12-2
戸を叩く音。それから「入るよ」と言う女性の声がした。しかし、戸が開いて最初に見えたのは、一目で妖精とわかる、美しい金緑の長髪と輝くような美貌を持つ男性だった。彼はあまり大きくない戸を、まるで王宮の扉のように優雅に開けて、後ろにいた女性の手を取って入室させる。
「ありがとう、オーレル」
落ち着いた声でそう告げた女性は、白髪交じりの髪をきっちりと編み上げた、姿勢の良い五十代くらいの魔女に見えた。けれど彼女が歩く度に、足元からコツンと音がする。左足が、木の義足なのだ。
戸惑うアイビーの顔を見て、不思議な女性は表情を緩めた。そうされると少し険しい顔立ちが和らいで、アイビーはようやく彼女の優しげな眼差しに気づけた。
「……とりあえず、自己紹介をしようか。私はマーガレット。マーガレット・ベリルだ。彼はオーレル・ヴェリタス。北東にある森を治める妖精で、今は私たちに力を貸してくれている」
オーレル・ヴェリタスという青年の姿の妖精が、マーガレットの左隣に立って鷹揚に頷いた。
「あ……マーガレット・ベリル、様……?」
そう言われてアイビーはようやく彼女が誰なのかを理解した。魔女を守るために戦い続けている生きた英雄、森羅の魔女マーガレット・ベリル。森の魔女の子供ならば、誰もが寝物語に聞く存在だ。
「おや、知っていたのかい?」
「はい。生前の祖母が、ベリル様には大変お世話になったと、何度も感謝の気持ちを語っておりました。ありがとうございます」
アイビーは慌ててベッドから降りようとした。しかしオーレル・ヴェリタスが素早く近づいてきて、アイビーを制止する。
「いいよ、ベッドの中で楽にしていてくれ。体調の悪い若者に畏まってもらうために魔女狩りと戦ってきたわけじゃないからね。……まったく、行儀の良い子だね。パルマケイアで堂々と魔女を名乗って入学してきたんだって? やるじゃないか」
マーガレットは呆れたように肩を竦めた。アイビーは恐縮しながら頷いた。
「ありがとうございます。あの、ベリル様のお名前を、学校で拝見しました。魔女狩りが始まる数年前に、生徒会長をされていたとか……」
「おや、懐かしいね。そんな記録がまだ残っていたのか。どうせ全部焼いたと思っていたけれど。あいつらは本当に、迫害した知識を失うのが怖いんだねぇ」
「はい。旧校舎に、いくつか残っているようです。歴代の魔女の生徒会長とか……それに、ベリル様が書き残してくださった、学校の怪談も……」
「おやおやおや、あれもかい? 今の私のイメージに関わるね」
マーガレットは戯けるように笑った。その隣で、オーレル・ヴェリタスが真顔で呟く。
「貴女はさほど昔から変わっていないように思うが」
「そうかい、さほどの成長はあったようで良かったよ」
確かに、マーガレットは元から小気味よい人格だったようだ。だからこそ、抵抗軍を組織して、その先頭に立ち続けているのだろう。
マーガレットは、壁際のデスクに置かれていたらしいカップを右手で引き寄せると、右手で水差しを掴み、ゆっくりとカップに注いだ。さっきからずっと、左手は動かしていない。
「ん? ああ、義手だよ。六年ほど前に、左半身をやられてね。内臓は庇ったけど、義手義足になってしまった」
アイビーの視線に気づいたマーガレットが、左手を掲げて革の手袋を外す。内側から、木製の義手を骨格にして筋のように蔓を絡ませた手が現れた。
「オーレルに作ってもらった、魔力が通る手足だから、戦闘では問題なく動けるけどね。日常動作はさすがに破壊力が強い」
そう言って拳を何度か握ってから肩を竦めると、アイビーにカップを差し出した。
「それで、アンタの名前は本当にアイビー・エインセルなのかい? 違うなら名乗ってみな?」
アイビーは、ほんの少しの躊躇いを吐き出すように息をついた。
「……シンシア・ヘイズです」
カップを受け取る。ふんわりとレモンバームが香る水の中には、ラズベリーが二粒浮かんでいた。
「シンシアか。いい名前じゃないか。月のネックレスまで着けて、気に入っていたんだろう?」
「……あ……」
マーガレットが、シンシアの胸元を見た。
「……エイデン先輩に、貰ったんです……」
シンシアは、月の女神を意味する名前だ。
妖精と共生する魔女は、神への信仰心はないけれど、それでも神という概念は持っている。
だから、あまりにも嬉しかったのだ。エイデンが、アイビーと偽るシンシアに、月のネックレスを選んでくれたことが。とても嬉しかったのに。
「……その不死鳥も彼から託されたのかい?」
「……はい」
まだ話の途中だ。泣いてはいけない。そう思った瞬間、ぼろぼろと涙が溢れた。
「そうかい。……ああ、無理に泣きやまなくていい。私は、泣くのは悪いことだとは思わないよ。泣くべきところで泣けないよりはずっといいに決まってる」
マーガレットの声が先程よりも優しくなる。シンシアは流れ落ちる涙を止めたくて、必死に目を擦った。それなのに、まるで考えることを諦めさせるように、目の奥からは悲しみを消費するようにとめどなく涙が湧き出してきてしまう。
