8-6
「どうしよう。ベッドが三台しかないけれど、二人ずつ寝かせていいのかな?」
「いいんじゃありませんの? むしろそっちの方が安心するはずですわ、この子たちは」
その会話を聞いたマリアンが、中に入ってきて後ろにいるゴーレムたちへと指示を出す。それから室内にいたヴェルディアナに不思議そうな顔を向けた。
「えっと、この子は……? どなたの妖精ですか?」
「ヴェルディアナですわ! この学校の大樹の妖精ですのよ!」
「……の、若芽です。旧校舎を探索したときに知り合った」
「ああ、報告で聞いています。そうでしたか」
アイビーが付け加えると、マリアンは頷いて微笑み、ヴェルディアナに一礼した。
「あの文書を生徒会が見つけられるようにしてくれたのも、あなたでしたよね? ヴェルディアナさん。先日は大変お世話になりました。私は生徒会庶務のマリアン・アシュレイです。どうかあなたが今後も学校を見守ってくださるように、生徒会として尽力しますね」
「……あなた……もしかして、良い人ね?」
「あら。ふふ、ありがとうございます。ヴェルディアナさんこそ素敵な方なのですね」
そんな会話の脇で、ようやくコンラッドがブルーベルの人工妖精を運び終える。途中でかなりアステルが手伝っていたことは指摘しないことにして、アイビーはコンラッドに近づいた。
「ねえ、コンラッド。この後の予定は?」
「ん? 俺とアステルはここで待機だよ。アシュレイ先輩はヴィオラ先輩のゴーレムを連れて会場に戻るけど」
その人選なら、ここで待機しているアイビーも気楽だろう。生徒会がそう考えたことが想像に難くなかった。
けれど、アイビーはぐっと胸の前で自分の両手を握って告げた。
「あ、あのね、コンラッド。ごめん……ヴェナちゃんと一緒に、ここをお願いしていい?」
「へ? アイビーはどこに行くんだ?」
コンラッドが困惑した表情になる。
「エイデン先輩が、敵を引き付けるために出て行ったの。私は待機って言われたけど……やっぱり、探してくる!」
口にしたら、モヤモヤしていた気持ちがすっきりと定まった。
エイデンの意向に従わないことで、彼に嫌われる可能性があることは怖い。けれど、やっぱり不利益を齎す可能性と同じくらいに、彼の助けになる可能性だってある。だって敵は、子供だからと手加減してくれる相手ではないのだ。最初から大勢の生徒を巻き込もうとしていたのだから――何かが手遅れになるほうがよほど怖い。
コンラッドとマリアンの驚く声を無視して、医務室を飛び出す。玄関ホールに向かって走ると、会場側からオフィーリアの美しい歌声が聞こえてきた。けれど玄関ホールの扉付近はひどく焼け焦げて、ガラスが溶けて変形していた。アイビーはひゅっと上ずりそうになる息を押し殺して、外に向かう痕跡を辿った。大丈夫だ、まだ人が焦げた臭いはしない。
痕跡は、火で燃えたであろうものしか見当たらなかった。けれど、あの状況下から、逃走者側だったエイデンが一方的に敵を攻撃したとは考えにくい。ということは、仮にエイデンが反撃や足止めのために火の魔術やエリオスを使っていたとしても――相手も、火の魔術師なのだろうか。
延焼が防がれていることから、おそらくある程度の保護魔術が掛けられているらしい豪奢だった玄関ホールを、警戒しながら進む。オフィーリアの歌声が遠ざかり、代わりに空気が燃える音が聞こえてきた。
アイビーは飛び出したいのを堪えて、半壊した玄関扉の影から外の様子を窺った。真っ暗な夜を照らす規則正しく並んだ外灯が、滑らかな石畳の道を照らしている。それよりも鮮やかに旋回する火の鳥の下に、見覚えのある赤いマントが見えた。エイデンだ。剣を構えて立っている。遠目にはマントに大きな損傷はなく、大怪我は負っていないように見えた。けれど、姿勢の制御が甘く、マントの裾が焦げているようにも見える。
