9-3
放課後より少し前の時間に、アッシュフォード先生がいかにも担任らしい顔で来た。魔女として半分身を隠している状態の母には、まだアイビーが負傷したという連絡はしていないとのことだった。
連絡を入れるかと問われ、アイビーは首を横に振った。アンヴィル先生の腕が良かったのか、それともエイデンの応急処置とエリオスの初期治療の成果がよほどすごかったのか——たぶん全部なのだろう。診察の結果、既にアイビーの傷はほとんど塞がって、毒は抜けているようだった。
既にアンヴィル先生からは、後遺症は残らないはず、でも傷口が綺麗に塞がるように明後日までは入院、と言われている。
だから、母に余計な心配をかけようとは思わなかった。
代わりに一つだけ、アイビーは以前から気になっていたことを聞いた。
「あの……パターソン先輩は、まだ謹慎中なんですか?」
ロマンス・パターソンは、ケラウノスを取り上げられたあと、魔術師男子寮ではなく教師寮の棟にある個室で謹慎中だとは聞いていた。だが、期間は知らなかった。もしももう期間が終わっていたならば、パーティーの夜のファルメール派の残党と接触したのではないかと心配になったのだ。
ベッド脇の椅子に座ったアッシュフォード先生は、微妙に眉を顰めたが、アイビーがそれなりに関係者だと思い直したのか、軽い溜め息とともにこう言った。
「まだ謹慎中だ。……捕らえた残党を尋問するとき、参考人として協力的なら、そのうち謹慎は解けるだろう」
「そうなんですね」
「お前たちが被害届を出さなかった以上、先に妖精を使ってパターソンに攻撃をしていた側よりも重い処分にするわけにもいかないからな」
「ああ……そうですね」
アイビーは目を伏せた。虐めていた側の彼らが転学になったことは、うっすらと噂で聞いていた。
森の魔女たちは殺されても加害者が失脚するまで何年もかかっていたのに、この小さな学園都市社会では、当たり前のように加害者を取り除いていく。
そもそも、この国の高等学校が、あえて学園都市に生徒を集めているのは、選別のためである。
一方的に術や妖精を使って、簡単に人を攻撃できてしまう者は——『そのまま大人になってしまうと社会が困る』のだ。
だから、矯正できる者はカウンセリングなどの手段を尽くして、それではどうにもならない者は、相応の施設に転学させる。
その転学先を、アイビーは知らないけれど。でも、漏れ聞こえてくる噂話から、多少は察することができてしまった。
もちろん、入ったはいいが校風が合わなかった子や、親に勧められて仕方なく入ったが他校に行きたかった子らが、前向きに希望の転学先へ移動することもそれなりにあるらしいのだが——結果として、入学からほぼ二ヶ月後になって、ようやく新入生歓迎パーティーが行われるようになっている。
「何が気にかかっている?」
アイビーがもやもやとした気分で俯いていると、席を立とうとしたアッシュフォード先生は、仕方なさそうに聞いてきた。
「……ファルメールさんは、どうなったのかと」
ちょうど良い機会だから聞いておこうと、思いついたものを口にする。
「学校側としては、ネリリン・ファルメールが決闘後の加害行為とその謹慎中の脱走を行い、事態を重く見て退学処分とした」
アッシュフォード先生が椅子に座り直す。
「その後、北方総督として長年不正行為を積み重ねていた父親のデリックが捕まったあと、娘の入試のために、担当者を脅して事前に入試問題を入手していたという余罪の証拠を多少提出しただけだ。それ以上は俺も知らん」
「ふ、不正入学だったんですか……?」
「受験当日の不正行為はかなり防げているがな。何においても、完璧なシステムを組むのは不可能だ」
疲れた大人の顔をしたアッシュフォード先生は、そのままアイビーに水を向けた。
「……ところで、本当にやる気はあるのか?」
「……ネブラさんがいるんですが」
アイビーは、アッシュフォード先生の背後にいる妖精ネブラを見た。ケラケラ笑いながら親しげに手を振られた。どうしよう。
アッシュフォード先生は、露骨に溜め息を吐いて席を立った。
「覚悟は決めておけよ。あと一ヶ月しかないからな」
「ネブラ、勝手なことを言うな」
「代弁してあげたんだよ」
「似ていなかったから黙れ」
「似ていたら話していいんだ?」
「そんなことは言っていない……」
何か始まったので、アイビーはベッドに寝直すことにした。アッシュフォード先生は、こちらを一瞥してから部屋を出ていった。
「やる気ってなんですの?」
隠れていたヴェルディアナが出てきて、アイビーの枕元に来た。
「アイビーは、ずっと頑張ってるじゃありませんの」
「……ありがとう、ヴェナちゃん」
何もかもから逃げたくなって、目を閉じてみたけれど、もう眠れなかった。
そして放課後。
「すまなかった。俺の判断ミスだ」
「えっと……」
アイビーは、困惑しながら生徒会長シルヴェスターを眺めた。シルヴェスターはいつもの威厳を保ったまま、堂々と後悔の色を隠さずに、魔女に向かって謝罪してきている。
その後ろには、エイデンとコンラッド。だけでなく、コンラッドに誘われてきたのであろう居心地悪そうなジュリアン・ウェストフォールまで控えていた。
「危うく、後輩をどちらか失うところだった。本当にすまなかった」
「その……被害は、それでも一番少なかったのでは? だったら、判断ミスではないと思います」
そう言ってみると、シルヴェスターは苦い顔で頷いた。
「……最善の対応だったとは思っている。だが、せめてもう少し早くそちらに援護を向かわせられていれば……」
