16-1
目的地である聖堂は、石畳を敷き詰めた重厚なアプローチの先に構えられた大扉と、その奥に幾重にも羽根のようにそびえ立つ美しい尖塔が際立つ、壮麗なものだった。しかしかつては鮮やかに輝いていたのであろう灯籠や壁は薄汚れてヒビが入っており、手入れもなく放置されて久しかったことを示している。
その大扉の前には、美しい妖精の姿をしたゴーレムが、壁にもたれながら座り込んでいた。アステルだ。
アイビーは車が停まると、すぐに降りてアステルに手を振った。
少し警戒した顔で車を眺めていたアステルが、微笑んで立ち上がる。そうして右手の親指と人差し指で輪を作ってアイビーに向けると、期待した眼差しで首を傾げた。首尾は上々かと問いかけてきているらしい。
「アッシュフォード先生に追われたけど、車を壊してきたから大丈夫だと思う」
アステルはパチリパチリと綺麗に瞬きしたあと、満面の笑みでぐっと親指を立ててから、アイビーの頭を両手でぐいぐい撫でてきた。……褒められている、というよりは、ウケたような気がする。
「コンラッドたちは、どう?」
手櫛でアイビーの髪を直してくれてから、指で白い毛先を測ろうとしていたアステルが、また軽く首を傾げてから、自分を指差して、その指を地面に向けた。ずっとここで見張りをしていたらしい。
アステルが玄関扉を押し開ける。アイビーは「ちょっと待ってて」と告げて、車の後方を開けているシルヴェスターのほうに戻り、セシルの絨毯からベルトを取り外すのを手伝った。そうしてシルヴェスターと二人がかりで運ぼうとすると、アステルが近づいてきて、シルヴェスターの肩をつついた。絨毯に向けて両手を伸ばしたあと、自分を指差す。それから、その指をシルヴェスターに向けて、車の運転席、それから聖堂の側面のほうに向ける。
シルヴェスターがきょとんと目を瞬かせた。
「アステルは、自分が運ぶのを代わるから、シルヴェスター先輩は魔導車を裏手に回してきてほしい、と言っているんだと思います」
「ああ、なるほど。……さすが、コンラッドのお姉さん」
アステルは、胸を張ってピースサインを出してきた。
アステルと共に絨毯を抱えて、扉を通り抜ける。聖堂の中は、外観よりも穏やかで優美な印象になっていた。入り口に広い玄関ホールを構えて、その先に祭壇までの道が続いている。
「アイビー! 良かった、無事で」と奥からクレアが走ってきた。「あ……その中に、お兄ちゃんが?」
「うん」
クレアはなんだか困ったように絨毯を見て、再びアイビーに目を向けた。
「ありがとう」
それからもう一度絨毯を見つめて、苦笑する。
「お兄ちゃん、絶世の美女の逸話みたいなことになってないで、早く起きてよね」
その後ろからコンラッドも来て、絨毯とアイビーの姿を確認するように見てから、アイビーに向かって首を傾げた。
「怪我はないんだよな? シルヴェスターは?」
「車を裏に移動させているよ」
そう言うと、クレアが「私、シルヴェスターの様子を見てくるね」と外に出て行った。たぶん、生きていたときは対面できなかった兄が、動かない状態で側にいることが、落ち着かなかったのだろう。
「そっか。お疲れ様。危ないことはなかったか?」
コンラッドはアイビーに、絨毯を運ぶのを代わろうとする仕草を見せた。それから「……あ。髪の白い部分、なんか増えてないか?」と眉を寄せた。
アイビーは首を横に振って苦笑した。
「髪は今のところは平気。……アッシュフォード先生に追われて、車を壊してきたよ。……あと、こっちの車もパンクさせられて、オーデン先輩が応急処置して無理やり走ってきたから、あとでコンラッドが直せないと、帰れないかも」
「ええ……?」
コンラッドはいろいろな意味を込めたそうな顔で呻いた。
「あ、でもオーデン先輩は、地面にタイヤへの加護を命じたとか言っていたから、よくわからないけど帰れるのかも……?」
コンラッドの顔が、くしゃっと萎れた。