全力を出した魔女や術師の戦闘継続時間は、基本的に十分が限界だ。少なくともエイデンが医務室を飛び出してからそれくらい経っている。向かい合う敵は、黒のドレスローブを着用して長い赤茶髪を簡単に纏めた、明らかに大柄な男だった。身の丈に合った槍を構えている。その隣には赤い鬣を纏う獅子の妖精が、体勢を低くしてエイデンを睨んでいる。
……どう加勢すればいいのだろう。アイビーは実戦で共闘というものを経験したことがなかった。立ち回りがわからない。焦りそうになる思考の片隅で、ニヴァリスが嗤う。『――だって森の魔女はみんな殺されて、独りで暗殺に送り込まれるくらいだものね?』
ふいにエイデンの姿勢が傾ぐ。カクンと片足から力が抜けたような様子に、アイビーは悲鳴すら上げられずに駆け出した。視界の先で獅子がエイデンに飛び掛かる。槍を構えた男も動いた。けれどエイデンはもう限界だというようにそのまましゃがみ込み、剣を地面に突き立てた。
そして――剣先から広がる赤い魔法陣が石畳を染めた。
一瞬のうちに地面を伝って伸びた魔法陣の線が、周囲の外灯に接続される。外灯の内側に灯されていた火の魔術が、増幅して眩く輝いた。
アイビーは咄嗟に顔を逸らして左腕を掲げた。一拍置いて、ガラスが砕ける音と何かがぶつかる音、聞き分けられない音が混ざって響き、爆風がアイビーの身体を押した。チカリと視界の端で、何かが光ったような気がした。風圧に逆らわずに小さく屈み込み、クラクラと鳴る音から逃げるように右耳を強く押さえる。
自分の揺れが収まるのを待って、アイビーはそっと立ち上がった。周囲の外灯がすべて砕けて真っ暗になった視界を、音を立てないように走る。きっと今は、白いローブでなくて本当に良かった。幸いにしてまだエリオスは堂々と夜空に輝いていた。それを目指す。エイデンは剣を支えにして、ゆっくりと立ち上がった。周囲に展開されていた防壁が散って、光の粒になって消える。獅子の妖精の姿はもうなかった。
エイデンは剣を引き摺りながら、這いつくばる男に近づいていく。酷く消耗しているのは演技ではなかったらしく、やっぱりふらついている。外灯を利用した攻撃をまともに受けたらしい男は、黒いローブからでは怪我の具合はわからないが、起き上がれもしないようだった。けれどアイビーはもう、そんなことはどうでもよかった。エイデンが剣を両手で持ち上げ、何か言いたげな男の頭上で刃先を下に向ける。
「……お前、っぐ――!」男の肩に、エイデンの剣が突き刺さる。槍を掴んでいた手から力が抜ける。エイデンは剣を刺した反動でよろめきながらも、その場に留まって気絶したらしい男を見下ろした。
アイビーは、強く地面を蹴ってエイデンに抱きついた。
「っ――!」
僅かに煌めく矢じりが、アイビーが背後に展開した雪壁に刺さり、崩れた雪と共に火の魔術師同士の戦いで熱された石畳に落ちて、硬質な音を立てた。魔力を通していない、実在する矢じりだ。アイビーは振り返るなり外灯の奥にある並木を見据え、それに向かって叫んだ。
『――木を踏んでいる人を捕まえて!』
矢が飛来した方向を見据えて、木々の周囲で怯える精霊たちに強く働きかける。
木が揺れる。けれどそれより早く、薄い夜の木の隙間から、再び矢が飛んでくるのが見えた。熱された空間で再び展開した雪壁が、また脆く砕ける。その奥に、僅かに遅れて飛来する矢が、やけにゆっくりと視認できた。
けれど、できたのは見つめることだけだった。再び雪壁を展開することも、身体を捻ることも、今まさに木の魔法で術者を攻撃しているアイビーには、できなかった。
「……あ、……っ――!」
ドクリと跳ねた心臓の上に、矢の先端が吸い込まれてくる。背後から、微かに腕を引かれた。
