7-2
アイビーは、エイデンに気づいたことをアピールすべきか、それとも気づいていないふりをするか迷って、そっと髪を撫でた。まだ朝だし、昨日よりはサラサラしている。でも、もっと梳かしてこれば良かった。でもでも、昨夜はいつもよりも丁寧にトリートメントしたし、やりすぎは良くないかもしれない。でもでもでも、やっぱり少しでもちゃんとしているほうがいいのでは――?
「――おはよう、アイビー」
「はっ、はい! おはようございますっ!」
いつもと違ってどこか固いエイデンの声がして、アイビーは椅子から跳ね上がる勢いで振り返り、反射的にすごく元気に返事をした。
「その……今いいかな?」エイデンはほんの少しアイビーの周囲を見回して、コンラッドの食べかけのトレーを見て眉を寄せた。「さっき、ブラックモア先輩もいたみたいだけど」
「は、はい! 大丈夫です!」
アイビーは大きく頷いてから、こっそり自分の手の甲をつねった。そうしないと、跳ね回りすぎた心臓が痛くて耐えられなさそうだった。
「じゃあ……お願いがあるんだけど、聞いてくれる?」エイデンは軽く目を伏せた。アイビーが頷きつつ椅子から立ち上がるべきかどうするべきか迷っていると、少し屈むように膝を折られた。
同じ高さで目が合う。赤い、何よりも印象に残る瞳がアイビーを真っ直ぐに映していた。アイビーがエイデンを殺すのはとても難しいことなのに、その逆は、いとも簡単なことのように思えた。心臓が、わけがわからないほど苦しくなる。
「――僕と、歓迎パーティーに出てほしい」
アイビーは返事をしようとして、からりと乾いた口からうまく声を出せずに、無言で頷いた。それからなんとか声を絞り出す。
「っ、……はい……っ」
「……良かった……」
エイデンが胸を押さえて立ち上がる。頬を赤くして、たぶん一瞬ふらついていた。結構緊張していたらしい。けれどほっと息をつくと、アイビーを見つめてじわじわと嬉しそうに頬を緩めた。
「あの、その……よろしくお願いします……」
「うん。こちらこそ」
安心しきった穏やかな声が、心地よく耳に響く。けれど、そこまでだった。
誰かが叫ぶ。――エイデン・フラムスティードが? 魔女にパートナーを申し込んだ? 何かの間違いよ! 魔女に誑かされたんだわ!
エイデンがