12-3
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お気に入りのスノードロップの花畑の前で、小さなシンシアが、小さなスコップで黙々と雪を退けている。
冬の昼間、久しぶりに晴れた森では、家と庭の雪掻きをしなければならない。
けれど、このところ二歳になった妹の我が儘が酷く、両親が妹ばかりを贔屓しているのに一人で外で遊ぶことさえできなくて、シンシアは不満だったのだ。
だからせめて、早く庭の端のスノードロップの花が咲いて、周囲の雪を溶かしてほしい。そう思って、そのうち六歳になるシンシアは、せっせとスノードロップの花が咲くための場所の雪を退けていた。母は、春になると苦い野菜がたくさんできる庭の周りの道を、雪掻きしてほしいと言っていたけれど。
しかし、シンシアが意地になって雪遊びを始めて五分もしないうちに、コーデリアがやってきて、シンシアに構い始めた。近くにいても全然構ってくれないくせに、いなくなると心配なのか探しに来てくれるのだから理不尽だ。
「シンシア、何しているの?」
「スノードロップを咲かせるの。雪がなくなれば、咲くんでしょ?」
「うーん、それだけでは咲けないわね」
シンシアはスコップを動かす手を止めて、母を見上げた。
「どうして? 雪の下に、スノードロップがいるんでしょ? いつも雪が溶け始めたら、すぐに出てくるじゃない」
「そうね。でも、それは春になったからよ。いま無理矢理起こしたら、雪の下のスノードロップは死んでしまうかもしれない」
「え?」
シンシアは慌ててスコップを手放した。
「ごめんなさい、もう死んでしまった? 私が悪いことをしたから?」
青褪めたシンシアを見て、母は穏やかなまま、首を横に振った。安心させるように、シンシアの頭を撫でてくれる。
「いいえ。まだ死んでいないわ。春が来るまでちゃんと眠っているわよ」
「本当?」シンシアは最後の不安を拭うために繰り返した。「本当に、死んでいないの?」
母はしっかりと頷いて、微笑んでくれた。
「ええ、大丈夫よ。雪の中にいることは、意外と安全なのよ。雪はとても冷たいけれど、たくさん積もってしまえば、それ以上の冷たさにも晒されないし、外敵にも襲われないわ」
「……襲われない? じゃあ、冬のほうが、安全なの?」
「そうとも限らないわ。ずっと春が来なければ、やっぱり生物は力尽きてしまうもの」
「美味しいものが食べられないから?」
「そうよ。いつかは春になってくれないと、お家にあるカボチャもジャガイモも尽きてしまうし、春にできる人参も芽キャベツも食べられないわ」
「芽キャベツは嫌い。苦いもん……」
「そうだね。苦いのにちゃんと食べていて偉いね、シンシア。栄養がたくさんあるから、ちょっとずつ食べようね」
「わかった……」シンシアは口を尖らせながらも、渋々と頷いた。だって、シンシアがちゃんと大人になれるように、母が森の難しい生活でも頑張って栄養に気遣ってくれることは、ちゃんとわかっている。それでも、芽キャベツの味は思い出すと口の中が苦くなるだけだ。
「お母さん。じゃあ春はどういうものなの? 春が来たことを、種はどうやって知るの?」
「うーん、わかりやすいのは土の変化かな? シンシアも、朝になると目が覚めるでしょう? お日様の光が入ってきたら自然と起きられるけれど、雨や雪の日でも、なんとなく同じ時間に起きることが多いよね? 植物も同じように、決まった期間をたっぷりと眠ってから、春になる土の中の温度や水分の変化を感じるの。少しずつ暖かくなって、雪が溶けると、芽を出して、太陽の光を受けようとする」
「じゃあ、いま雪の下にいる植物たちは、どうなっているの? 私たちがカボチャを蓄えるみたいに、栄養を蓄えてからお休みしているの?」
