10-3
お昼休みのちょうど中頃の時間、図書館までの道はがらんとしていた。それをいいことに、廊下をこっそりと小走りして、図書館の前の曲がり角で前髪を整える。
「エイデン先輩! こんにちは!」
「こんにちは」
入り口の前に立っていたエイデンは、アイビーを見つけてくれると、軽く手を振ってくれた。
「急に呼び出してごめん。それと、さっきの通話は……」
「コンラッドが頭を抱えてたので、忘れておきませんか?」
「そうする」
エイデンはほんのりとまだ気恥ずかしそうに頷いた。それから「場所を変えてもいい?」と尋ねてくる。
「はい」と応じると、彼は近くの階段を下りていき、外に出た。
途端に暖かく降り注ぐ陽光と、心地良い冷たさの風が、冬の初めらしくアイビーたちを包む。
けれどエイデンは、くしゅん、っと肩を震わせた。
「大丈夫ですか?」
「うん……最近少し課題がややこしくて寝不足だったから、免疫機能が下がってるのかも。今日は早めに寝るよ。まさか風邪をひくわけにはいかないからね」
アイビーが頷いた。最後のデートが無くなるのは、さすがにつらすぎる。
エイデンは軽く周囲を見回して、植物園のほうに近づいていった。周囲には、誰もいないようだった。
「寒いのは、あんまり得意じゃないんだ。昔住んでいたところは、けっこう雪が降る場所だったんだけど……」
「そうだったんですね」
ついて歩きながら、アイビーは内心首を傾げた。エイデンは、コンラッドと幼馴染で、コンラッドは中央行政都市に住んでいたはずだ。雪に悩む場所とは思えない。学校や祖母の家が寒い地域だったとかだろうか。
「それで、これなんだけど」
うつむきがちに咲くヘレボルスの花の前で立ち止まったエイデンが、ローブの内ポケットから、何かを取り出す。
「君に貰ってほしいんだ」
「……私に?」
アイビーは困惑しながらエイデンの手のひらの上を見つめた。
それは、赤地に白刺繍が施された、綺麗な布の栞だった。中央には炎か太陽のような美しい紋様が縫い取られて、上には金糸が交じった深紅の組紐がつけられている。その先端には、小さなタッセルと銀ボタン風のミニビーズまで取り付けられていた。
「良いんですか? かなり良い物に見えますけれど……」
少なくとも栞としては特製品だろう。誰かの丁寧な手仕事にしか見えないそれを、なぜエイデンはくれようとしているのだろう?
「これ、魔女の意匠が入っているんだ。だから、僕は使えなくて」
「え? あ……」
栞を見直すと、確かに刺繍の線は有機的な曲線が多かった。その奥には薄く金糸で魔女の守りの意匠が縫い取られている。白刺繍の奥に全く別の色刺繍を仕込むのも、魔女がよくやる手法だった。そして、銀のボタンのようなビーズは――。
「悪くない物のはずだから、君が持っていてくれると助かるけど駄目かな? 別に大切にしなくても、いらない本の間にでも挟んでおいてくれたら、それでいいんだけど」
エイデンは、大したものではないようにそう言った。けれどアイビーは首を横に振って、エイデンの手のひらから栞を掬い上げた。
「……それは、駄目です。魔女は、生まれてきた子供に合わせて、親が銀のボタンのブレスレットを編む風習があるんです。大人のサイズで作って、それが似合う姿に成長できるように願って保管しておいて、十一歳の古い成人の日に渡すんです。でも、一部の家系の魔女の一族は、その仕事に合わせた物にボタンを付けることもあるんです」
まだ綺麗な栞だった。この持ち主は、この栞をあまり使うことができなかったとわかる。
「だからこれ、きっと魔女のボタンだと思います。誰かの大切だった物です。だから、大切にします」
タッセルの上に取り付けられた、銀のボタンに触れる。それはいつか誰かが生を望まれた証しだった。持ち主がもういないのであれば、アイビーが預かって――死ぬ前に、丁重に森のエウリュ樹の老木に、括り付けて還すべきだろう。
「ありがとう。そうしてくれると、やっぱり嬉しい」
