11-4
駅とは反対方向になる道は、街灯も人通りも少なくて、静かだった。建物も少なくなってきて、寒い風が吹いてくる。
「どこに行くんですか?」
「湖のほうに」エイデンはそう言って、アイビーを見て苦笑した。
「ごめん。ちょっと寒いよね? でも、あの街の明かりは、離れた場所から見ても綺麗だと思うんだ」
赤い瞳が、歩いてきたほうに戻される。アイビーはつられてそちらを見て、感嘆の息を吐いた。
「綺麗ですね!」
「うん。今まであの中にいたことが、不思議になるくらいに」
話すたびに、息が白く揺れる。街の横に広がる湖からも、ふわりと蒸気霧が揺らめいている。ふと白い粒が頬に触れて、溶け落ちた。雪だ。
「こんなに綺麗なのに、こっちには誰もいないんですね」
「あの木があるからね」
エイデンは、湖の中央にある島の、一際大きな木を示した。
「あのエウリュ樹の古木が、祓い風のときにかなりの音が鳴るんだ。だから縁起が悪いって言われていて、あまり街の人は寄り付かないみたい」
エウリュ樹は、年月が経つと、中が空洞になって隙間ができる。そこに風が吹くと、天然の楽器のように鳴るのだ。その音色は様々で、森の中の風が強くないアイビーの家の近くにあったエウリュ樹の古木は、いつも優しい音色を奏でていたけれど、祓い風に打ちつけられる湖畔であれば、ちょっと怖い音になるのかもしれない。
「何度か伐り倒そうとしたらしいけど、そのたびに問題が起きたらしいよ。この湖の妖精の仕業だとか、いろいろ言われているらしい」
そう言いながら、エイデンは湖に沿って歩き、どんどん街の明かりから離れていってしまう。アイビーはエイデンを見失わないように、こっそりと彼のコートの裾を摘んだ。エイデンがハッとしたように立ち止まり、アイビーに手を差し出す。
「……この土地は元々、湖と親和性の高い魔女たちが、長く住んでいたらしくて。魔女狩りのときも、湖の妖精たちは魔女の味方だったらしい」
控えめに、けれどしっかりと握られた手が、迷わずに前に進んでいく。
足元が、平らな石畳から冬の草原に変わる。いつの間にか街灯はすべて無くなって、手元の明かりはエイデンに渡したフロストライトのランタンだけになっていた。けれど月が丸く、星も多くて明るい空だった。さっきの初雪は、かなり遠くから飛んできたものだったのだろう。
「あの広場が綺麗に整備されたのも、魔女の家を全部焼き払ったからで……それでも、楽しそうな人たちを見れば、心から嫌うことはできなかったけれど……」
エイデンが困ったように微笑む。アイビーは何も言えないまま、街の明かりとエイデンの表情を見比べた。
アイビーにとって、魔女の故郷は森の中だ。でも、ほんの五十年前までは、魔女は街に住んでいたらしい。アイビーには、その光景を一切思い描けないのに。どうして魔術師であるエイデンが、そんなに寂しそうな表情をしているのだろう?