「よく考えたわね。正解よ。すごいわ、シンシア」
「えへへ。……でも、寒いのは寂しいし、なんだか悲しいの。早くお花が見たいな」
「そうね。だから、もしも雪を退けて温めてあげたいのなら、寂しい場所に置いたままでは駄目なのよ」
母はシンシアの手を引くと、家と広い庭のあいだにある、小さな温室に向かって歩き出した。
母が管理するその中では、冬でも青々とした葉が育ち、美しい花が咲いている。
その中で、一際赤いダリアが目に留まる。
視界が赤に埋め尽くされる。
いろいろなものが焦げた臭いがする。
まだ火のくすぶる瓦礫の家。落雷で折れた周囲の木々。炭化した視界の中で、とうとう独りぼっちになってしまった赤い髪の少年が、泣きながら懇願する。
「止めて、その歌を歌わないで……まだ父様も、母様も、クレアもっ、死んでない……そのはずなんだ……嫌だ……」
エリオスは、美しい声で歌っていた。
これだけは、いくら新しい宿主となったまだ幼く憐れな少年の願いでも、エリオスは聞き届けられなかった。不死鳥は、自分が愛すべき司書の末裔たちへ手向ける鎮魂歌を止められない。
それは、歴史を見届ける代償として語る言葉を失った不死鳥の妖精が、唯一発せる音だった。
「エリオス……止めて……っ、誰も死んでないんだ……クレアだって、どこかで……生きているんだ……だから……っ」
まだ目の前の現実を受け止められない少年が、酷く擦り剥いた足を止めて、地面に座り込む。鮮やかな炎を宿すための瞳が、燃え尽きた彼の小さな世界を映していく。
「う……ぅ、うぅ……っ、あぁ、うぁあぁ……っ!」
たった独りになってしまった少年が、目を閉じて耳を塞いで泣き叫ぶ。彼が抱えて逃げていた、彼のための魔導書が、何もかも灰へと還った地面にとさりと落ちる。挟み込まれていた彼のための銀ボタンの栞が、土で汚れる。
その上空で、エリオスはただ歌い続けていた。
彼は一昨日で十一歳になった。そうでなければ、生きていたのは彼の母親だっただろう。
彼の父のように戦える者は、最初に死んだ。エリオスが一昨日まで加護を与えて成長を見守ってきた彼の母は、子供たちを庇って死んだ。彼は両親を振り返る妹を連れて逃げ続けて、けれど追っ手が彼の妹の足場を壊して、姿勢を崩した妹は、咄嗟に兄の手を離して川に落ちていった。
それは、一族の後継者を死なせないためで――けれどたった十一歳にしかならない子供が、一族をすべて喪って取り残されて、何を受け継げるというのだろう。
けれどエリオスは、新しい宿主を導くことはできない。それどころか、生まれたときから見守っている少年を慰めることすらもできない。
自分が愛する一族を満足に守れなかった不死の鳥には、ただ愛する者たちに別れを告げることだけが許されている。
鎮魂歌に紛れて、どこかで控えめな鐘の音が鳴っている。
シンシアは、歌うエリオスの声を聞きながら、ゆっくりと意識を浮上させようとした。
けれど身体はまだ重く、沈むように意識の浮上を阻まれる。引き戻されるように、シンシアの意識が落ちていく。
ささやかな鐘の音が、近くなる。遠い誰かの歌声が風に乗って届く。
美しい少女が歌っている。長い青紫の髪と簡素な白いワンピースを無造作に風に靡かせて、青く輝くストールを纏い、ブルーベルの森に佇んでいる。
控えめな声が静かに歌を紡ぎ、吹き抜ける風がそれを溶かしていく。少女の淡い青の瞳が、ぼんやりとこちらを視た。ぱちりと、目が合う。
『――……あなたは、誰?』
その瞬間、シンシアはブルーベルの森にいた。ほんのりとした甘い香り。柔らかな木漏れ日に満ちた世界。
そこに佇む少女は、見覚えのある顔立ちをしていた。
「……レヴィヴィス……?」