「……アンタの母親の行動は把握していたんだが、アンタが何をさせられていたかまでは知らなかったんだ。……気づかなくて悪かったね」
「……いいえ」
子供扱いをされている。泣いたからだ。シンシアがアイビーになったのは、シンシアが決めたことなのに。だからシンシアが背負わなければならないことなのに。
「腹は減っているかい? 体調に問題はありそうかい?」
「……いいえ、っ」
シンシアは頭を振った。まだ知らなければならないことが、たくさんあるはずなのに。自分の身体のことなんて、どうでもいいのに。苦しかったのはエイデンなのに。気遣われるべきはエイデンなのに。
「少し触るよ」
マーガレットの手が、シンシアの額に触れた。硬く老成した、荒れて優しい手だった。それだけで、シンシアの人生の何倍も失いながら生き抜いた人だと、わかってしまった。
「……妖精の力が反発している気配はないね。だったら、これを飲んで、もう少し眠るといい。なにか、先に聞いておきたいことはあるかい?」
「…………いいえ。ありません。お気遣い、ありがとうございます」
シンシアは、震える声を落ち着けようとした。それだけで精いっぱいだった。
最初から、マーガレットにとってシンシアは成人にも満たない年頃の、正真正銘の子供でしかないのだ。そのことが悔しいはずなのに、じわりと安堵が混ざり込む。
『だって、シンシアはまだ子供だもの』
頭の中で、ニヴァリスが囁き始めた。気分が悪い。手にしている水を一口飲む。喉がからからに渇いていたことに気づいて、全部を飲み干した。それでもぐるぐると血が巡り始めた感覚は、頭の中に住むニヴァリスを追い払ってはくれなかった。
『できないよ。責任もないよ。だって仕方ないよね? 大人じゃないんだもの。子供には、地位も力もお金もないもの。逃げる場所も選べないもの』
うるさい。黙って。そう思うのに、頭の中でニヴァリスのせいにしていた感情が、じわじわとシンシアの思考になっていく。
マーガレットがシンシアの手からカップを抜いた。
「もうしばらく休みな。邪魔したね」と優しく言って立ち上がり、戸のほうに向かっていく。「この子を頼むよ」などと、エリオスに告げてから。
戸がぱたんと閉じられた。シンシアは室内を見回して、エリオスとシンシアだけになったことを確認した。
――どうして事が起きてからしか、守ってくれる人に出会えなかったのだろう。
シンシアは膝にかかる毛布を握りしめた。
――どうしてもっと早くに、誰かがエイデンを助けてくれなかったのだろう。
シンシアはずっと苦しかったのに。
『――ずっと助けて欲しかったのに!』
そんなことを言える相手はいないのに。だからエイデンが助けてくれたのに。自分が死んでまで。
「私が死んじゃだめっていうなら、誰か私を罰してよ……」
好きな人を犠牲にして何も感じずに生きていけるほど、シンシアは強くも弱くもないのに。
酷いことを酷いと、おかしいことをおかしいと思えるのに。言いたいのに。
「私を子供扱いするなら、暗殺なんて命じられたときに、助けてよ……」
先程のアッシュフォード先生の声が浮かぶ。――お前は使われただけだ。誰にも復讐しようとするな。
だったら弱い者は、使われて奪われて黙って耐えて諦めて犠牲になって――いつどうやって強くなるのだろう。
「どうしてエイデン先輩が、死ななきゃならなかったの……?」
わかっている。シンシアのせいだ。でも、それだけ、ならば。シンシアが他人に使われる哀れな魔女だと思っただけならば、順風満帆な名門魔術師の息子ならば、どうしていつも、エイデン・フラムスティードは、悲しそうに怒った瞳をしていたのだろう。
エリオスが、シンシアの膝の上に降りてくる。
「……どうしてエリオスは、エイデン先輩の側にいたの? どうして今も、私のところにいてくれるの?」
使役契約ならば、契約者が死ねばその命令は無効になるはずだ。
なのにどうして、彼は今もエイデンの願いを聞いているのだろう。
「……わからないよ……」
シンシアは、毛布を掴んでいた手を開いて、自分の頭に添えた。頭が痛い。体内の魔力が安定していないからだ。でも、きっと考えなければならない。
エイデンは、名門フラムスティード家の魔術師のはずだ。だから精霊術師たちは見せしめとしてエイデンの死を望んだ。少なくともシンシアには、そう説明されている。
でも、魔術師の派閥は――本当に、気づかなかったのだろうか? 権力を競り合う精霊術師の動向を、注視していなかったのだろうか。
それとも。
「……エリオス。私は、何に気づいていないの?」
不死鳥の金の瞳に問いかける。エリオスはシンシアから目を離さずに、ふわりと翼を広げた。
エリオスが、赤く輝きを放つ。シンシアの身体で炎の魔力が揺れて、雪の魔力に干渉する。ぐらぐらと均衡を崩したシンシアの頭の中で、ニヴァリスの声が鮮明になる。
『……頭を冷やして』
「……ニヴァリス……?」
シンシアはゆっくりと目を閉じた。ニヴァリスの――幼い頃のシンシアを模して生まれた人工妖精の姿が、脳裏に浮かぶ。
『気づきたくないかもしれないけれど……私はもう気づけるはずだよ。シンシア』
意識が再び解けていく。