エイデンが、パチパチと瞬きをしながら笑った。それから、軽く首を傾げる。
「じゃあ……聞いてもいいかな? 君のブレスレットはどんな物なの?」
アイビーは少し躊躇ってから、正直に答えた。
「……盗られちゃいました。魔女狩りに遭ったときに。お父さんの引き出しに保管してもらっていたから……たぶん、お父さんの研究資料の一部だと思われて」
「そっか。ごめん」
エイデンが申し訳なさそうな顔をする。
「いいえ、すみません。私が聞いてほしかったんです」
アイビーは苦笑した。魔女の自分は酷い目にあったのだと、悲しい目にあったのだと、可哀想だと――そう思われたかっただけだ。
「でも、デザインは覚えています。父の机の鍵付きの引き出しにしまってもらっていて、なのにそれを貰う日が楽しみで、何度も開けて見せてもらっていましたから」
「うん」と、エイデンが柔らかく頷く。
「私のは、銀の台座に薄いアメジストを貼って、その上に重ねたムーンストーンの白いスノードロップの花が咲くデザインでした」
「素敵なデザインだね」
「はい。お父さんが器用で……あ、弟のは、ラピスラズリの土台に、金と小さなシトリンの星座のデザインでした。お父さんが天体観測士だったので。私と妹のは、お母さんが植物学者なので、花のモチーフだったんです。妹のは、オパールの土台にローズクォーツの桃色のコスモスの花のデザインで、すごく可愛かったんですよ。三人とも、ボタンの両側は両親の属性の緑と青の色石で……」
そう言いかけて、アイビーはふと思い出した。
父に開けてもらった箱の中に、とても大切に納められていた、自分の白い革紐のブレスレット。その隣に同じく大切に納められていた妹のブレスレットの紐は桃色で。
「あ……?」
以前ネリリンが付けていた、妙に気になったブレスレット。あれは、もしかして――リリアの物ではなかっただろうか?
まさか、そんなはずはないと思う。だって魔女の装飾品だ。魔女を馬鹿にしていた魔術師が、知らずに身に着けていたなんてそんなはずは。
ひゅっと息を飲む。冷たい風が一瞬だけ強く吹いて、アイビーを責めた。
「……大丈夫?」
エイデンが気遣うように聞いてくれる。アイビーは数秒だけ目を閉じた。
「……すみません。少しだけ、悲しいことを思い出して」
のうのうと嘘をつく。まさか敵の手に渡った妹の物を見逃していたかもしれないなんて、言えなかった。
『……ネリリンが持っていたわけないでしょ? 桃色の革紐のアクセサリーなんて、魔術師の街にはたくさんあるんじゃない?』
ニヴァリスが言い訳のように囁く。けれどアイビーは脳裏に蘇るネリリンが付けていたブレスレットの煌めきを反芻しようとした。あれがオパールの遊色ではなかったと、確信が持てない。
泣きそうになったアイビーの手元で、ふいに栞がふわりと温かくなった。
「あ……この魔女の加護……」
思わず受け取ったばかりの栞を見る。不安を癒やす魔法だ。これを縫った人は、いったいどんな人だったのだろう。
顔を上げて、エイデンを見る。
「……これ、本当に私が預かってもいいんでしょうか?」
いつの間にか現れていたエリオスが、エイデンの肩からアイビーを見つめていた。
「もしかして、君にとって有用そうだった? それなら是非」
エイデンは微笑んでいた。アイビーはそっと栞を胸元に寄せた。やっぱりこれは、母がアイビーやリリアやルカのために込めてくれた想いと、同質のもののような気がした。
「……あ、時間を取らせてごめん。そろそろ午後の授業の時間だね」
エイデンがそう言って時計を見る。「戻ろうか」
アイビーは頷いて、栞を自分のローブの内ポケットに入れた。
『ネリリンは死んだそうだから、もうあれがリリアのだったかなんて、確かめることはできないよ。アイビーのも無くなったんだよ。だから、リリアのもルカとアイビーのと一緒に無くなったと思おう?』
ニヴァリスが、ひっそりと囁いた。




