞き流す。幸子の四十九日の法要もそこそこに、競輪競艇に通うのだった。大きな金を持っていることで気も大きくなって、一度に賭ける金額は大きくふくらんだ。
そんな生活がいつまでも続くわけもなく、すべての金を使い切るのに半年もかからなかった。
金がなくなってからの隆夫と正一の生活は、いっそうすさんだものとなった。隆夫はふたたび、会う人会う人に金を無心してまわるようになった。隆夫はそうして得た金をつぎからつぎへとギャンブルにつぎ込んでいくのだった。
借りられるところから借りつくし、もう借りるところがなくなっても働こうとせず、ついには正一が通っている小学校に出向き、授業中の息子の担任教諭を呼び出して借金を申し込むようなこともあった。隆夫は空いている理科室に通されて、担任の女性教諭のほか、教頭や学年主任や指導主事やほかの数人の男性教諭に取り囲まれて、「正一くんのためにもっとお父さんがしっかりしなくては」と懇々と諭された。隆夫は、反発することも得意のしつこさを発揮することもできず、ただ「はい、はい」とうなずくだけだった。うす暗い理科室の木製の棚にはビーカーやフラスコや試験管が並び、壁には小学生向け人体内臓模式図が貼られていた。隆夫は結局、茶を一杯出されただけで帰らされた。担任教諭が席を外している間、自習するようにと指示された教室で、正一は、先生がなにをしているのかも知らないまま同級生と一緒に騒いでいた。
幸子の賠償金を使い果たしてから、二か月経った。寒い冬、隆夫のすさみきった生活が改善されることもなく、また新しい年が来ようとしていた。
これ以上散らかりようのない三畳間の鴨居に打たれた釘には、半年以上も放ったままの紙袋が引っ掛けられていた。紙袋のなかには、葬式のときに掲げられていた和服姿の幸子の遺影が、寂しそうな表情をながめられることもなく、逆さに突っ込まれた位牌とともに放り込まれていた。紙袋の横には、泥が着いたままの夏用サンダルも一緒にぶら下がっていた。
年の押し迫った暮れ、隆夫は、正一を連れて今年も郷里に帰るつもりだった。ところが、昨年までなら幸子と一緒についてきた正一が、この年は帰省することに頑強に抵抗したのだった。
母の命と引き替えに得た、途方もない額の賠償金を使い果たしただけでなく、親戚という親戚からせびれるだけ金をせびってきた隆夫。そんな父が正月に故郷に帰って、快く迎えられるわけがない。正一は小さいながらもそういう状況がわかっていた。帰省しても、自分だけほかのいとこと違った扱いを受ける。みんな正一に同情してくれている、ということもわかっている。そんなことも辛いけれど、伯母のなかには、隆夫に対する愚痴を小学生の正一に向かって平然とこぼす者もいる。ひょっとして、正月の祝いの席で、また隆夫が一悶着起こすかもしれない。正一にとっては耐えがたいことだらけだった。去年までは、母のもとにいればそんなことも耐えられた。親戚がこぼす愚痴も母が受け止めてくれていた。だが今年からは、その唯一頼ることができる母がいない。母が亡くなって九か月、今まで母のいない寂しさをさほど実感していなかった正一だったが、年末のこのときはじめて、母のいない辛さを身にしみて感じていた。
帰省に反対する正一の態度は尋常ではなかった。気が狂ったかと思うほど泣き、叫び、暴れた。隆夫がいくらなだめ、脅しても従わなかった。人気のない真っ暗な私鉄のガード下、列車の騒音にかき消されることもないほど激しく泣き叫ぶ正一を怒鳴りつけ、逃げようとする正一の腕をつかみ、ついには平手で顔を打つ隆夫の姿があった。たったふたりで生活している父子の大げんかだった。
結局、根負けしたのは隆夫だった。隆夫はこの冬はじめて帰省しない正月を迎えた。
この町の正月は言いようのない寂しい空気が流れていた。ほとんどの店舗は店を閉め、玄関に飾られたしめ飾りや門松だけが正月らしさをあらわしていた。道路を通行する人は少なく、その少ない通行人は、いつもと変わらず汚れた服に年中履き続けている長靴を履いた男たちだった。
