第61話 教えてあげるわ
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「――あらあら、誰かと思えば」
翌朝も加賀崎から存分にしごかれた俺は、近くの公園にある庇のついたベンチでスポドリ片手に束の間の日陰を満喫していると、頭上から聞き馴染みのある声が降り落ちてくる。
「ごきげんよう、陽太郎くん。こんなところで会うなんて奇遇ね」
微塵も奇遇などと思ってもいなさそうな平坦な声で神楽坂詩は言った。
つばの広い真っ白な帽子に白のワンピース。清楚をそのまま形にしたような出で立ちは、不思議なほど周囲の景色に馴染まない。
まるで人の輪郭だけを残して背景を塗り潰した絵画のように、神楽坂だけが無垢で、異物じみて見えた。
手にしている漆黒の日傘がコントラストとなり、神楽坂の白さをより一層際立たせる。もはや清楚を通り越してある種の神聖さすら感じるほどだった。
深窓の令嬢が本当に存在するのだとしたらきっとこんな格好をしているのだろう。そんなことをぼんやり考えながら口を開くが、意表を突かれたせいか、あるいは疲労困憊がゆえか、喉の奥で言葉が目詰まりを起こす。なんだか息苦しい。
バカみたいに口を半開きにして固まる俺に対し、神楽坂は怪訝そうに眉を顰める。
「おや、私の挨拶が聞こえなかったのかしら。仕方ないからもう一度言うわね。ごきげん陽太郎くん」
「……その愉快な挨拶は是非とも俺がごきげんな時に頼む」
漸く捻り出した言葉は、然して上手い返しとは言い難いものだった。やはりごきげんの対極みたいな身体的状況では良質なコミュニケーションは難しい。まあ、他者とコミュニケーションが取れないのは元気いっぱいの時でもそうなのだけれど。
神楽坂は日傘を畳むと、そうするのが当たり前のような顔をして俺の隣に腰掛ける。
「ふう、今日も暑いわね」
「……お前、なんでこんなとこいんの」
憮然とした表情の神楽坂。
「あら、随分と失礼なことを言うわね。私が日本に居ることがそんなにおかしいかしら」
「そんな壮大な話はしてねえよ。なんでこの公園にいるのかって聞いてるんだ」
「何を言ってるの。ここらへんは私の庭なのよ。私が庭を散歩しようと私の勝手でしょう」
「お前の家は真反対だろうが。どんな嘘ついてんだ」
「日本全土が私の庭よ」
「だから話がでかすぎるって」
しかし神楽坂家ならあり得るというのが微妙に笑えなかった。
流石に日本全土というのは盛りすぎだけど。
「なんてね。陽太郎くんが楽しそうなことをしていると聞いたから顔を出してみたの」
神楽坂は悪戯っぽく笑わない。真顔でそんなことを言いのける。
きっと本当に俺が早朝にランニングしていることを聞きつけてやってきたのだろう。
走り始めたのはつい昨日のことなんだけど、一体どこからそんな早く聞きつけたの? とは訊けない。
恐ろしくて訊けない。
「……で、どうだったよ。顔を出してみた感想は」
お茶を濁したような質問を差し向けてみると、神楽坂にしては珍しく言葉を選ぶようにして顎に手をやる。
「うーん、暑い日に車を使わずに移動するというのは、なかなかどうして骨が折れたわ」
「そうか、それはお疲れさん。ところで公園の入り口にすっげえ高そうな車が停まってるんだが、あれに乗ってここまで来たわけじゃないよな? 車を使わずに移動したって、まさか公園の入り口からここまでの距離のことじゃないもんな?」
「どうしてみんなわざわざ汗水を垂らしたがるのかしら。私には人間の感情が理解できないわ」
「視点が神のそれ」
「ねえ陽太郎くん、人間の感情というものを教えて」
「Siriみたいに訊くな」
