16-2
「じゃあ、やるか」
コンラッドがキトリニタスの瓶を開けて、聖杯に注いだ。美しい金色の杯が、金の粉で満たされる。
エリオスが、ふわりと翼を動かして、止まり木からセシルの側に降り立った。キトリニタスが、燃え上がる。未完成の賢者の石が、静かに赤みを帯びていく。
「コンラッド」
アイビーは、その炎を眺めながら呟いた。
「私は、セシルさんと話したい。起きてほしい。生きてほしい。……だから、頑張るね」
赤色に変わっていくキトリニタスの粉が、ふわりと上空へと舞い上がりはじめた。
「おう」
コンラッドが、ゆっくりと高い天井を見上げる。
エリオスは、止まり木ではなく、セシルの傍らに留まって、じっと彼を見つめている。
目を閉じて、祈りを捧げる。
祈る相手は神でもエリオスでもない。アイビーがこの場にいられること。セシルの名前を知れたこと。彼の温かさを既に知っていること――今という時間に敬意を持って、感謝を示す。
それから、アイビーはセシルの心臓の上に触れた。酷く冷たい躯の奥を意識して、ゆっくりと呼吸を長くしながら、蔓を伸ばすように微熱を注ぐ。
心臓に、触れたような気がした。送り届けた微熱を種火として、そっと穏やかに芽吹かせるように広げていく。――春は、もうすぐ訪れる。けれどまだ雪の中だ。焦って咲こうとしてはいけない。
重く冷たい躯の中で、凍てついていた心臓の強張りが解けていく。
アイビーはそっとセシルの額に触れた。……早く笑っている顔が見たい。焦りたくなるのを堪えて、額の奥にも微熱を送る。前髪を上げて、包むように髪を撫でた。最期だと思っていた彼は、あのとき何を想っていたのだろう。悲しい気持ちで終わってほしくない。だから、取り残されたアイビーに憶測なんてさせずに、ちゃんと教えてほしい。
「――っ……」
ゆっくりと、彼自身を守るために止めてしまった自己認識に、外側から干渉していく。
「……セシル・セイン……」
アイビー・エインセルは、シンシア・ヘイズは、既に彼の名前を知っている。
降り積もった寂しさを払い除けるように温めた脳と、人が生きるための核である心臓を繋げていく。極僅かに、アイビーが胸に置いた手のひらの下で、心臓が動き始める気配がある。――彼はまだ生きられる!
「アイビー、呼吸が浅くなってる。順調だから、落ち着いて、深呼吸しろ」
隣からコンラッドが冷静に近い声を掛けてきた。頷いて、息を深めに吸い直す。そうだ、過度に緊張して、無意味に自分を追い込んでいる場合ではない。
ゆっくりと、自分の脈拍の音を聞く。それを伝えるように温めながら、セシルの心臓が動き、緩やかに血を巡らせていくのを待つ。
温かな熱が、肺の周囲を動かしている。そっと息を吹き返すことを願いながら、アイビーは胸の上から手を滑らせて、セシルの喉を指先でなぞり、まだ冷たい頬に触れた。そのまま俯いて、祈り続ける。
遠くで、何かが壊される音が聞こえた。けれど、大丈夫だ。シルヴェスターは強すぎる。クレアもついている。アイビーにできることは、儀式を続けることだけだ。
次第に頬の冷たさが和らいだ気がして、セシルの口元に手を翳す。ほんの僅かに、空気が揺れている気がした。その直後、ひゅっと強く息を吸う気配が確かにあった。
「……あ……」
アイビーは目を見開いて、セシルの顔を見つめた。心なしか、美しく強張っていた表情が、ほんの少し和らいでいるように見えた。おずおずと胸に手を添えてみる。……動いている。アイビーは思わず顔を上げてコンラッドの姿を探した。
「……息、してる……少しだけど……ちゃんと動いてる……!」
コンラッドは、いつの間にかアイビーの背後に移動して扉のほうを向いていたが、振り返ると嬉しそうに笑ってくれた。
「本当か? 良かった、そのまま内臓を温めて、それから太ももな。焦らなくて大丈夫だから」
「うん」
少し焦っていることを隠すような早口で、それでも気遣ってくれたコンラッドに頷いて、アイビーは軽く目を閉じて再度呼吸を整えた。
大丈夫。間に合う。間に合わせる。そのためには、不用意に急いてはいけない。雪の森で生き延びるために、アイビーは何度もそれを学んでいる。
まだ顔色が良いとは言えない、眠りにつくことを当然だと思っているようなセシルに、唇を噛んで微笑む。それから、頬に触れていた手を離して、下腹部に移動する。へその上に触れて、頭に触れていた手も心臓の上に置き直す。内臓を傷めないように、かつて命の緒があった場所から、生きる糧には満たない体温だけを与えていく。雪解けの冷たい水が染み込んだ大地に、穏やかな陽光が降り注ぐように。
