9-1
「春告げ鳥が眠っている
暖かな木漏れ日も今は休んでいる
おやすみなさい
新しい朝を迎えるために
眠る森には 麗らかな川の音が流れる
おやすみなさい
明日のあなたが どうか健やかでありますように」
誰かの歌声が聞こえる。たぶん男の人の声だ。父だろうか。……違う。父は天体観測士だったし、そういうことは恥ずかしがる性格だったから、ベッドに入るアイビーに子守唄は歌ってくれなかった。
それなら誰だろう。これは魔女の森で歌われた、春の夜の歌なのに。昔はお母さんがよく歌ってくれて……でも、三ヶ月しか生きられなかった弟のために歌われることもなかったまま、もう二度と聞くことはないと思っていた歌なのに。
いったい誰が、今さらアイビーにこんな歌を歌うというのだろう。
都合の良い幻聴だろうか。いったいどんな魔女が、魔女の名で暗殺者になるアイビーに、明日を健やかに生きることなんて願うのだろう。
……瞼が開かない。身体が動かない。けれど、毒はたぶんほとんど解毒されたらしかった。体力が回復したせいで、ニヴァリスが活躍してしまったのだろう。
誰かが、枕の傍らに手を置いた気がした。けれどたぶんアイビーに触れることはないまま、気配は離れていった。
ようやく目が開いた。程良い明るさの天井を見つめて、しばらくぼんやりしてから、ここが以前も来たことのある医務室だと思い出した。
「……ようやく起きたのですわね!」
突然、ヴェルディアナの顔が視界いっぱいに広がった。
「なかなか目を覚まさないから、心配したんですのよ!」
いつもよりも、かなり小声で叫んでくれている。可愛い。
「…………――」
応えようとしたけれど、声がまったく出なかった。
「……アイビー? ……あ、きっとお水を飲んだほうがいいですわね! 人間も植物と同じ生物ですもの!」
ヴェルディアナは一瞬不安そうな顔をして、それからハッとしたように叫んだ。驚かせてしまったらしい。
ベッドの横に飛んで行ったヴェルディアナを目で追おうとすると、頭上から何かふかふかしたものが乗ってきた。
「……?」
エリオスだった。まるで撫でるようにアイビーの頭に首を寄せてくれている。でも、なぜここに。
そう考えてから、アイビーは気づいた。もしかしなくてもエイデンが近くにいるのでは。
しばらく寝ていたのなら、今の自分はエイデンに見せられない薄汚れぶりなのでは。
そもそも矢を抜かれたときが一番酷かっただろうけど――あのときは痛すぎてほとんど記憶が無いから、羞恥心はもう無効にして欲しい。
思い出すと、矢を受けた場所がズキンと痛んだ。ゆっくりと左手を動かして、胸の上に置く。触れた痛みはなかった。それでも内部まで完全に治ったわけではないのか、傷口は大判のガーゼで保護されていた。そんなことを認識しながら、目を動かしてエイデンを探した。……いない気がする。
安心しながら、エリオスにお礼を示そうと、左手を上に伸ばす。温かい身体を撫でた。……ふわふわで落ち着く。ただの役得だったかもしれない。
そのままヴェルディアナに視線を戻すと、小さな妖精は、サイドテーブルに置かれた人間用の吸い飲みを頑張って持ち上げようとしていた。嬉しいけれど、ガラス製だ、危ない。慌てて右手を伸ばして、吸い飲みを掴む。
「……ぁり、と……」
ありがとう、と言うつもりで謎の掠れ声を発して、吸い飲みを持ち上げた。ヴェルディアナはまだ心配そうな顔をしていたから、ぎこちなく表情を動かして微笑んでおく。腕は少し重いけれど、すぐに元通りになるはずだ。
強張った手を無理矢理動かして、吸い飲みに口を付ける。傾けると、程良い冷たさの水が唇と口内を潤した。
「……美味しい……」途中で一度ほうっと息をついて、すぐに全部を飲み干す。
「良かった。ちゃんと喋れますのね」
ヴェルディアナが安心したように微笑んで、小さな手でアイビーの頭を撫でてくれた。なんだか気恥ずかしくなって、アイビーは首を竦めた。
「うん……ありがとう、ヴェナちゃん……エリオスさんも、ありがとうございます……」
エリオスは、頷くように首を動かして、アイビーの左胸に近づいた。そして、強く温かな輝きを放つ。――癒やしの魔法だ。と頭で理解すると同時に、身体の気怠さがふわりと楽になった。
「……えっ、すごい……ありがとうございます」
輝きが収まると、また頷いたエリオスは、軽やかに飛び上がって窓辺から外に飛んでいった。
「あ……エイデン先輩のところに戻ったのかな?」
「そうみたいですわね。不死鳥は、転生の代償に喋れないみたいですから、はっきりとはわかりませんけれど」
「代償……?」
上体を起こしながら問うと、ヴェルディアナは真面目な顔で頷いた。
「そうですわ。永遠に世界を観測し続ける身で、世界に干渉までするのは、妖精の理を超えますのよ」
「……そうなんだ。……元々話せなかったんだ」
アイビーは目を伏せた。薄々疑っていたが、エリオスはやはり不死鳥だったらしい。不死鳥のことは、よく知らない。昔読んだ本の中では、かつてこの国を支配していた王族を象徴する聖鳥とされていた。そして当時歴史の編纂係を担っていた魔女の一族と共に生きていたという記録が、子供向けの教科書の端に一行くらい書いてあっただけだ。
その魔女の一族は、魔術師になったのだろうか?