スポドリ効果か、はたまた神楽坂効果か。
ほんの少し体力の回復を実感した俺は大きく息を吸い込んでみる。
呼吸、よし。
「そもそもだな、大前提として世の中の大半のひとは汗水を垂らすことが目的で外に出ているわけではないと思うんだよ」
「そうかしら。日本人って汗をかくことでその労力の対価が大きくなるという幻想を抱きがちな傾向にあると思うけれどね。わざわざ長い行列のラーメン屋に並びたがったり、長時間残業している人が褒められがちな空気感だったり。バカみたい、どれだけ汗水を垂らそうが何も変わらないのにね」
「ああ、サンクコスト効果ってやつか」
「私だったらラーメン屋の主人を家に呼びつけることができるし、いくらでも周囲の人を働かせられる。どれだけ庶民が汗水を垂らそうと、神楽坂家には敵わないのにね」
「ほなサンクコスト効果と違うかぁ」
冗談はさておき。
「まぁ、最近はそれほどでもないと思うけどな。タイパなんて言葉も流行ってる――どころか共通の価値観にすらなりつつあるくらいだし、残業だって今はかなり管理が厳しいとうちの父親も言ってたぜ。無意味にとまでは言わないけれど、悪戯に自分の時間を浪費するようなことはあまり好まれないし、推奨もされない世の中になりつつある。だからこそ、それでもわざわざ人が汗水を垂らすってことは、きっとその先には幻想ではない確かな目的はあるはずだと思うんだよ」
「ふうん、そう」
言葉とは裏腹にそれほど納得していなさそうな表情で小さく首を傾げる神楽坂。
「それじゃ、教えてほしいのだけれど、陽太郎くんが汗水を垂らして凡そ5キロもの距離を走り回っている確かな目的とやらは一体なんなのかしら?」
「……」
真っ直ぐな眼でこちらを見つめてくる神楽坂。
灼熱のアスファルトの向こうで陽炎が揺れる。熱気に縁取られるように、神楽坂の輪郭だけがやけに鮮明に映った。
吸い込まれそうになるほど、昏く澄んだ漆黒の瞳から逃れるように、俺は強く目を瞑り、そして開いた。
「……夏休みで暇だから体動かしています」
「ダウト」
俺の半端な嘘がまるで巻藁のように神楽坂の言葉の刃で一刀両断される。
「聞いたわよ。加賀崎さんと言うのね、あの子」
神楽坂はにこりともしない。
そうだよなあ。
走った距離がバレてるんだから、そりゃ加賀崎のことも知られてるよなあ。
「で、どうしてあなたはそのことを隠そうとしたのかしら?」
「……いや、その」
「なぜ話してくれないの?」
「そりゃあ……これは俺の問題だし」
「陽太郎くんの問題は、私の問題よ」
「うーん、言うほどそうか?」
「そんなことを言っておきながら、どうせ杠葉さんには話をしたのでしょう?」
「……ん、まぁ、一応あいつにも関係がある話だから」
「ふうん、そう。陽太郎くんはそうやって杠葉さんだけ贔屓するのね。悲しい……そう、これが悲しいという感情なのかしら。ありがとう、また一つ私に新しい感情を教えてくれて。ところで、お返しに私の方からもあなたに教えてあげたい感情があるのだけれど」
「怖いって~」
教えてあげたい感情とやらの正体を聞くこともなく、俺は神楽坂のプレッシャーに屈する形で、加賀崎とのあれこれを洗いざらい話した。
話している間、神楽坂は一度も口を挟まなかった。
相槌もなければ頷きもしない。ただ静かに俺の顔を見つめてくるばかり。こいつ本当に人の話聞いてるのか? なんて考えが脳裏をよぎる中、最後まで説明し終えると、神楽坂は黙ったままゆっくりと立ち上がる。
「わかったわ。あなたの置かれている状況、委細理解しました」
「はぁ」
「陽太郎くんの言葉をまとめると――要するにあの小娘を消せばいいということね」
「一つも言ってねぇよ」
「陽太郎くんに教えてもらった通り、行間を読んでみました」
「俺が教えたことが活かされていないってことだけはわかった」
「大丈夫、証拠は残さないわ。言ったでしょう、ここは私の庭なのよ」
「こんな伏線回収はいやだ……」
冗談みたいな応酬だったが、神楽坂の目は少しも笑っていなかった。どうやら本気で怒っているらしい。
どうどう。
「まあまあ、落ち着けって。あのねぇ、神楽坂。俺の代わりに憤慨してくれるのは凄くありがたいんだけれど、ぶっちゃけ俺自身はまだそこまで困っていないんだよ。そりゃあ、毎朝のランニングに付き合わされるのは、フィジカル的には正直しんどいけれど、健康のことを考えれば必ずしもマイナスばかりってわけじゃない。むしろ、今となっては加賀崎が何を企んでいるのかが純粋に気になるというか――まぁ、そんなわけで、加賀崎のことはもう少し様子見しようと思ってるんだよ」
「……そう」
神楽坂は小さく頷いた。
「あなたがそう言うなら私も、もう何も言わないわ。陽太郎くんも知っての通り、私は聞き分けのいい女」
「残念ながらお前にそんな印象はないけれど、ありがとな」
「いいのよ。私はあなたの言うことには、それがたとえどんなものであっても、何だって従います」
「……そういう滅多なことはあんまり言わない方がいいと思うが」
「陽太郎くんのことだから、きっとえっちな命令をしてくるのでしょうけれど、それでも私は従うわ」
「お前の中での陽太郎くんはそんなヤツなの? お前、本当にそんなヤツが好きなの?」
「好きよ。たとえどんなあなたであっても、陽太郎くんは陽太郎くんだから」
「おぉぅ……」
「どうかしら。これが愛情という名のついた感情らしいわ」
半ば俺から引き出したようなものではあったが、それでもストレートな好意を伝えられると頬が熱くなる。よく恥ずかしげもなく言えるなぁといい意味で感心するが、それこそが神楽坂詩の強みであり、魅力だ。
「むしろえっちな命令の一つくらいしてみなさいよ」
「倒錯的だなぁ」
まぁ強みとは言っても、さすがにもう少し恥じらいはあってもいいと思う。
というか、そもそもとして大っぴらに言ってよい言葉でもないだろう。
倫理的に。道徳的に。
「……あのな、神楽坂。お前も色々と思うところはあるんだろうし、俺がお前の気持ちに何も返せてないのは事実なんだけどさ、だからといって過激な方向にシフトするってのは良くないと思う。いや、別に俺がそれを真に受けて何かをするってわけじゃないぞ。ただ、こういう関係は、健全性の上に成り立つべきものだと、俺は思うんだよ。俺は、お前の気持ちにどう応えるべきなのか、しっかりとニュートラルに考えたいんだ」
少し説教じみていたかもしれないが、嘘偽りない本音だった。
理想論だと笑われるかもしれない。それでも俺は、純粋に向き合いたいと思っている。
神楽坂にも――それ以外にも。
しかし、俺の渾身の台詞に対し、神楽坂は思いのほか呆れたような表情を浮かべた。
「陽太郎くん、あなた何か勘違いをしているんじゃないのかしら」
「はい?」
「私はたとえ誰が相手でも、自分の気持ちを偽ったりはしない。私が発する言葉は、それがどんなものであろうと、どこまでいっても私自身のための言葉でしかないの。自分の気持ちを捻じ曲げたり、押し殺してまで、不本意な何かを口にすることはないわ。私の世界は、今あなたで一杯だけれども、それでも私の世界はいつだって私だけのものなのよ」
「……どういうことだよ」
意味が分からず眉をひそめた俺を真っ直ぐ見たまま、神楽坂は言った。
「私は、陽太郎くんのことを性的な目で見ています」




