第60話 転んじゃった
ひとしきり熱唱を終えた杠葉は、吐息混じりにアイスティーのストローを咥え、ソファへ深く身体を預ける。
俺は自然と拍手を送っていた。
音程や技術だけで言えば、プロと比べればまだ粗削りな部分はあるのだろう。けれど、杠葉の歌には妙に人の感情を引き込む力があった。
上手い、だけではない。
声そのものに、ちゃんと体温を感じた。
「俺、好きだわ。杠葉の歌」
「……ありがと。歌には、ちょっとだけ自信あったんだ」
シンプルに、けれどしみじみと感想を伝えると、杠葉は気恥ずかしそうに顔を逸らした。
俺は続ける。
「なんて言うんだろ……俺、あんまり音楽には明るくないし、妹以外とカラオケ来たのも初めてだけどさ、人の心を震わせる歌は本当にあるんだなって、そう思ったよ。人の歌を聞いて感動するだなんてフィクションの中だけの話だと思ってたけど、俺が間違ってた。スーザン・ボイルが初めてテレビ出た時も、たぶんみんなこんな気持ちだったんだろうな」
「あ、うん、ありがとう。嬉しいけど、でもちょっと褒めすぎかな」
「歌って、その人自身が出るものなんだな。お前の歌を聞いてて思った。繊細なのに芯があるっていうか……優しい感じなのに、奥の方が全然揺らがないんだよ。カラオケじゃなくて、ちゃんと杠葉ちとせの歌になってるのが凄い。つーか、シンプルに声質が良すぎる。耳が幸せだぜ」
「ね、ねぇ、わたしの機嫌取ろうとして、過剰に褒めてない?」
「幸せ、そう幸せだ。俺は今、杠葉の歌声を独占できているこの瞬間の幸せを噛み締めている。できることなら杠葉の歌をもっと聞いていたいんだが、どうだ、杠葉。まだ歌えそうか? 時間、延長してもいいか?」
「も、もういいからっ!」
杠葉は勢いよく身を乗り出し、L字型ソファの角を越えて俺の口を塞ごうと両手をばたつかせた。
その素振りはあくまで照れ隠しで、本人的には本当に手で口を塞ごうとまでは思っていなかったのだろう。だが不運なことに、立ち上がりかけた拍子に足がもつれる。
「あっ」
短い声が漏れる。それが杠葉のものだったのか、俺のものだったのかはわからない。
しかし、次の瞬間には柔らかな重みがそのままこちらへ倒れ込んできていた。
反射的に身体が動く。俺は妙な既視感を覚えながら、杠葉を抱き止めた。
いつぞやとの違いがあるとすれば、今回は無理に支えようとして変なところへ手を伸ばさなかったことくらいか。人は経験から学ぶ生き物である。
ふわり、と甘い香りが鼻先を掠める。
シャンプーなのか、柔軟剤なのか、それとも女子高生という生命体特有の何かなのか。俺の浅い人生経験では判別不能だった。
杠葉の吐息や体温まで鮮明に感じられるほどの至近距離。
ほんのり熱を帯びた肩へそっと手を添え、俺はゆっくり身体を押し戻した。
「……何回目ですか、杠葉さん」
「……まだ二回目ですけどなにか」
杠葉は何事もなかったみたいな澄まし顔で席へ戻ると、アイスティーを一口啜って無理やりクールダウンを図る。
ストローの先端がグラスの奥底をズズズと啜り上げる虚しい音が響く。
吸い込んだばかりの空気を、ふう、と細く吐き出した杠葉はこちらを見ずに言う。
「天ヶ瀬くんのせいで転んじゃった。天ヶ瀬くんが変なことばっかり言うから」
「俺のせいかよ」
「わたしのおっぱいを揉みたくて転ばせようとしたんだ」
「これが中傷ってやつですか。お前が勝手に鈍臭く転んだだけだろうが」
「わたし鈍臭くないもん。天ヶ瀬くんの念力のせいだもん」
「もしも俺に超能力があるなら、そんなくだらないことには使わねー」
じろりとこちらを睨む杠葉。
「キミって、こういうどうでもいいところでは臆面もなく変に素直になるよね。どんな性格してるのよ、ホント」
「何を言う。俺は臆面の塊のような男だぞ。それに杠葉の歌声をどうでもいいとはなんだ。たとえ相手が杠葉でも怒るぞ」
「なんで自分の歌声のことで怒られなきゃいけないの……」
「激昂するぞ」
「激昂されちゃうんだ……」
臆面の塊って日本語もどうなのよ、と呆れ混じりに付け足す杠葉。
空気を切り替えるように、小さく咳払いをした。
「んんっ……まぁ、さっきの話だけれどね」
「さっきの話?」
「加賀崎さんとのデートのこと」
「ん、ああ」
「現時点でわたしから言えるアドバイスは、さっきみたいに相手のことを褒めてあげることかな。そういう意味では既に合格かも。褒められて嬉しくない女の子なんていないし」
「ほう、いないんですか」
「うん、チュパカブラと同じくらい、いないよ」
「本当に実在しない生物で例えるのってどうよ」
「加賀崎さんがどんなことを考えて天ヶ瀬くんを誘ったかはわからないけれど……でも、男の子と二人で遊びに行くなら、それなりにオシャレはしてくると思うんだよね。気にしてるかどうかに関係なく。そこはきちんと褒めてあげないとダメだよ」
「ふむふむ」
「あ、でもさっきのはやり過ぎ! あんなの普通の女の子にやっちゃダメだからね! わざとらしいのは女の子だって気づくし逆効果なんだからね」