エイデンは、ゆっくりとした足取りで、湖から伸びていた、古い石橋に向かって近づいていく。
「……あの。もしかして、あの島を見たかったんですか?」
「うん。大丈夫。さっき、広場には見回り中のアッシュフォード先生がいたよ。だからきっと、そんなに離れていないこの場所で何かあれば、すぐに助けに来てくれるはずだ」
「アッシュフォード先生が……ですか」
アイビーは戸惑いながら、エイデンのあとに続いた。本来ならばエウリュ樹のある小島へと繋がっていたらしい石橋は、こちら側から三分の一程度の場所で壊されている。
エイデンが、石橋が途切れた付近まで近づいていく。アイビーは思わずエイデンの手を引いた。足を止めたエイデンは、アイビーを振り返ると、静かに囁いた。
「……《エリオス》。頼むよ」
なぜ今エリオスを呼ぶのだろう? アイビーは、こくんと息を飲んだ。エリオスが静かに現れて、エイデンの腕に留まる。金色の瞳が、アイビーを見つめた。
――ああ、そうか。アイビーは、人の気配がなくなるたびに目を背けていた可能性を、受け入れることにした。……エイデンは、アイビーが暗殺者だと、気づいていたのだ。
「アイビーに、お願いがあるんだ」
エイデンの鮮やかな瞳を見つめる。濃い赤はいつも通りに理性的なままで、それでも、悲しげな諦観に染まっていた。
アイビーは、頷いた。エイデンに何をされても、できる限り無抵抗でいようと決めた。
それくらいしか、エイデンをこれ以上悲しませずに終われる方法を思いつけない。
「これから先は、アイビーがエリオスと一緒にいてやってほしい。エリオスは不死鳥で、普通の妖精とは違って消滅せずに転生を繰り返して生き続けているから、こう見えてけっこう寂しがりなんだ」
「……え?」
アイビーは目を見開いた。アイビーは、今からエイデンに魔女として殺されるのではなかったのだろうか。それに。
「あの、エイデン先輩は?」
どうするんですか。どうなるつもりなんですか?
それを告げる前に、エイデンはそっとランタンを地面に置いて、握っていたアイビーの手を持ち上げた。
『――君が、生きて火を灯し続けるために。不死鳥の守護を譲る』
「――あ……、っ?」
エリオスが、エイデンの腕から離れて飛び上がる。そうしてエイデンとアイビーの頭上をぐるぐると回り、アイビーの頭上に美しい恩寵のような赤い光を降らせていく。
けれど。アイビーの中には、もうニヴァリスが存在している。アイビーと同化している雪の花の人工妖精は、アイビーの身体に契約よりも深く根付いている。
そんな身で、幾度となく転生を繰り返すことができるほど激しい不死鳥の妖精から、力を受け取ることなどできるはずもなかった。
「ごめん……本当に。君の中に雪の妖精がいるなら、苦しいと思うけど……すぐに済むはずだから。……できれば許してほしい。シルヴェスターに、経緯を書いた手紙は送ってあるから。彼なら、彼の祖父からでも君を助けてくれるはずだ」
心臓を押さえて蹲ったアイビーに、エイデンの酷く申し訳なさそうな声が届く。
「て……はなして、くださ……っ、いま……ふれて、いたら……っ!」
アイビーは必死にエイデンと握っていた手を離そうとした。過剰に与えられた二種類の相反属性がぐちゃぐちゃに反発して、アイビーの中で弾けようとしている。苦しい。痛い。
――でも、それよりも。
生物が体内に留めきれない魔力は、生物の体を破壊して外に出ようとする。けれど、他の生物と接触していれば、それを導線にして魔力の少ないほうへと流れ込む。流れ込んでしまう。それが、既にアイビーの体を突き破るための破壊魔法へと変換されたものであっても。エリオスを手放したばかりのエイデンであれば、ほとんど無抵抗に、きっと致命的な出力で。
「はなし、て……っ」
殺したくない。エイデンを殺すなんてできない。なのにアイビーの中で、雪の魔力が灼熱を叩きつけられて、水蒸気のように噴き上がる。目の奥がチカチカと明滅して、血肉を突き破ろうと逆巻いて――そのほとんどすべてが、手を握るエイデンに流れ込む感覚があった。それだけはしたくなかったのに。だからアイビーは自分が消えたかったのに。
ぐらぐらと滲む視界の先で、一瞬、エイデンの瞳と髪が赤く輝いた。しかし次の瞬間、苦しそうな表情を浮かべたエイデンの頬が、霜が降りるかのように凍てつき始める。
