8-1
大半の学校行事が行われるグレートホール――旧王国時代の宮殿を魔術で移築した建物らしい――は、外部の人間を招きやすいように、正門から一番近い場所にある。
アイビーたちが会場の外に着くと、中からは新入生への祝辞と後援会等への感謝を述べるシルヴェスターの声が響いていた。どうやら場繋ぎをしているらしい。
「アイビー」
玄関口にいたエイデンが駆け寄ってくる。既に日は暮れていて、薄闇の中に街灯が灯っていた。制服のローブの上から深紅のマントを羽織っているエイデンは、わざわざ中に着るものまでもいつもの制服一式に替えたようだった。せっかくとても上質な礼装を着ていたのに、アイビーに合わせたのだとわかった。
「エイデン先輩……」
そこまでしなくて良かったんです――そう思った。けれどそれ以上に嬉しくて、そして単純にマント姿のエイデンがかっこよすぎて、言葉を失ったまま高鳴る胸を押さえる。しかしエイデンは、アイビーを見つめて首を傾げた。
「あれ……また可愛くなった?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。アイビーは激しく動揺して、思わずエイデンの顔を窺った。なんの裏もなく不思議そうにしているように見えた。どうしよう、本気で言っている可能性がけっこう高いような気がする。
「あ、その……先輩方に、助けていただいたので……」
「ああ、そっか。ありがとう、マリアン。ブラックモア先輩も、ありがとうございました」
エイデンは、アイビーの隣にいたマリアンとヴィオラに向き直って礼を告げた。
「いやいや、私たちにお構いなくて何よりだよ」
「いいですね、青春って」
なぜか二人とも謎のコメントをして肩を竦めた。エイデンは二人から目を逸らすと、マントの下から赤い薔薇を取り出した。そして、なぜかアイビーに向かって差し出してきた。
「これ、必要ならと思って庭園で貰ってきたんだけど……いらなかったかな? ごめん、可愛すぎてどうしていいかわからない」
「そ、そんな、ことは……」
アイビーのほうこそ、どうしたらいいかわからなくなっていた。とりあえず全力で首を横に振った。
「だってエイデン先輩の方が、ずっと素敵で、格好良くて……」
マリアンが近づいてきて、アイビーの髪を撫でた。
「はい。時間がないので、とりあえずその薔薇は髪に挿しましょうか」
「うん。ここでいいかな? 触るね」
エイデンの手が、そっとアイビーの髪に触れた。アイビーはその場で固まることにした。
「いい感じ。ピンで固定してあげてね。あと、長持ちする術は……かけてあるね。さすが抜かりない」
あまりにも優しい手つきで髪を扱われて、そのくすぐったさにアイビーは目を彷徨わせた。ちょうど会場横の医務室や控え室などに続く廊下から、コンラッドが全力で走ってきていた。
「あの……すみません、先輩方……」
動きやすそうな黒地に金糸の入ったロングジャケットを着こなしているコンラッドは、生徒会の面々を見て、困ったように眉を寄せた。
「うん? コンラッド、なんか畏まってない?」
「いや、なんか、先輩方がちょっと予想以上に綺麗すぎて話しかけにくいんですけど……アイビーもだいぶ知らない人みたいになってるし……」
「あははっ、ありがと。コンラッドこそ、我らが次代の錬金術師代表だって見せびらかしてやりたい仕上がりなのに、裏方を任せて悪いね。それで、私たちはいつ入場すればいいのかな?」
ヴィオラが満面の笑みになった。もしかすると、生徒会は悪気なく口が上手い人が集う組織なのかもしれない。コンラッドは照れたらしく、謎に咳払いしてから言った。
「今、招待している劇団の歌姫オフィーリア・ローズが一曲歌ってくれることになったので、その間にオーデン先輩が入り口まで戻ってきます。オフィーリアの歌が終わったら、そのまま楽団がダンス曲を演奏する予定です」
