第十九話 駒
餌。発せられた言葉に、蓮は愕然とする。
まだ月龍と出会う前、非公式ではあったが蓮と亮は許嫁のような立場だった。亮が頷きさえすれば、いつでも婚姻が成っただろう。
それを先延ばしにしていたのは亮だ。その当時、亮は言っていた。おれとの結婚はお前を政治の道具にすることだ、だからできれば避けたいのだと。
その亮が蓮を餌と言ったのか。すぐ横にいる蓮に一瞥すらせずに。
「理由はなんでもいい。そうだな、邸が襲われて怪我をしたとでも、病に侵されたとでも言っておけ。蓮の命に危険が及んだと聞けば、あの男はなにがなんでも帰って来ようとするだろう」
「たしかに――!」
あいつならそうだろう。話す亮に、蒼龍は迷いなく頷いた。
この会話だけでもわかる。二人は共通認識として、月龍が蓮を愛していると考えているのだと。
「だがな、ここにも問題がある。蒼龍、お前の言うことを月龍が信じると思うか?」
「――!」
今にも動き出そうとした蒼龍を押しとどめたのは、亮の非情な一言だった。蒼龍の顔色が変わる。立ち上がりかけた姿勢のまま、ぐっと唇を噛みしめているのが見えた。
「――まあ、今のお前に言うのも酷だとは思うがな。事実なのだから仕方がない」
僅かに同情めいたことも口にするが、そこに感情が乗っているようには見えない。かといって、責めている様子も見えなかった。亮はただ淡々と事実を並べていく。
「月龍は散々、お前の嘘に踊らされたからな。今はある程度の信用を置いている様子だったが――否、今度は月龍の身を案ずるあまりの偽りだと考えかねない」
無論、と亮は続ける。
「おれが令を発した、ということにはする。なんなら書簡も認める。だがそれでもあいつが信じる保証はない。なにせお前には、おれの懐剣すら偽造した前科がある」
蒼龍は反論できない。返す言葉もないとはこのことだろうか。亮は責めることなく、正論で相手を追いつめる。逃げ場などどこにもなかった。
「あれを偽造する人間ならば、おれの筆跡をまねて書簡を偽造するなど容易だろう」
「では――では、力ずくでも連れ帰ります。縛りつけて引きずってでも――」
「そうしたら別部隊はどうする」
必死の形相で言いつのる蒼龍を、亮は一蹴した。呆れ気味の横目を蒼龍へと流している。
「指揮官を不在にさせて連れ戻すなど、さすがにおれでも許容はできんぞ」
「ですが、それでは――!」
「――扁将軍が適任か」
口を開きかける蒼龍に、亮はあっさりと言い放った。長い前髪をかき上げる仕草を見れば、彼がこの件をすでに考えていたことは窺い知れる。
「お前と扁将軍、二人で行け。将軍には月龍の後を任せる旨、正式な軍令として発する」
ああ、と蒼龍が頷く。亮の短い一言だけで、蒼龍は了解したらしかったが、蓮はただ事の重大さに驚きを隠せなかった。
扁は禁軍の将だ。その人をも動かさなければならないのか。それほど事態は切迫していると――月龍の死を、二人がどれだけ危惧しているかを表していた。
「うちの昏君が、我が身可愛さに主力軍を都に残しておいたのは、皮肉なことに幸いだったな。今ならば扁将軍が抜けても、さほど痛手はない」
「たしかに。扁将軍は月龍の信頼を得ている、数少ない人物でもあります」
「お前のことも知っているしな。考えるほどに適任だ」
月龍は扁に蒼龍を引き合わせた、とは聞いていた。蒼龍の身を預かった彼が、色々と手を尽くしてくれたことも聞き及んでいる。
蒼龍や月龍だけではない。亮も扁を信認している。
――今の蓮にはひと欠片の信すら置いていないような、亮が。