……実のところ、今の今まで、エイデンはどんなに素敵な人でも魔術師ではあるから、妖精であるエリオスが話せないのかと疑っていたのだが……そうではなかったらしい。
ふうっとため息をついて、思考を打ち切る。まだ少しぼんやりとしていて、あまり楽しくないことを考える気力はなかった。その代わりにカーテン越しの足音が聞こえて、声を掛けられた。
「――アイビーさん? もしかして、起きたのかしら? 入っても大丈夫?」
養護教諭のシェリー・アンヴィルの声だった。
「あの、はい! 起きました!」
アイビーが反射的に叫ぶと、ヴェルディアナが素早くサイドテーブルの陰に隠れた。同時にカーテンが開く。
「良かったわ。ほとんど三日間も眠っていたのよ。具合はどう? 痛いところや、違和感がある場所はないかしら?」
アンヴィル先生は、優しい笑みを浮かべてそう言った。アイビーは、少し自分の体に意識を向けてから、首を横に振った。
「ありません。大丈夫です」
エリオスに追加で回復してもらえたことも大きかっただろう。アンヴィル先生は、少しばかり嘘をついていないか確かめたそうな顔でアイビーを見つめたが、納得したように頷いた。
「そう。それなら良かった。でも、なにかあったらすぐに言ってね。ああ、水も全部飲んだのね。追加してくるわ。お腹は空いている? ラスボーン先生がスープを用意してくれているけれど、食べられそう?」
「あ、はい、いただきます……!」
そう言われると、急にお腹が空いてきた。薬草学の教師ハロルド・ラスボーンは、医務棟とグレートホールの間にあるハーブ園や温室などの管理責任者で、森育ちのアイビーからしても信用できる味覚の人だ。
「じゃあ持ってくるわね」と言ったアンヴィル先生が、空の吸い飲みを掴んで出ていく。物陰から出てきたヴェルディアナが、アイビーに近づいてくる。しかし、再び足音が、しかも走っている音が、こちらに近づくように聞こえて、また驚いたように隠れてしまった。
戸惑っているうちに、カーテンが開く。
「……アイビー! 目が覚めたって……!」
エイデンだった。アイビーは目を丸くして、一拍置いてから叫んだ。
「……ひゃああ……っ……」
ベッドに座ったまま上掛け布を掴み、頭まで隠す。起き抜けに見たエイデンは、いつも通りに素敵だった。そして自分は起き抜けの姿だ。
「……えっ? あっ、ごめん……勝手に入って」
エイデンが、呆然とした様子から戸惑った声を発して、後退るような音を立てる。
「あ、あの、いいんです! でも、あのっ、私、いま髪、とかっ、絶対グシャクシャでっ……えっと……!」
会えて嬉しいのと物理的に顔向けができないのとで、アイビーは大混乱して叫んだ。
「……あ、もしかして、僕のことを嫌いになったわけじゃない?」
「え?」と、アイビーは思わず上掛け布を下げてエイデンを見て、走ってきて髪が乱れていてもかっこいいのに不安げな顔を見て、もう一度上掛け布を上げた。
「そういうわけじゃありません……でも、お見せできる姿ではなくて……」
「そんなことはないと思うけど……ごめん、押しかけてしまって」
アイビーは上掛け布の陰で、髪を手櫛で必死に撫で押さえてから、そっと両腕を下ろした。これ以上は取り繕っても仕方がないだろう。
「……あの、ごめんなさい。ご迷惑を、おかけしました」
恐る恐るエイデンを見上げる。本当は、自分はやっぱりあのときに死ねたほうが良かったのだろう。もしもアイビーの事情を知っている者がいたなら、誰もがそれが一番幸せだったと言うはずだ。殺さなければならない好きな人の命を救って死ねたなんて、なんて幸せな女だろうと。それなのに、現実は何もかも失敗している。
「ううん。助けられたのは、僕だ」
エイデンは、穏やかに微笑んだ。そっとアイビーに近づいてきて、軽く膝を折るようにして目線を合わせる。
「ありがとう。君が生きていてくれて、本当に良かった」
アイビーは戸惑ったまま頷いた。それはそうだ。優しいエイデンからすれば、アイビーが目の前で死んだら寝覚めが悪いに決まっている。
「……ありがとうございます」
胸の前で、ぎゅうっと手を握り締める。けれど、まだ何か謝らなければならないことがたくさんある気がして、言葉を探す。