早口で捲し立てる杠葉。弁に熱を帯びる。
なるほど、勉強になるなあ。
「……ただ」
再び口を開きかけた杠葉は、そこで少しだけ言葉を詰まらせた。
さっきまでの勢いが急に萎む。
アイスティーの氷が、からりと小さく音を立てた。
「こんな言い方したらあれだけど――加賀崎さんには、あんまり肩入れしすぎない方がいいと思う。アドバイスしておいてなんだけれど」
「肩入れ――は、別にするつもりはないけど」
杠葉はどこか言いづらそうに視線を落とした。
「もしかして杠葉、お前も加賀崎の噂とやらを鵜呑みにしてるのか? あれはそうじゃないと――」
「ううん、そうじゃないよ。その逆だよ」
ゆっくりと首を横に振った杠葉は、意を決したように顔を上げ、真っ直ぐこちらを見据える。
「そんな噂なんて、どこにもないんだよ」
たぶんね、と小さく付け足した。
「どこにもない……って、どういうことだよ」
「うちのクラスの倉持ちゃん、いるでしょ。陸上部の」
倉持。もちろん知っている。
同じクラスだ。
……まあ、知っているだけだが。会話を交わしたことは、もちろんない。
しかし思い返してみれば、昨日陸上部と顔合わせをした時にもいたような気がする。
「倉持ちゃんに聞いてみたんだよ。噂のこと――加賀崎さんのこと。そしたらね、そんな噂、知らないって言うの」
「それは……でも、倉持が本当のことを言っていない可能性だってあるだろ」
倉持が関わっていると言うつもりは毛頭ない。だが、部内の揉め事や醜聞は外に漏らしたい話とは言い難いだろう。
杠葉は小さく頷く。
「そうかもね。倉持ちゃん、いい子だし、こういう話が好きなタイプじゃないから」
そこで一度言葉を切り、続けた。
「だから、念のためにわたしの知り合いの一年の子にも聞いてみたんだよ。その子は加賀崎さんと同じクラスで、彼女とも仲がいいみたいなんだけど、その子も聞いたことがないって言ってたの。仮にそんな噂が広められているとしたら、陸上部と関係がない友だちくらいには相談してもおかしくないと思うんだよ」
杠葉はそこで一息つく。
それから、少し迷うように目を伏せた。
「……もしかしたらわたしの考えすぎかもしれない。本当は友だちにも相談しづらいだけかもしれないし」
たださ、と続ける。
「加賀崎さんが何を考えているのかはわからない以上、あまり深入りしすぎない方がいいと思うの。もしも噂が嘘だというのなら、加賀崎さんが、天ヶ瀬くんを使って何かしようとしてるってことだから」
そこまで言いきると、杠葉は悩ましげに視線を伏せた。
杠葉が倉持のことをいい子と形容したように、杠葉もまたいい子なのだ。良く知らない相手のことを悪く言うというのはあまり気分がいいものではないのだろう。表情からは様々な葛藤が読み取れた。
「ありがとう、杠葉」
「…………」
未だ何か言いたそうな表情の杠葉。
「……なんだよ」
「加賀崎さん、天ヶ瀬くんのこと、好きだったりして」
「はあ?」
何言ってんだこいつ。
そのニュアンスをたっぷり込めて視線を送るが、杠葉は妙に真剣な表情である。
「いやいや、ないない。あいつの好みは知らんが、惚れられるきっかけがねえよ。そもそもあいつとの出会いだって偶然みたいなもんだし」
「神楽坂さんみたいに、昔どこかで会ったことがある、とか」
「んなラブコメみたいな話がそうホイホイあってたまるか。第一、俺が一目惚れされるような人間に見えるかよ」
「んー、二目惚れよりは一目惚れの方が可能性あるんじゃない?」
「どういう意味だそれはァ」
知れば知るほどがっかりするとでも言いたいのかコラァ。
杠葉は小さく肩を揺らして笑う。
「一目だろうが二目だろうが、加賀崎が俺に惚れてるなんてことあるわけないから心配すんな」
「心配なんてしてないけど」
杠葉はそう言いながらも、どこか探るみたいにこちらを見る。
「でも、どうしてそう言い切れるの?」
「いやまあ、理由を聞かれると難しいんだが……なんとなくだけど――たぶんあいつは、俺のことなんて見てないと思うんだよ」
加賀崎の瞳を思い出す
あいつが見ているのは、見据えているものは。
もっと先の何か。
もっと別の場所。
そんな気がしてならない。
その道の最中で、たまたま俺という名の石ころを拾いあげたに過ぎないのだろう。
何かに向けて投げつけるために拾ったのか、物珍しくて拾っただけなのか、その意図まではまだ俺にはわからないけれど。
「それに、俺なんかに惚れる女子がそんなポンポン出てくるわけないだろ。打ち出の小槌じゃあるまいし。俺のことは俺が一番よくわかってるんだよ」
神楽坂のことがあったからといって変に思い上がったりしない。
俺はそういう人間だと自覚をしている。
杠葉は、面白くなさそうに「ふうん」とだけ呟いて視線を逸らした。
「……ま、どうでもいっか」
杠葉は興味を失くした様子で、再度マイクを手に取った。
デンモクの画面を指で弄りながら、ふと思い出したように顔を上げる。
「あぁ、それとね。これも聞いたのだけれど――」




