十 死の淵で
賭の虫
十 死の淵で
つぎの日の朝、アパートの廊下で、管理人の老婆を挟んで中年の男と女が言い争っていた。
「ほら、この便所見てみい。ずぼらせんと、ちゃんと掃除せんかい」
「せやから言うてるやん、わたしの番、ちゃう言うて。なんべん言うたらわかるねん」
「ほなだれや、言うてみ、だれが当番やっちゅうねん。黒板見てみい。ここに中田って書いてあるやろ。これ、おばはんの名前ちゃうんか」
「とにかく、わたしとちゃう。なあ管理人さん、わたし言うてたやろ。今週二、三日留守するから、当番だれかに代わってもうてくれへん、言うて」
ふたりは管理人のほうを向いた。今まで、頭の上で言い争っているのを聞いていた管理人があわてて言った。
「そっ、そうでしたかいな。中田さん言うてはった? そう言われたら言われたような気いも、しますねんけど……」
「なんや、管理人さん、しっかりしてえなあ」
「ちょっと待ってえな。当番表持って来まっさかい」
老婆は管理人室に戻っていった。女は腕を組み「ほんまにもう」とつぶやいて、背中を追った。男はむっつりした表情で女を見ていた。
「ええと、今週の当番は――、せやせや、谷岡さんに変えたんやったわ」
管理人がノートを見ながらこっちにやってくる。
「ほら、みい。わたしとちゃうやろ。掃除は谷岡の爺さんにやってもらいいな。わたしは知らんから……」
「ちょっ、ちょっと待て……」
男は、女の言葉をさえぎって、なにか思い出したように言った。
「なあ――、二、三日前やけど、谷岡のおっさん、目腫らして廊下よたよた歩いてへんかったか。だれかに殴られたみたいで……」
「そうそう、そういや、わたしも出かける前に見たわ。なんや、ごっつう気色悪かったわ」
「おい、谷岡のおっさん、ひょっとして、部屋でくたばっとんとちゃうか」
「まさか――」
「ともかく、谷岡さんの部屋へ行きまひょ」
三人は、ばたばたと足音を立て、隆夫の部屋の前にやって来た。扉を叩いて呼びかける。
「谷岡さあん。今週のトイレ当番、谷岡さんやで。わかっとるやろ。全然、掃除してへんやんか」
「おいこら、おっさん、なかにおるんわかっとるんやど。出てこんかい」
三人の男女が激しく叩く扉の音に、まどろみの世界にいた隆夫はむりやり目を覚まされた。永遠の眠りにつくつもりだった隆夫は、ふたたび世俗に引き戻らされたことを知った。目をうすく開ける。陽の光がまぶしい。降りつづいていた雨は止んでいた。モノクロのネガ像とポジ像が交互に入れ替わるような情景のなか、一羽の鳩が窓の外の柵にとまって隆夫のほうを向いているのが見えた。
「谷岡さあん、おるんやろ。わかってんねんで。出てけえへんかったら、こっちから開けるで」
「やっぱり、おっさん、くたばってしもとんや! あかんがな!」
男がバンと扉を開けた。
そこには、布団の上で動けなくなって餓死しかかっている隆夫の姿があった。強烈な臭いが三人の鼻を刺激した。
「うっ、臭さっ」
臭気にめげず女は隆夫の顔をのぞきこむ。隆夫のほおを叩いて叫んだ。
「谷岡さん! 谷岡さん! しっかりしい」
隆夫は右目を少し開け唇をほんの少し動かして、「ああ……」と応えた。
「おおっ、生きとる生きとる。すぐに救急車呼んだらなあかん」
男がそう叫んだ。管理人はあわてて電話をかけに戻っていった。
「谷岡さん、もう大丈夫やで。しっかりしいや」
女は隆夫の耳元に叫び続けた。隆夫は目を閉じ心のなかでつぶやいた。
「助かってしもた……」