胸の上に、強い衝撃を受ける。そのまま後方に倒れ込んだアイビーは、引き絞るような悲鳴を上げた。
――心臓が焼ける。呼吸ができない。全身が激しく炎に包まれたように、熱くて、痛い。
後頭部から地面に叩きつけられる代わりに、エイデンに抱えられている。けれど、離して欲しかった。痛がって酷く歪んだ顔が、エイデンに見せる最期なんて、そんなのは嫌だった。
「……アイビー、……アイビー!」
痛みと羞恥心から逃げ出したくて暴れようとして、呆然と叫ぶエイデンの声に、ハッとする。自分にはもったいないくらいに心配させてしまったとわかって、さっさと死にたいほど情けなくなった。――いっそ即死できていたら、それ以上エイデンを困らせずに済んだのに。
「……ごめ、……なさ……、っ……」
「話さなくていい。なんで謝るんだ。僕こそごめん。助けるから、絶対に助けるから、安心して」
アイビーは首を横に振ろうとして、ヒッと息を飲んだ。肺が動くたびに刺すような激痛が走り、息が上手く吸えなかった。陸に打ち上げられた魚のようにハクハクと浅く呼吸を繰り返し、一番の心配ごとを告げる。
「て……き……たお……っ……?」
「倒れてる。いまエリオスが見てきてくれた。気絶しているらしい。だからもう大丈夫。ありがとう」
エイデンの肩に、エリオスが乗る気配があった。どうやらアイビーが戦闘不能になってすぐに追撃が必要かはちゃんと確認してくれたらしい。
「……でも、アイビーには自分の身を守って欲しかった。なんで僕を守ったりなんかしたんだ」
そう言われて、ようやくアイビーはおかしなことに気づいた。さっきの瞬間は、アイビーが手を汚さずにエイデンが死ぬ、絶好の機会だった。どうしてわざわざそれを邪魔してしまったのだろう。
――簡単なことだ。アイビーは、エイデンを殺せない。
エイデンは悔しそうに唇を噛み、アイビーの傷口の周囲の布をナイフで裂き始めた。
「ごめん、アイビー。ちょっと脱がせるし触る」
エイデンから借りたローブが傷んでいく。綺麗なまま返すことができなかった。結局、アイビーには相応しくなさ過ぎたのだ。何もかも。
「……貫通はしていない。でも、これは……くそっ」
エイデンの震えた声が聞こえる。即死していないのだから、心臓はかろうじて外れているのだろう。きっと直前にエイデンがアイビーの腕を引っ張ったからだ。けれど、とアイビーは目を閉じた。たぶん矢じりは毒が塗られている。さっきから、ニヴァリスの力が体内を解毒しようとして、失敗しているのを感じる。
「……止血しないと、どうにもならない。アイビー、矢を抜くから。痛いかもしれないけど、舌を噛まないで」
アイビーは、反射的に舌を出そうとした。そのことに気づかれたのか、何かが口の中に捩じ込まれる。
「……っ……!」
薄く目を開けると、眼前にエイデンの手があった。たぶん、親指の付け根を入れられている。これでは噛めない。嫌だ。離して欲しい。
『エリオス、頼む。アイビーを助けてくれ』
じわりと赤と黒が明滅する視界の端が穏やかな色になる。痛みはもうよくわからない音のようになっていて、一度鳴るたびに死に向かっているのだとわかった。それなのに、突然心臓付近の痛みが激しくなった。アイビーは反射的に口の中のものを噛もうとして、できないことに気づいてパニックに陥った。
初めてエイデンのことを酷いし怖いと思った。もうずっと痛いし苦しいしやっと楽になれそうなのに、全身を強く抱き締められて、深く刺さった矢を無理やり動かされる。
それなのに、祈るような声に、消えてしまいたいと思うことすらできなくなった。
「……絶対に、助けるから……」
傷口が広がって、さらにおかしくなったらしい血管の痛みに、ふっと意識が遠のいた。
助ける必要なんてないと、告げることさえできなかった。