「……アイビー。これは、故意だから」
白い息を安堵のように吐いて、エイデンが呟く。眉を顰めたまま、弱々しく微笑みを浮かべる。
「……え……?」
「全部、こうなるって、全部わかっていて、やったこと、だから……君が背負うことなんて、エリオスと一緒に生きることだけだよ……」
静かに告げられた言葉に、茫然と言葉を返す。頭上では、エリオスが赤く美しい輝きを放ちながら、まるでエイデンとアイビーを湖から隔絶するかのように舞い続けている。
「……なんで……? どうして、こんなことを? わ、私が……っ」
「君の任務は……これで終わりだよ」
「えっ……?」
目を見開いたアイビーを、エイデンが静かに抱き締めた。殊更優しい声が、静かに囁く。
「君は、暗殺に、成功したと伝えればいい……でも、本当に……僕を殺したなんて、思わなくていいよ……」
「知って、いたんですか……?」
「薄々ね……ごめん、苦しませて……もっと、良い方法を思いつければ良かったんだけど……」
「そ、そんなの、どうでもいいです! なんで、こんなこと……嫌です!」
耳元から聞こえる呼吸がおかしい。エイデンの身体が酷く震えている。アイビーのせいだ。だってアイビーの雪魔法が、アイビーの中で暴発しかけた魔法を、勝手に引き取ったエイデンの身体を、どんどん急冷している。
「……死ぬのは、そんなに怖いことじゃなかったんだ……皆のところに逝くだけだから……やっと、楽になれるくらいで……」
「や、やだ、だめ……! いかないでください……皆って、誰ですか? どこにも、いかないでください……! 私を置いていかないでください……っ!」
温めないといけない。エイデンを死なせたくない。なのにアイビーの使える魔法では、エイデンを温められない。
エイデンがゆっくりとアイビーの身体を離した。ふらふらと立ち上がり、後退る。湖のほうへ。
「表向きは、事故に、見せたほうがいい……。ちゃんと、言うんだよ……アイビーは、僕の自死に、巻き込まれただけだって……僕が勝手に、冬の湖に、落ちたって……そのほうが、上手く、守られるはず、だから」
「いっ、嫌です、やだ、っ、エリオス、お願い、私の魔力、全部使って、エイデン先輩を助けて……!」
アイビーはふらつく身体でエイデンを止めようとしがみついた。エイデンが驚いたように目を見開いて、焦ったように座り込む。
「危ないよ……君まで、湖に落とすわけにはいかないから……離して、アイビー……大丈夫、だから……生きて」
「……っ……生きるのは、エイデン先輩のほうなんですっ……!」
なのになんでどんどんとエイデンの身体から熱が失われていくのだろう。アイビーは必死に身体の中の魔力をかき集めて、エイデンの生存を願った。けれど、暴発を引き起こされた身体は酷く消耗しているようで、魔女だというのにまじないのように微弱な再生魔法しか分け与えられない。
エイデンは、戸惑ったようにアイビーの髪を撫でた。
「……どうしよう……」
途方に暮れたような声だった。たぶん、我が儘なアイビーに目標を邪魔されて、困り果てている。
その呼吸音が、小さく弱く、緩慢になっていく。アイビーに触れていた手が、力無く落ちる。
「いや、エリオス、助けて、ニヴァリス、助けて、誰でもいいからっ、助けてください……っ」
アイビーは泣きながらエイデンの身体を支えようとした。手を握ってくれたときの安心する体温とはまったく別の、雪のような冷たさだった。胸にしがみついても鼓動がわからない。緩やかに閉じられていった瞼から、大好きな瞳が見えなくなる。
「……泣かせて……ごめん……」
アイビーの腕の中で、エイデンの身体から力が抜ける。頬を滑り落ちた涙が、小さな氷の粒に変わった。
ふいに上空を舞っていたエリオスが、高く美しい声を発した。それは歌声にも似た、悲鳴のような鳴き声だった。
いつの間にか周囲に吹き荒れていた雪風を叩きつけられたエウリュ樹の古木が、酷く悲しげな唸り声を轟かせる。
生きていると思い込むには冷たすぎる身体を抱え込みながら、アイビーは泣き叫ぶ声さえも失って、ぐったりと目を閉じた。
これが現実ならば、二度と、目覚めたくなどないと思った。