少女が不思議そうに首を傾げた。ああ、そうだ。レヴィヴィスは人工妖精だった。同じ顔立ちの、別のブルーベルの妖精は、たくさんいる。
「レヴィヴィス? ……それはあなたの名前? それとも、私に似たブルーベルの妖精の名前?」
鐘の音のように澄んだ声で、控えめに尋ねられる。
「ごめんなさい。妖精違いでした。レヴィヴィスは、私とお友達になってくれたブルーベルの人工妖精の名前で、私はシンシアです」
シンシアはそう名乗ってから、少し迷ってから問いかけた。
「あなたのことは、どう呼べばいいですか?」
人と関わったことがない妖精ならば、名前を持っていないこともある。個体を識別する必要がないからだ。
けれど少女は、記憶を辿るようにしばらく空中を見た。やがて、自信なさげな声で呟く。
「ブレーウェン、だったと思うわ」
「ブレーウェンさん、ですか? もしかして、あの……? 騎士アシェルとの恋物語の……?」
シンシアは驚いてブレーウェンに確認した。実在して、しかもまだ生きているとは思っていなかったのだ。
そもそも、どうして突然、ニヴァリスやエリオスの記憶を見せてもらっていたはずなのに、別の妖精と繋がったのかもわかっていない。
ブレーウェンは、風に揺れるように小さく頷いた。
「……アシェル……うん、そんな名前だったのかも」
「覚えてないんですか?」
ブレーウェンは、ゆっくりと首を横に振った。
「ううん……思い出したわ。賢者の石を求めるのに夢中になって……私とは生きてくれなかった人ね」
悲しそうな吐息を零したブルーベルの妖精は、ゆっくりと屈み込むと、足元のブルーベルを無造作に摘み取った。
それから、黙ってブルーベルの花弁を撫でると、ぼんやりとそれを眺め始めた。
シンシアは、しばらくブレーウェンの反応を待ってから、長く生きた妖精が、人間とは異なる時間の感覚を持っていることを思い出した。
「……アシェルは、あなたと同じ時間を生きるために研究していたんじゃないんですか?」
「人間が、妖精と?」
ブレーウェンは、ことりと首を傾げて、またシンシアを見た。
「同じ時間を生きたいのなら、同じ時間を生きればよかったんじゃないかしら」
「え……?」
「あの人は、いつか私と暮らすためだと言って、側にいた私よりも、賢者の石を求めることに夢中だったわ」
怪訝な顔をしたシンシアに構わず、ブレーウェンは再びブルーベルの花を撫でた。そして、花びらをつまみ、引っ張り始める。
「最期のときも……ずっと寂しかった私に、自分がいなくなったら、私に寂しい思いをさせる、なんて謝ってくれたわ……」
ブルーベルの花びらが、傷んで破れる。それをどう思ったのか、ブレーウェンは目を伏せて、ブルーベルの花を茎ごと地面に捨てた。
「私は……あの人に愛されたかった。不老不死になんて、人間がなるものじゃないもの……好きな人に、生きている間に、私を見て欲しかった……それだけだったわ」
ブレーウェンの淡い青の瞳が、茫洋とシンシアを見た。
「……私、どうしてあの人が好きだったんだろう……? ……あなたは、わかる?」
シンシアは、少しだけ躊躇ってから、首を横に振った。
「ごめんなさい。私には、わかりません。だって、私はたぶん……あなたとは正反対の人を好きになったんです」
ブレーウェンは、パチリと瞳を瞬かせた。
「どんな人?」
「……他の人のことばかりを考えている、たった一つしか変わらない人が好きなんです。――だから、助けなきゃ」
シンシアは、はっきりと口に出した。
ブレーウェンの静かだった表情が、ふわりと緩む。次第に花が綻ぶように、香り立つような瑞々しい笑みに変わる。
「そう。それも素敵な恋ね」
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