心臓付近が体温に近づくのを待って、太ももにその熱を伸ばす。既に循環し始めている血が滞ることのないように、冷たい血が回りすぎることのないように、丁寧に爪先まで生きるための熱を届けていく。
アイビーは、セシルの重たく力のない手を握った。アイビーの記憶の中で、この手はいつだって、こんなに冷たくなかった。アイビーの手をすっぽりと覆えてしまうくらい大きくて、剣と筆を掴んだ痕で硬くなっている、それでも、繊細で優しい手だ。アイビーに向けられたのは、それだけだった。
魔術師を名乗っていても、酷いことをしてこなかった。でも、悲しいことも分けてくれなかった。アイビーにとっては、それが一番悲しいことなのに。
だから、助けたいのはセシルが魔女だからじゃない。セシルが本当に魔術師だったとしても、アイビーはこうして助けようとしている。
けれど。少しずつ顔色が良くなり、皮膚に温かみが戻っても、セシルはなかなか目を覚まさなかった。
「……あれ?」
そのうちに眠り続けるセシルの身体から、ふわふわと輝く赤い粒子が浮き上がり、消えはじめる。
アイビーは混乱して、そして青褪めた。……セシルの魔力が抜けている。
「どうして……?」
セシルは生きているはずだ。だって身体は動いている。なのに、これではまるで、魔女が土に還るときみたいだ。
「嫌だ、やだ、どうして? なんで魔力が抜けるの? こんなの、嫌だよ」
取り乱しかけながら、アイビーはセシルの胸に縋り付いた。生きてほしいと強く願いながら、セシルにその理想のイメージを送りつけようとして――気づいた。
……セシルは、魔女だ。アイビーの魔力暴走を引き起こしたとき、彼は自分が死ぬイメージを、くっきりと持っていた。
「……あ、あぁ……っ、やだ……っ」
今までは、アイビーのこの場に留めようとする魔力と相殺されていた。けれど、アイビーはそれを解除してしまった。だから。
――セシルの想定が、現実になろうとしている。
焦ってセシルの胸に、補うように火の魔力を送り込む。けれど、どうしたって足りないことがわかってしまった。
「起きて……起きてください……死なないで……っ」
アイビーの声は届いていない。深く眠りについているセシルには聞こえない。
背後で物音が酷くなる。コンラッドの声が妙に遠くで聞こえる。
ふいに、エリオスが、短く鳴いた。
アイビーは、びくりと身体を強張らせた。このままエリオスが歌うとすれば、セシルは――。
エリオスが、セシルの身体から離れて飛び立つ。高いステンドグラスの側をくるりと回るように飛んで、それから止まり木に脚を止めた。
翼を広げたまま、ゆっくりと動かす。その体が赤く揺らめいて、美しい炎のようになる。
アイビーは、言葉を失った。
エリオスの身体が、纏う炎の輝きとステンドグラスから差し込む光に照らされて、とても大きく見えた。不死鳥の伝説は、事実だったのだ。
セシルの身体からは、変わらず魔力が抜け出ている。しかし、火の粉のようにふわふわと舞い上がっていたキトリニタスは、エリオスの羽ばたきとともに激しく煌めきながら、セシルとエリオスとその近くにいるアイビーを包むように渦巻きはじめた。
「エリオス……?」
アイビーは、気圧されたまま、胸騒ぎにも似た感覚に気づいて、呆然とエリオスを見つめた。
炎が、今までにも増して燃え盛る。まるで終わりに近づくかのように。
エリオスが、ふわりと飛び上がって、セシルの胸の上に降りてくる。
その瞬間、聖堂が鮮やかに赤く輝いた。
カチリ、と。どこかで針が動く音がした。ゆったりと高く澄んだ聖堂の鐘が鳴りはじめる。――不死鳥の聖堂が、鮮やかな色を取り戻していく。
荘厳な響きに肌が震える。誰かの声が聞こえる。
かつてこの場所で捧げられた祈りと奇跡への称讃の声が、ほんの一瞬、アイビーの耳に届いたような気がした。
アイビーはじっとセシルの顔を見つめた。今、微かに睫毛が震えたような気がしたのだ。
「……セシル・セイン。……エイデン・フラムスティード」
あなたが誰であってもいい。あなたに目を覚ましてほしい。そう願いながら呼びかける。
鮮やかな赤の瞳が、ゆっくりと開く。
「――――…………」