幽界から現世呼び戻された隆夫目開け部屋の様子見渡した。ふたたびネガ像ポジ像入れ替わる、真っ青アイシャドー塗った五十女隆夫の顔のぞきこみ口ぱくぱくなにやら叫ぶ。隆夫唇少し動くだけ。「おばはん、歯に青のりついとるで」
隆夫目玉動かし横見る。視線の先在りし日幸子モノクロ写真、折り目つきぼろぼろ。食卓の上置いていた写真、その写真はらり食卓から落ち隆夫の目入った。幸子楽しそう笑っていた。
「幸子、会うのん、また今度や」
隆夫ふたたび目閉じた。
―――――
三十六年前、幸子の遺体は小さな寺に運びこまれた。
四国から駆けつけた親族が葬儀社の担当者とあれこれ打ち合わせている横で、隆夫は火の着いていないタバコをくわえ、うつむいたまま考えごとをしていた。しばらく経って、死に化粧を施された幸子が部屋の隅に運びこまれ、続いて棺桶が届いた。ふたりの担ぎ手が、硬直した幸子の遺体を、太い丸太でも持つように棺桶のなかに納めた。
葬儀は庭に面した本堂で行われた。幸子と正一に同情する大勢の弔問客が参列するなか、借り物の礼服を着た隆夫は、僧侶の読経をかしこまって聞いていた。隆夫の横では、同い歳のいとこのよそいきを着せられた正一が、ひざをそろえて座っていた。祭壇に掲げられた和服姿の幸子の写真は、寂しげな表情で正一とその父を見ていた。弔問に訪れた正一の同級生が、玉砂利を敷いた庭に設けられた焼香台の前に立って、それぞれの親から言われたとおり手を合わせていた。焼香の匂いが立ち込めるなか、導師と数人の僧侶が合唱する読経は、独特の節拍子でハーモニーを形作り頂点に向かっていった。
読経のあと、出棺を前に棺桶が開けられた。敷きつめられた白い菊花が悲しい芳香を放ち隆夫の鼻を刺激した。死に化粧でも消しきれないほおの傷が痛々しかったが、花に包まれた幸子の唇は微笑んでいるように見えた。十年あまり前、四国の町で隆夫と出会ったとき、そのときに見せた微笑みを今また見せていた。隆夫の口から嗚咽の声がもれる。ついに耐えきれなくなった。大粒の涙が目からあふれ出る。おいおいと泣いた。爆発したように泣いた。
―――――
「幸子、今は往けんようになった。もうちょっと待っとってくれ」
担架に乗せられ救急隊員に運ばれながら、隆夫は心のなかで幸子に語りかけた。
隆夫は病院に運ばれて手当てを受けた。外傷は左まぶたの裂傷と右足の骨折、ほかに打撲と擦り傷が数か所、右足の骨折以外は軽傷の部類に属するものだった。点滴を受け入院二日目の晩にはものを食べられるまでに回復した。信じられないほどの簡単な処置で、こんなにまで元気になるかと隆夫自身が驚いた。
入院生活は快適だった。初日、二日目は寝たきりだったが、三日目には病院内をうろつき、四日目には病院の食事だけではもの足らず、売店で買ったあんパンをむしゃむしゃと食った。
きょうも、息子の正一が妻と孫の真吾を連れて見舞いにやってきた。正一たちは、病室に行く途中の喫煙所でうまそうにタバコをくゆらせている隆夫に出会った。隆夫は「よっ」と言って三人を迎えた。タバコの火を消し松葉杖を手に持って、左足だけでぴょんぴょんと跳ねながら、息子に近づいてくる。四人はロビーの外来患者用のベンチに移動した。目の傷も治りかけ、足のギプスは一、二か月で外せる、この松葉杖が使いにくくて、と隆夫は言った。
「どないや、病院生活は」
「悪うない。部屋はきれいし飯もちゃんと食わしてくれる」
「そうか、良かった。せやけど親父、ほんま憎まれっ子世にはばかるやな」
「わいが生きとるんがそんな不思議か」
「親父みたいなんが一番長生きしよる。殺しても死なへん。ほんましぶといわ」
ふたりの会話を笑って聞いていた正一の妻が「アイスクリームでも買うてきましょか」と隆夫に尋ねた。
「おおすまん、ほな、あっさりしたやつを頼みますわ」
「はい、ちょっと買うてきます。真吾、一緒に行こ」
妻はそう言って子どもの手を引いて売店のほうに向かっていった。隆夫は正一に小声で言った。
「なっ、ちょっと金まわしてくれ」
「ほら来た。まあ金のこと言うてくるのはわかっとったけど」
「一円もあれへんねん。きのう、おんなじ部屋のおっさんに千円借りたんや。このタバコもそれで買うてん」
「なんで、最後の金までギャンブルにつぎ込んでしまうねん」
「まあ、そう言うな。今のうちに親孝行しとったほうがええぞ」
正一は財布から一万円札二枚を取りだして隆夫に手渡した。
「おおきに、おおきに、いつも、すまんの」
「この金で競輪やボート行ったら承知せんぞ。まあ、入院中やから無理やと思うけど」
「わかった、わかった。ほら、喜美子さんが来よるぞ」
隆夫は二万円を懐にしまいながら、売店の方向を指さした。
売店から戻ってきた妻は、「お待たせしました」と言って、かき氷風のアイスを隆夫に手渡した。
「おおきに。喜美子さんいつもすまんの。わいが病院に運ばれた日、一晩中、付き添うとってくれたそうやの」
「どうってことありませんよ。それより、こんなに早う元気になりはって」
「はは、正一も言うとったけど、憎まれっ子世にはばかるやから」
「いえ、お義父さん、あたし、そんなつもりで」
「わかっとる、わかっとる」
隆夫はそう言って、三本しかない前歯を見せて笑った。
「お母さん、ぼくもアイスクリーム」
「はいはい、真吾はこれやね」
喜美子は、円錐形のコーンに入ったアイスクリームを真吾に手渡した。真吾は受け取るなり包みを破って食べはじめた。
隆夫が孫に尋ねた。
「真吾、学校は楽しいか」
「うん、まあね。ぼく、算すうと体いくがすきやねん。ほかのべんきょうは、まあまあやね」
「そうかそうか。まあ楽しかったらそんでええ」
「なあ、おじいちゃん」
「なんや」
「人げん、仕ごとちゃんとせえへんかったら、くずになるってしっとる?」
喜美子が、突然むせてアイスクリームを吹き出した。
「しっ、真吾、なっ、なに言うとん。そんなことあるわけないやろ」
妻はあわてて否定した。否定したとたん、真っ赤になってうつむいた。
「はは、せやな、真吾は利口やな。仕事せえへんかったら人間くずになるで。ちゃんと仕事せなあかん」
と隆夫は答えた。
「ふうん」
真吾はきょろりとした目で隆夫の顔を見ながら、納得しがたいという表情で返事した。喜美子は耳までも真っ赤にして、うつむいてアイスクリームを食べていた。正一は、にやにやと笑ってふたりを見比べていた。
「せや、そろそろ部屋戻って晩めし食わなあかん。早よ食べんと給食持ってきよるおばはんが、片づかん言うて怒りよるねん」
隆夫は使い慣れない松葉杖でからだを支えながら、正一らを玄関まで送っていった。正一は「ほな、また来るわ」と言って手を振って出ていった。真吾も会釈する喜美子に手を引かれながら、もう片方の手を振っていた。
病院の外では少し陽が陰ってきていた。真夏が近くなっている気配があった。もうすぐ梅雨明けが宣言されるだろう。頭の真上から太陽が照りつける炎熱の日々がやって来るのだろう。
「正一が今の真吾の歳ぐらいやったか、幸子が死んだんは」
隆夫は、正一と真吾とを重ね合わせて、正一の若いころを思い出していた。
―――――
(つづく)




