9-2
「あ……あの。せっかく貸してくださったローブも、駄目にしてしまって、すみません」
「気にしないで。君が気に病むことなんて、何もないから」
返答に困って、開けた口が無意味に震える。そんなことはない。気にしなければならないことばかりだ。本当に、どうしてまだ後ろめたさで心臓を止めていないのだろう。
「ありがとう。死なないでくれて……」
「……はい」
アイビーは小さな声を出した。頷いた自分が、恥ずかしくて情けなくて、どうしようもない人間なのだとよくわかってしまった。
「もう、あんなことは、させないようにするから。……だから、死なないで」
酷く切なげに、願うような声だった。アイビーはゆっくりと頷くように目を伏せて、俯いた。
「……すみません」
肯定と受け取ったのか、エイデンが息を吐くように笑った。立ち上がって腕を構え、そこに留まったエリオスに視線を向ける。
「エリオス。まだしばらくの間、アイビーのそばにいてくれる?」
エリオスは、じっとエイデンを見つめている。
「あっ、あの、私はもう大丈夫ですよ。エリオスさんも、エイデン先輩の傍にいたいと思いますし……!」
エイデンの意向で、エリオスがわざわざ先程までアイビーが目覚めるまで側についており、目覚めたら連絡するように頼まれていたことは明白だった。
けれどエリオスが契約して信用しているのはエイデンだ。アイビーにばかり付けていては、エリオスに失礼だ。
「私もいますのよ?」
いい加減に隠れていることにも飽きたのか、横からヴェルディアナが出てくる。
「ああ、そっか……」
エイデンはヴェルディアナを見て、眉を下げた。それから気を取り直したように微笑む。
「じゃあ、ヴェルディアナ。もしもアイビーに何かあったら、すぐに僕を呼んでくれる? エリオスの居場所は辿れるよね?」
「ええ、今なら新校舎内でも辿れそうですわ。それでアイビーを助けられるなら、構いませんわよ?」
「あ、あのね、ヴェナちゃん、その、私……」
そんなふうに入れ込んでもらえるほど良い魔女ではない。だからそこまでしなくていい。そう伝えるわけにはいかなくて、アイビーは言葉を喉の奥で詰まらせた。
「――あら?」と、開けっ放しになっていたカーテンの向こうから、戻ってきたアンヴィル先生の不思議そうな声がした。
「誰か来ているの? ……まだ授業中よね? エイデン・フラムスティードさん」
「え?」
アイビーは思わずエイデンの横顔をまじまじと見た。彼が授業をサボる人だなんて、考えたこともなかった。
「すみません」とエイデンが気恥ずかしそうに呟く。
「まあ……いいわ。今回は見逃します」アンヴィル先生はそう言って微笑むと、補充された吸い飲みと白い磁器のスープ皿の載ったトレイをベッドサイドテーブルに置いた。
「エインセルさんの食事はここに置いておくからね。私は一階にいるから、食べ終わったらそこのベルで呼んでね」
「はい。ありがとうございます」
アイビーは、ベッドの上に吊られていた呼び出しベルを確認しつつ頷いた。そうしてアンヴィル先生の姿が見えなくなってから、じわじわと落ち着かない心地になって上掛け布の縁を握った。
エイデンは、アイビーが目覚めたと知ってすぐに、授業を抜け出してここに来てくれたのだ。
「それ、アイビーのですわよ?」
「うん、わかっているよ。でも熱そうだし、まだ手の動きが鈍いみたいだから」
隣からそんな会話が聞こえて、不思議に思って顔を向けると、なぜかエイデンがトレイからスープ皿を取り上げて、木製の匙を入れていた。
「えっと……?」
「そういえば、ヴェルディアナって息は吹けるの?」
「吹けますわよ! 蒲公英の綿毛が揺れるくらい!」
「……すごいね。来年は飛ばせるのかも」
なにやらほっこりする会話をしているが、ヴェルディアナが蒲公英の綿毛で遊んだことと、風を操る力は無いことしかわからない。
困惑していると、エイデンはスープ皿の底を何度か確かめるように触れてから、匙を持ち上げて、アイビーに向けた。
「たぶんアンヴィル先生が調整してくださっていると思うけれど、まだ熱いかもしれないから、気を付けて食べて」
アイビーは、ひとまず匙とスープを観察した。ほのかな湯気から生姜の香りが漂う金色の澄んだスープには、小さく刻まれた人参とセロリと玉ねぎ、それと鶏ひき肉、あとはフェンネルやパセリなどが浮かんでいる。美味しそうだと思う。
けれど、それをなぜエイデンが持っているのだろう。
「……あの」
「まだお腹が空いてない? でも、少しは食べたほうがいいと思う。回復魔法や魔術では、栄養素を吸収するという体本来の働きまでは代替できていないから」
そうじゃない。アイビーは逃げ道を探して周囲を見回した。
エリオスは、何でもないことのようにアイビーを見つめて、首を傾げた。
ヴェルディアナは……目をキラキラさせていた。駄目だ、大元の大樹の妖精ヴェルディアナは、長年好き好んで思春期の学校の生徒たちを見守ってきていた、人間の営みを応援する妖精だ。
「口を開けて」
「……はい」
アイビーは、すべてを諦めて小さく口を開けた。
唇に匙が添えられる。ゆっくりと傾けられて、温かな液体が流れ込んでくる。……美味しい。まず最初にそう思った。口の中に、優しい自然の味わいが染み入って、全身が今欲していたものだと主張してくる。けれど、こんな歳になって誰かに食べさせてもらうなんて、おかしい。