「なるほどね。そっちに迷惑かけちゃったか……ああ、今聞こえてる声? いいね」
アイビーも会場内に注意を向けた。そして、少し驚いた。いつの間にかシルヴェスターの挨拶が終わり、穏やかで清廉な印象の歌声が聞こえてきていた。先日聞いた王女役の情熱的で激しい歌声とは、まったく違う。これがオフィーリア個人の歌声なのだろうか。
「やっと来てくれたか……」
先ほどコンラッドが来た廊下から、シルヴェスターが安堵した顔で歩いてくる。ロイヤルブルーのケープが付いた重厚なローブにすっきりと纏められた髪と細身のブーツが、今日も絶好調にクラシックな威厳と品の良さを取り揃えているようだった。
そんなふうに眺めていると、シルヴェスターはなぜかアイビーを見た。
「精霊術師の寮長から話は聞いた。一応犯行グループの目星は付くが、関与した者たちの範囲まではわからないそうだ」
話と行動がすべて早い。アイビーがポカンとしていると、代わりにマリアンが口を開いた。
「そうですか……。申し訳ありません、私も同じです。疑いたくなる相手はいるのですが、裏取りは難しいかと……」
どうやら二人は、自分たちが律すべき精霊術師の寮内で起きたことを、かなり気に病んでいるらしい。アイビーはようやく何を言うべきかに気づいた。そろそろオフィーリアの歌声が、終盤に入っている気がする。
「と、とりあえずは、大丈夫です。ご心配をおかけしました……!」
「……そうか……」
シルヴェスターは申し訳なさそうに頷くと、アイビーの横にいたエイデンのほうにも視線を向けた。
「では、この件はいったん保留にする。二人は俺たちに続いて入場してくれ」
そう言って、シルヴェスターはヴィオラに向き直った。優雅に一礼をして、ヴィオラが差し出した手を取る。
「え?」
アイビーはマリアンを振り返った。いつの間にか後ろに移動していたマリアンは、少し彼女に似た雰囲気の青年にエスコートされていた。アイビーがダンスを教わるときに手伝いに来てくれた、マリアンの競技ダンスのパートナーで従兄弟だという人だ。近くにいたらしい。
「え……?」
「アイビー・エインセル」
名前を呼ばれて、アイビーは狼狽えたままエイデンを見た。
「僕と踊っていただけますか?」
ほんのりと気恥ずかしそうに眉を下げて、エイデンが微笑みながら一礼をする。その瞬間、アイビーは生徒会が別で入場するなんて話を聞いてないと告げることを忘れた。おずおずと手を差し出すと、緩やかに指先を掬われた。エイデンの赤い瞳がちらりとアイビーの表情を窺い、引かれた手の甲に、唇が近づいた。
そのあとのことは、よくわからなかった。気づけばエイデンにエスコートされて入場していた。周囲は拍手でも掻き消せないほどにザワザワしている。たぶん生徒会への賛辞だけでなく、場違いなアイビーのことも言っているのだと思う。けれど最早それどころではなかった。足元はふわふわするし、体は軽いし、多幸感に包まれすぎてクラクラするし、夢か現実かの区別もつかなかったし、心臓がうるさすぎて周りの声なんて聞いていられなかった。エイデンの腕に掴まっていなければ、真っ直ぐに歩けなかったかもしれない。
中央で立ち止まり、エイデンと向き合う。曲が始まる。周囲のざわめきが密やかになる。踊る、らしい。エイデンが腕を広げる。覚えていた通りにアイビーが右手を合わせると、優しく握られた。エイデンの右手が、そっと背中に添えられる。ローブを着ていて良かったと思った。薄いドレスだったらきっと耐え切れなかった。そう思ってから、そもそも自分がエイデンのローブに包まれていることに気づいた。
「アイビー。大丈夫だから、もう少ししっかり僕の腕に左手を置ける?」
「……あ……」
頷いて、半歩前に出る。エイデンに近づいて、触れるのを怖がっていた左手を、頼るように乗せた。緊張で息が止まりそうになる。だって今から好きな人と正式に踊るのだ。