「ですから、それは僕の実力の問題です」
後ろからエイデンが口を挟む。しかしシルヴェスターは即座に首を横に振った。
「いや、俺だ。責任は俺が取ると言ったんだ。それなのに……すまなかった、アイビー・エインセル。エイデンを助けてくれてありがとう。本当に感謝している。君からすれば、俺に感謝されても困るのかもしれないが……。それでも恩に着る」
かなり気に病んでいたらしい。責任を感じる相手に自分が含まれていることも、感謝されても困るという心情を理解されていることも居心地が悪くて、アイビーは曖昧に頷いた。
そうして、まだ事後処理で忙しいらしい彼らが去っていくと、アイビーは生徒会からの見舞いのお菓子を開封しようとした。
けれど、なぜかまだ、妖精の気配だけが空中に漂っていた。魔女以外にはまだまだ警戒しているヴェルディアナがサイドテーブルの裏に隠れている気配とは、別の妖精だった。
「あのねー、アイビーちゃんだよねー?」
顔を上げると、ふわふわと透けるシャボン玉のような、水色の少女の姿をした妖精が、目の前に浮かんでいた。
「え? えっと」
「スーはねー、スーだよー? 知らなーいー?」
あまりにも緩い自己紹介である。けれど、見覚えはあった。
「……ウェストフォールさんの、妖精さんですよね?」
先ほどいたジュリアン・ウェストフォールの契約妖精だ。たぶん、海生まれの水泡の妖精なのだろう。なにせクラゲのようなドレスを足なのか尾びれなのかもわからないまま薄く消える下肢に纏い、波打つ水色の長い髪には貝殻や真珠らしき髪飾りをぽこぽこと付けている。
「そうー! 二人で話すのは初めてだねー」
スー、と名乗る妖精は、嬉しそうに両手をパチンと合わせた。その衝撃で、スーの半透明の体からふわふわと泡が生まれて消える。けれど、二人でも話すなにも、話すこと自体が初めてだ。
いや、実技授業でジュリアンと当たったときに「よろしくお願いします」「ありがとうございました」くらいは言ったかもしれないが。
「何の御用ですか?」
「あのね、アイビーちゃんの髪、スーが綺麗にしてあげるー」
「……えっ」
予想外の答えに動揺しているうちに、スーはふよんふよんと近づいてきて、アイビーの髪に触れた。清涼感のある手が、アイビーの髪を纏めていたリボンを勝手に解く。代わりに、どこからともなく取り出された櫛が、そっと髪に通された。悪意や害意は感じない。けれど、何がどうなってこうなっているのだろうか。
なんだか手慣れたように櫛をすっと通されていく度に、さりげなく魔法で髪と頭を洗われているようだった。人間よりも少し温度の低い手が、せっせと優しく髪を撫でてくれるような感触は、ちょっと、いや、かなり気持ちよくて、アイビーは躊躇いつつも、妖精のしたいように身を任せることにした。でも強いて言えば、今から綺麗にしてもらっても、もう面会は終わった後である。
「ジュリアンもねー、みんなと一緒にアイビーちゃんのこと心配してたのー。でもね、ジュリアンはねー、女の子との話し方がね、まだわかんないんだよー。ごめんねー?」
スーはアイビーの髪を丁寧に清めながら、ふんわりと契約者の情報を暴露していく。もしかすると、それが言いたくてここに来たのかもしれない。
「……それは、私が魔女だからじゃないかな」
「んー? ジュリアンは、だいたいいつもあんな感じだよー。ジュリアンのお家はねー、ジュリアンよりずっと大きなお兄ちゃんが、三人もいるんだもんー」
別に必要はないがなんとなく納得する情報を渡されて、アイビーは苦笑した。なるほど、ジュリアンが武勇に秀でた家柄にしてはかなり控えめな様子で、周囲の先輩たちを見て動いている理由がわかった気がする。
「よーし、綺麗になーったー! 見てみてー、どおどーおー? かーわいいー!」
やっぱりどこからともなく出てきた大きめの手鏡を向けられる。いつの間にか、すっきりするだけで良かったはずの髪は、細やかに編み込まれたり巻きつけられたりして、とても華やかな髪型になっていた。自分の髪で花を作ってもらったのは初めてだ。
「……あ、ありがとう」
手際が良すぎる。泡の妖精ではなく、髪の妖精だったのかもしれない。さすがに感動して鏡を傾けていると、もう何度か聞いた病室に向かって走る音が聞こえて、ジュリアンが姿を現す。
「スー? まさか、まだそこに……あっ」
ジュリアンがハッとしたようにこちらを見る。水色のさらさらした髪が、毎日かなり複雑に編まれていて、バリエーションも豊富な理由がよくわかった。彼自身の趣味というよりも、毎日マイペースに世話をしてくる妖精に振り回されていたらしい。
「ごめん、エインセルさん。スーが……じゃない、スプーマ……えっと俺の妖精が邪魔して! なあ、何してんだよ、スー。病人の邪魔すんなって!」
「えー? でもアイビーちゃん、すごく可愛くなったでしょー?」
「そりゃ、なってるけど! でも、ただでさえ大人数で押しかけたあとなんだぞ……あっ、その、お大事に! ……ほら行くぞ、スー!」
口早にそう告げて踵を返すジュリアンを見て、スーはくすくすと肩を震わせた。小さな泡が立ち上る。
「んーふふー、じゃーねーアイビーちゃんー」
ぷわぷわと空中を舞うようにして、スーは両手を振って去っていった。
「……なんなんですの、さっきの妖精は。いきなりアイビーの髪に触るなんて、随分と馴れ馴れしくありませんの?」
サイドテーブルの裏から随分とご立腹なヴェルディアナが出てきたので、アイビーはとりあえず人見知りな可愛い妖精の頭を撫でることにした。