アイビーにスープを飲ませた匙が離れて、またスープを満たして戻ってくる。
無理だ。恥ずかしい。なのに、どうして安心しているのだろう。
先ほどよりも僅かに大きく口を開けて、スープを飲んだ。食べるたびに、じんわりとした温かさが、自分を死から遠ざけてしまうようだった。
お腹の底が、ぽかぽかと温かくなる。けれど、それ以上に目の奥が熱くなって、頬の熱さにくらくらして、自分がどうしたらいいのかすらわからなくなる。
「あっ……あのっ、やっぱり、自分で食べられますから……!」
どう考えてもこのままでは体内の異常発熱が深刻な症状を引き起こす気がして、七口目を差し向けられたあたりで、アイビーはとうとう叫んだ。
「……そっか。器の温度も落ち着いてきたから、大丈夫かな? でも気をつけてね」
そう言って、エイデンは匙をスープに戻して、ベッド横から簡易テーブルを引き出すと、その上にトレイを置いた。
「ありがとうございます」
隣から「良かったんですの、アイビー? 人間は、良い人に食べさせてもらうと一際美味しく感じる不思議な機能があるんじゃありませんの?」などとヴェルディアナが言ってきたが、今回だけは聞こえなかったことにした。
だってそれを通り越すとまったく味がわからなくなるなんて、今はまだ説明できそうにない。
スープの隣に添えられていた白いパンを手に取り、小さめにちぎる。……柔らかいはずのパンが、上手くちぎれない。解毒できていても、まだ指先の動きが鈍いようだ。エイデンが、心配そうに自分の手元を見つめているのがわかる。これに気づいていたから、食べさせてきたらしい。
それでも、死なないために栄養を摂るという行為を体が思い出してしまっては、もう不格好でも食べる手を止められなかった。
パンをスープに浸して、口に含む。じわりと広がったスープの旨みに混じって、パンの甘味がほぐれていく。食べ続けて、小鉢に添えられていた蜂蜜と林檎のコンポートも食べて、それも美味しかった。
デザートに移行したのを見計らって、エイデンが小さなポットで用意されていたハーブティーを注いでくれた。
「ありがとうございます」
「うん。こっちはまだかなり温かいよ。カモミールとリンデンだったかな。蜂蜜と林檎にもよく合うね」
「はい。……昔、風邪を引いたときに、よく飲みました。林檎は、こんなに立派で甘い物ではなかったんですけど、それでも美味しくて」
「うん。……美味しいよね。酸味があって固くて、煮るとちょうど良いやつ」
「あっ、エイデン先輩も、食べたことあるんですね。意外です」
「そうかな。偶にね。僕は、もしかしたらそっちのほうが好きかも」
そんな会話をしながら、林檎のコンポートを食べ終えて、お茶を飲み干した。
そこでチャイムが響く。
「……あ、今からがお昼ご飯の時間でしたね。すみません、付き合わせてしまって」
「ううん。……でも、もう少し、このまま――うわっ? なんだよ、エリオス?」
不意に、ベッドの端に留まっていたエリオスがふわりと飛んで、エイデンの頭の上に乗り直した。
「……あ。もしかしてエリオスさんは、エイデン先輩にご飯を食べてほしいのでは?」
「……そうなのか?」
エイデンが、困惑したようにエリオスを見上げる。エリオスは、とんとんとエイデンの頭の上で足を踏み替えてから、アイビーの個室の入り口のほうに飛んでいった。
「なんか、最近エリオスからの扱いが雑になってる気がするんだよな……」
エイデンが困ったような顔になる。その横からヴェルディアナが訳知り顔で言った。
「反抗期なんじゃないですの?」
「え? エリオスの? ……あ、僕の?」
「そこまでは知らないですわ!」
アイビーは、思わず微笑んだ。ヴェルディアナがエイデンにも懐いているのなら、アイビーが学校からいなくなったあとも、小さな大樹の妖精はきっと消滅なんてしないだろう。
「あれ、エイデンがいる? なんで? チャイム鳴ったばかりなのに」
入り口の方から聞き慣れた声が聞こえて、アイビーはつい叫んだ。
「コンラッド!」
エイデンの横から、金髪の少年の顔が覗いた。どうやら演習場での実技の帰りらしく、運動着を着ている。
「起きてたのか、アイビー! おはよう! ああ、だからエイデンがここに……まさか授業抜けてきたんか?」
コンラッドはアイビーに手を振ってから、エイデンを見て不思議そうな顔をした。
「あれ? どうした?」
エイデンは、コンラッドから目を逸らすように後ろを向き、アイビーの顔を見て、気まずそうに目を伏せた。
「いや……アイビー、僕が来たときと、反応が……」
「……あ、それはその、コンラッドには、実技授業中に、汗かいたところとか、何回も見せているので……」
例えるなら、暖かい太陽の光を感じたときと、面白い形のキャンディを見つけたときの違いなのだ、これは。
「あら、まだいたのね? むしろ増えてるわね」
どう言い訳すればエイデンに意識しすぎだと思われないか悩んでいると、アンヴィル先生がやってきて、首を傾げる。
「悪いけれど、一度アイビーさんの体調を診察したいから、また放課後にしてくれる?」
「はい。じゃあ後でな、アイビー。目が覚めてて本当に安心したよ。エイデンも、もう安心して食事できるだろ? ちゃんと食おうぜ!」
コンラッドがそう言って、エイデンを連れて去っていく。
アイビーは手を振って二人を見送った。
それからアンヴィル先生に簡単な診察を受けて、その後はまたしばらく睡魔に身を委ねることにした。