エイデンがそっと踏み出すのに合わせて、一歩、習った通りに足を引いた。頼るように手を置いた腕と、背中を支える手に、戸惑いながらも身を任せる。優しく包むように繋がれた手の大きさが、動くたびにふわりと香る香水の爽やかで甘い匂いが、感覚のある夢のようで落ち着かない。
エイデンの動きに合わせて、足を動かす。これさえできたらいいと仕込まれた基本の三ステップを意識して、絶対にエイデンの足を踏まないように――。
「……この曲、けっこう好きなんだ」
ふいに話しかけられて、アイビーははっと顔を上げた。目線が下がりかけていたらしい。正しいのは、真っ直ぐに前を見ることだ。このダンスの基本姿勢では、横に半歩ずれて向かい合うから、アイビーの背丈であればエイデンの右肩あたりを見ることになる。
緩やかに足を動かしながら、エイデンが好きだと言った曲をちゃんと聴く。『憧れの日』――歌劇『月の祝福』に出てくる演舞曲だ。月が願いを叶えてくれるという秋の晩、歌い踊る人々とそれに引き寄せられる秋の妖精たちの、物語の始まりを告げる曲。
「……私も、です。この曲のお話も、大好きで……」
アイビーは曖昧に微笑んだ。本当に月が願いを叶えてくれるなら、どんなに良かっただろう。本当は知っている。作中で願いを叶える月の妖精は、我が儘な人間の願いは叶えない。私利私欲のために誰かを殺そうとするような人間には、むしろ罰を与える。だから、幼い頃は本当に大好きだった。アイビーが大好きな良い人たちを傷つける悪い人をやっつけて欲しいと思っていた。それなのに。
「うん。僕も」エイデンは笑って頷いた。「こんな夜なら、月の妖精だって僕の願いを叶えてくれる気がする」
「……そうですね。きっと……叶うと思います」
アイビーは曖昧に微笑んだ。
月桂樹の葉に願いごとを書いて、月光が当たる場所に置く。月の妖精が受けてくれれば、翌朝には消えている――。でもエイデンは今夜、本当にそんなことはしないだろう。だから、願いを破るのはアイビーではない。
「……ねえ、少しだけ僕に任せてくれる?」
突然エイデンが囁いた。アイビーは意図がわからずエイデンを見た。月よりもずっと魅力的な赤い瞳が、淡く期待するように輝きながらアイビーを見つめていた。
「は、はい」
思わず頷きながらも、困惑する。最初からずっとリードはエイデンに任せている。けれどアイビーが頷いた途端に、エイデンの動きが少し大きくなった。強めに身体を動かされて、くるりと世界が回る。足が躍る。制服のスカートとエイデンのローブの裾がふわりと広がった。けれど嬉しそうに笑うエイデンの顔だけが、変わらずアイビーの視界にあった。
「あ……」
楽しい。アイビーは目を見開いた。そうだ、楽しむためにここに来たのだ。悲観するしかない未来を見つめるためじゃない。
「もう一度」
エイデンがあまりにも楽しそうに言って、また、大きく世界が回る。エイデンの髪が会場の明かりに照らされて、キラキラと輝く。どうしてこんなに楽しいのだろう。ただ好きな人と踊っているだけなのに。
「困ったな、君が笑ってくれるだけで、こんなに嬉しいなんて」
緩んだ唇が、甘い声で笑う。赤い瞳には、くっきりとアイビーの姿だけが映っている。
曲が一際華やかになる。また大きく回って、さらにエイデンの腕が上がって、アイビーはくるりとその中を回った。すぐに引き寄せられて、また一緒に回る。楽しくて嬉しくて堪らないまま、曲が終わる。ゆったりと広がったエイデンのマントが、余韻の中で、名残惜しそうに下りた。
アイビーは足を止めた。時間が永遠でないことさえ今は寂しくなかった。もう十分だ。世界で一番幸せになってしまったのに、これ以上何を望めばいいのだろう。
拍手の音が会場を埋め尽くす。両隣のペアは素晴らしいダンスをしたようだ。どうせアイビーが魔女である限り周囲の期待には応えられない。それでも、エイデンは笑ってくれている。アイビーを見てくれている。
伝える権利もない愛情を込めて膝を折った。