「なんだそれ……。まあ後で見てみるよ。えっと、セシルさんを起こしたあとに、すぐに歩かせるわけにはいかないだろうし」
ものすごく渋い物を口に突っ込まれたかのようにボヤきつつも、すぐに気を取り直したように頷いてくれる。さすがコンラッド。アイビーは感激した。普通の感性が心に染み入る。
「そこの祭壇の奥にさ、もう一つ部屋があったんだ。クレアが開けてくれた。そこに寝かせてやってくれ」
コンラッドが、聖堂の一番奥を指差した。
祭壇は、美しいステンドグラスに彩られていた。
アイビーは、降り注ぐ光に感嘆しながら、周囲を見回した。祭具らしき物はまったく置かれていないが、柱に彫られた不死鳥らしいレリーフやちょっとした装飾が、とても繊細で綺麗だと思ったのだ。
しかしアステルは、ものすごく物言いたげな目で、気ままそうに飛んでいるエリオスと、ステンドグラスに描かれているエリオスらしき聖鳥の姿を見比べていた。
ステンドグラスの正面に翼を広げた不死鳥は、実際のエリオスの三倍くらいの大きさで、物々しい雰囲気をしている。
確かにこれは、ベネディクトが「そんなに慎ましい鳥だったのか」と言っても仕方なかったかもしれない。
まったくわからなかった祭壇裏の引き戸をコンラッドに開けてもらい、少しだけ細い廊下を通り、最奥らしい部屋に着いた。
そこは、祭壇というよりは執務室のような印象で、先ほどよりも少し控えめな赤金色のステンドグラスはあるものの、さほど広すぎるわけでもなく、壁には空の本棚がずらりと備え付けられていた。
エリオスは、そこがかつてのお気に入りだったとでもいうように、ステンドグラスの下にある専用らしき止まり木に降りた。
アイビーたちは、その前に用意されていた低い長机の上で絨毯を解いて、セシルの身体を横たえた。
「……どう?」
「やっぱり、細胞が崩れていない……と思う。棺の中は腐敗防止機能がいろいろついているけれど、一週間近く経てば、少しは傷んでくるものなんだ」
コンラッドは、セシルの死に装束にされた儀礼ローブを少し脱がせて身体を確認しながら、緊張気味に呟いた。
「でも、死斑どころか褥瘡もあんまりない。さすがに運んだときにできたっぽい赤みはあるけど……かなり特殊な状態だと思う」
「良かった」とアイビーは胸を撫で下ろした。そもそも人間の構造はよく知らないうえに、運んでくるまでに何か失敗していた可能性も怖かったのだ。
コンラッドは真剣なまま、セシルの身体を示した。
「アイビー、いいか? セシルさんの心臓は、ここにある。肺はこのあたり。それから、儀式中は、心臓と同等に大事な、脳を守ることにも意識を向けてくれ」
アイビーは、深く頷いてセシルを見た。それから、コンラッドが手に取った物が気になって、首を傾げた。
「それはなに?」
「これ? これは、クレアが宝物庫を漁って見つけてきてくれた、なんか良い感じの聖杯」
手渡されたそれを、アイビーはまじまじと観察した。赤金色に輝いているそれは、口の広い器に脚がついていて、アイビーが両手で持ちたくなる大きさと重量があり、内側には無数の赤いルビーらしき宝石が、柔らかな円を描くように象嵌されている。
「……えっと。聖杯というか、酒杯っぽい火鉢……? あ、でもちゃんとエリオス用っぽい」
「ちゃんとしたやつだと思うよ。クレアが言うには、ご先祖様はエリオスを祀るというより友人として接していただろうから、こういう儀礼的なやつは王家が滅んだあとは使わなくて、一族しか開けられない倉庫の奥に放置してた感じだったんだろうけどって……これを使っていた記録を、昔に本で見たらしい。でも、俺らとしては残ってくれていてかなり助かったと思う。これに、俺が加工したキトリニタスを入れておく。始めるときに、エリオスの回復の火を点してくれ」
「点火したあとは、どうなるの?」