隆夫がいつも行く飲食店も店を閉じていた。隆夫は息子を連れて、営業中の店を求めて閑散とした商店街のなかを延々と歩いた。にぎやかだった大晦日の晩とはうって変わった光景だった。心当たりの飲食店を探しつくした隆夫は、仕方なくシャッターが閉められている馴染みの飲食店の前で、声を張りあげて店の主人を呼び出し、なにか食わしてくれと頼み込んだ。店の主人は屠蘇で真っ赤になった顔を見せ、呆れた調子で隆夫に言った。
「ほんま、谷岡さん、なに考えとんねん。正月は、どこも店閉めることぐらいわかっとるやろ」
「すまんすまん、ほんま、こんなことになるとは知らんかったんや。正月やっちゅうのに朝からなんも食うてへんねん。頼むわ。雑煮でも食わしてえな、金は払うから」
店の主人は、隆夫の横にいる息子を見て「明けましておめでとう」と言って笑顔を作った。そして「しゃあないな。まあ入り」と言ってなかに入れてくれた。
紅いニンジンが浮かんだすましの雑煮をすすりながら、隆夫は、年末の正一との言い争いからこうなったことを説明した。
「ほんまに頑固なんやから、こいつ」
はふはふと雑煮を食べている正一を見て、隆夫が言った。
「正一くん、田舎帰るんがいやか」
店の主人が正一に尋ねると、正一は雑煮を食べる口を休めることなく「うん」とうなずいた。
「正一、お前、あんこ入りの餅入った雑煮が好きや、言うてたやんけ。せっかくそういうのん食わしたろ、思とったのに」
「ぼく、これでええねん。こっちのほうがうまい」
「ほら、こういう頑固なやっちゃねん」
隆夫は主人に苦笑いして言った。
「そら、谷岡さんが悪いわ。奥さん亡くならはってからの谷岡さん見とったら、正一くん逆らうんも無理ないで」
隆夫は軽くうなずいた。正一の頑強な抵抗は、自分が原因だということは、言われなくてもわかっている。
「谷岡さん、今年こそ真面目に働かなあかんで。正一くん見てみいな。こんなええ子、なかなかおれへんで。正一くんを真っ当に育てたい思うんやったら、一所懸命働かなあかん」
店の主人は、屠蘇から冷や酒に変えて、目まで充血させた顔で隆夫を諭した。
「わし、こんなこと言う義理ないけど、なんや谷岡さん見とったら言わんとおられへん。ほんま働きや。こんなことでは奥さんうかばれへんで」
隆夫は主人の説教に答えずに言った。
「おおきに、ごっつぉさん。腹いっぱいになったわ。勘定して」
「きょうはええ。正一くんへのお年玉や。ほんまちゃんとしいや、谷岡さん」
隆夫は主人に礼を言って店を出た。店の外では風が音を立てて吹いていた。
―――――
「あのときの正一は、ほんま頑固やった」
夜、隆夫は、照明が消された病室のベッドに寝ころんで、廊下からもれる薄明かりでぼうっと浮かぶ天井の模様を見つめ、きょう二万円くれた正一と昔の正一とを重ね合わせた。
「よっぽど嫌やったんやろな、田舎に帰るんが」
私鉄のガード下での言い争い、列車が上を通過する耳をつんざくような騒音のなかで「いやや、いやや、いやや。いなかなんか帰りたない。いややあ」。まだ八歳だった正一の叫び声が響いていた。
隆夫は、ふっとため息をついた。毛布を頭までかけて目をつむった。つむって眠ろうとした。夜勤の看護師が、懐中電灯の光を天井に向け音も立てずに病室に入ってくる。ひとり一人の患者の様子を確かめて、また音も立てずに出ていった。隆夫は右に左に寝返りをくり返す。なかなか寝つけない。まぶたの奥にガード下の光景がまだ残っていた。また「ふっ」とため息をついた。
つぎの日、隆夫は、朝の検診と包帯の巻き直しが終わったあと、売店に行ってタバコとスポーツ新聞を買い、ロビーの昨日と同じ二人掛けのベンチを占領して、新聞を読みはじめた。慣れた手つきで目的の競輪・競艇欄を開き、関西の競艇場で行われるレースの予想記事に目を落とした。何とか杯決勝とか書いてあったがそのようなことはどうでも良く、どういうレース展開になり配当がどれくらいになるか、隆夫の興味の対象はそのことだけだった。隆夫の心のなかにはまた賭け事の虫が騒ぎはじめていた。
(つづく)




