52話 あなたを呪ったのは③
その夜、夢を見た。
足元がじわりと濡れている。冷たくて、ぬるりとした感触。恐る恐る下を見ると、黒い水が足首まで満ちていた。
逃げなければ、とは思う。けれど、足が動かない。
ぐるる、と低い唸り声が闇の中から響いてくる。
黒い影が、じわりと形を成していく。大きい。とても大きい。鱗のような外皮が、鈍く光っている。
魔獣だ。
私は、思わず後ずさった。けれど、足が水に取られて動かない。
魔獣が、こちらを向いた。
(この魔獣、どこかで――)
影が、私に向かって跳びかかった。
◇
はっと目を覚ます。
心臓が、早鐘を打っている。全身に、じっとりと汗をかいていた。
窓の外はまだ暗い。
夜明け前で、薄い月明かりが、部屋の中に差し込んでいる。
夢を見たけれど、何の夢だったか、もう思い出せなかった。
(夢見が悪い……)
枕に顔を押しつけて、目を閉じる。もう一度眠ろうとしたけれど、胸のざわめきはなかなか消えなかった。
◇
いつも通り、魔法学校で仕事を終えて学内の廊下を歩いていると、私に背中にぞぞっと寒気が走った。
(……寒い)
まるで氷魔法を受けてしまったのだろうかと思っていまうくらい寒い。
さすがの私でも、これは絶対に風邪なんかじゃないことはわかる。
(はやく、戻ろう……)
備品庫に戻ろうとしていたのだが、曲がり角を過ぎたところで、足が止まった。
空気が、変わった。
冷たい。骨の髄まで染み込んでくるような冷たさだ。
「グルルル……」
「ひっ」
低い唸り声が、壁の向こうから響いてきた。
(この声……夢で聞いた……!)
逃げなければ。
本能的にそう思った瞬間、廊下の先の空気が歪んだ瞬間。
――見るのもおぞましいほどの魔獣が、そこにいた。
廊下の天井まで届きそうな真っ黒な異形が、ゆっくりとこちらに向かってくる。
鱗のような外皮が、ぬらりと光っている。
「っ……!」
私は踵を返して走った。
足が縺れる。心臓が痛いくらい打っている。後ろから、ぐるると唸る声が近づいてくる。
床が、影に侵食されるように黒く染まっていく。
(こ、この魔獣、私が図書室でみた禁書の……!)
私は思い出した。
呪いの本の第二古語訳を探す時に、間違って禁書を触ってしまったことを。
(あの時から、ずっと狙われて……?)
曲がり角を曲がって、また走る。
どこへ逃げればいいのか分からない。
開けたところにでると、向こう側に生徒たちの姿が見えた。
(……あの子たちを巻き込む訳には!)
私は踵を返して、元の建物の中に入ると魔獣を誘導するように人気の無いところへ走った。
けれど、次の曲がり角を曲がった瞬間――行き止まりだった。
「……っ」
振り返ると、影がゆっくりと近づいてくる。逃げ場がない。
壁に背中をつけて、私は腕で顔を庇った。
(終わった……)
魔獣が牙を剥いて、生臭い息が、私の顔にかかった。
真っ赤な口の中が見えて、心臓が早鐘のように打つ。
(お父様もお母様も、こんな気持ちだったのかな……)
思っているよりも、死ぬというのは怖いらしい。
そうして、魔獣が牙を向いた時だった。
胸元が異常に熱をもったかと思うと、魔獣の攻撃を跳ね返した。
よく見れば、祭りの時にヴィクター様のくれたネックレスが淡く光っており、私の周りに結界を作っていた。
(ヴィクター様……!)
しかし、それも長くは持たなかった。ぱりん、と周囲の結界が割れて、食べられることを覚悟した、その時。
「アリス!」
次の瞬間、私の前に誰かが立つ。黒い髪、黒いローブ。ヴィクター様だった。
走って来たのか、髪はボサボサでびっしょりと汗をかいている。
「よく頑張った。もう大丈夫だからな」
彼の後ろ姿を見ただけで、凄まじい安堵感と押し寄せてきて泣きそうになってしまった。
ヴィクター様が手をかざすと、魔獣に向かって炎が上がり、熱い空気が頬を掠めた。
魔獣が怯んだその隙に、ヴィクター様が魔法陣を展開する。複雑な模様が地面に浮かび上がり、魔獣は吸い込まれていった。
私は、壁にもたれたままずるずると座り込んだ。足が、がくがくと震えている。
呼吸が、うまくできない。
ヴィクター様が私の前に膝をついて、顔を覗き込んでくる。赤い瞳が、真剣に私を見つめていた。
「怪我はないか」
「は、はい……」
私が頷くと、ヴィクター様はほんの一瞬だけ目を閉じた。
それから、ゆっくりと立ち上がる。
「弱いくせに囮になろうとするな! 人気のないところへ走ってどうする!」
私は思わず縮こまる。確かに、無謀だった。
ヴィクター様は少しため息をついて、それから少し優しい顔になる。
「……って言っても、お前の性格的に生徒たちには助けは求められなかったんだろう」
ぎゅっと抱きすくめられて、私は動けなくなった。
ヴィクター様の心臓の音が、耳のすぐそばで聞こえる。速く、力強く打っている。
「間に合って、ほんとうに良かった……」
声が、少し掠れていた。
そして、ヴィクター様は小さく息を吐いたあと、眉を下げた。
「こいつは、俺が学生時代に封印した魔獣だ」
「えっ」
「昔は魔法が下手だったから、物に閉じ込める下級の封印しかできなくて。危険物扱いされて、禁書の棚に入ってたはずなんだが……」
ヴィクター様が私を見る。
その目には、既に答えが分かっているような色が浮かんでいる。
「……図書室に行ったのか?」
「えぇと、結構前に……」
ヴィクター様の目が、すっと細くなった。
「で、禁書を触って――」
「す、すみません……。知らなかったんです……」
ヴィクター様が、深くため息をついた。呆れているのか、安堵しているのか、その両方なのか。
「 魔獣に狙われてる兆候はなかったのか?」
「……寒気がしてたから風邪かなと」
「鈍感もここまでくると呆れるな」
先生に怒られている生徒のようになり、私はしゅんとしながら居住まいを正した。
「次に何か感じたら、必ず俺に相談しろ。いいな」
「はい……」
私が反省しまくっていた時、後ろから声がした。
「あら、アリスだけを責めるのはお門違いなんじゃない?」
振り返ると、レイア先生が廊下の端に立っていた。
いつから見ていたのだろう。腕を組んで、懐かしそうな顔をしている。
「その本に封印するとき、あたしも立ち会ったのよねえ」
「レイア先生」
「物に封印する時は、『封印を解く条件』を設定しないといけないのよ」
「レイア先生」
なぜかヴィクター様が、レイア先生が喋ろうとするのを阻止しようとしている。
「そ、その条件って……?」
私が聞くと、ヴィクター様が「言うな」というようにレイア先生を見た。
「秘密だ」
「えー……」
「秘密だ」
ヴィクター様は焦った顔をしていたけれど、レイア先生はどこ吹く風だ。
なんなら、楽しそうに話し始めた。
「当時やさぐれてたヴィクターはね、『世界一愛する人が本に触れると解けるとかいう――』」
「あーっ!!!!」
ヴィクター様が、大声を上げた。
私は、目を丸くした。ヴィクター様があんな声を出すところを、初めて見た。
ヴィクター様の耳が、みるみるうちに真っ赤になっていく。
(世界一愛する人、が……私……?)
頭の中が、うまく整理できない。
その時、廊下の向こうから、ぱたぱたという足音が聞こえてきた。振り返ると、生徒たちが遠巻きにこちらを見ている。いつの間に集まっていたのだろう。
「見てたのか?」
「「はい、全部!」」
リオとリラが、声を揃えて無邪気に答えた。
「怖いけど……すごく素敵……」
誰かがそう呟くと、周りからも次々と声が上がる。
「グランハート先生、格好良すぎる……!」
「しかも世界一って……」
「不器用すぎて、逆にいいっ……!」
生徒たちが、じわじわとヴィクター様に近づいていく。気がつけば、彼のことをぐるりと取り囲んでいた。
「ちょ、なんだお前ら」
ヴィクター様が、明らかに動揺している。
「散れ!」
低い声で言っても、生徒たちは動かない。
むしろ目を輝かせて、わあわあと声を上げながらヴィクター様に詰め寄っていく。気がつけば、ヴィクター様はすっかりもみくちゃにされていた。
「あらあ、人気者じゃない」
レイア先生が、楽しそうに笑っていた。
私は、胸元のネックレスをそっと握りしめる。まだほんのり温かい。
(世界一、か)
顔が、また熱くなった。