「これもキトリニタスも、妖精と人間が交流するための聖域を組み上げる物だろ? だから、この粉に纏わせたエリオスの火を媒介にして、アイビーはセシルさんの体内に留まっている雪魔法を少しずつ解除する感じかな。あと、たぶんこういう魔女の魔道具の良いところは、勝手に良い感じに調整してくれることだから、アイビーならなんとかなる」
「う、うん……」
アイビーは戸惑ったまま頷いた。けれどコンラッドは本気で問題はないと思っているようで、またセシルの身体に目を向ける。
「まずは上半身からだ。最初に心臓と、その周辺を少しずつ温める。そのまますぐに脳と脊髄を温めて、繋げてやるイメージだ。絶対に、どこか一箇所を温め過ぎたら駄目だぞ。心臓も脳も、無理やり動かせば、身体が壊れる」
「……うん」
「心臓と脳がゆっくり温まって動きはじめたら、肺を動かして、空気を通してやる。これも、少しずつな。焦ると冷たい血が全身に回ってしまう。それと、もしも気道に雪魔法が残っていれば呼吸がしづらいだろうから、気をつけてやってくれ」
アイビーは、いったんコンラッドの声をそのまま記憶して、ゆっくりと自分の中に落とし込んだ。
「大丈夫そうか?」
「うん。普段から重要だと思っている部分と同じだから……心臓、脳、肺と、それを繋ぐ部分を意識する。こうだよね?」
「そうだ。大丈夫そうだな。アイビーなら」
コンラッドは、にっこりと笑ってくれた。
「上半身の循環が問題なく始まったら、下腹部を温めて、それから太ももに移る。へその周辺の臓器を温めてから、爪先に向かって下りていく感じだ。逆は駄目だぞ」
「わかった。上の温かさを、下まで届ける感じだよね?」
「その認識でいい。……もしもすぐに思っていた反応が得られなくても、絶対に焦らなくて大丈夫だからな。まずは身体を戻すこと。起こすのはその後だ」
「……わかってる」
コンラッドの気遣いが嬉しい。アイビーは深く頷いてセシルを見つめた。そのまま目を閉じて、今はまだ静かに眠っているだけの彼が、目を開ける瞬間を思い描く。
けれど、ふいにコンラッドの学生章に、着信が入る。コンラッドが応答した途端、エミリーの焦った声が届いた。
『コンラッド! アイビーとは合流できた?』
「隣にいるよ。どうした?」
『パルマケイアの教師が来て、アイビーの居場所を探っていったの!』
不安そうなエミリーに、コンラッドは安心させるようにゆっくりと答えた。
「それなら既に退けてきたらしいよ」
『そうなの? 良かった、怪我はないのよね? でも、お父様たちが動き出して……ごめんなさい、棺が空なのがバレたわ。すぐにお父様の傘下の魔術師たちが動く』
その言葉に、さすがにコンラッドが表情を険しくした。
「……エミリーは無事なのか?」
『……ええ』しかし肯定したエミリーの声は暗かった。『私……いったん、魔女に騙されたことにしたの』
「それなら良かった。私を庇って誰かが酷い目に遭うの、もう嫌だよ」
アイビーは、コンラッドの学生章に向かって声を張り上げた。
「エミリー、無事でいてくれてありがとう」
エミリーは、一瞬答えに詰まったようだった。続いて聞こえた声に、震えが混じる。
『アイビー、ごめんね。頑張って。……信じてる』
「うん。エミリーにそう言われたから、すごく頑張れそう」
アイビーは、両手で胸を押さえた。大好きな友人のコンラッドとエミリーがアイビー・エインセルを信じてくれるなら、できるに決まっている。
「シルヴェスターと話してくる」
通信を終えたコンラッドがそう言った途端、扉が開いて、クレアが駆け込んできた。
「コンラッド。アイビー! シルヴェスターが、魔術師たちに周囲を囲まれているって……!」
「今、エミリーから聞いた」
「そう、じゃあシルヴェスターと私で足止めするから! アイビーはお兄ちゃんのことお願い!」
それだけ叫んで、クレアはまた走っていった。アステルがコンラッドと目配せして、後に続く。
アイビーは両頬を押さえた。セシルの妹で魔女でもあるクレアのお願いは、叶えるしかないのだ。




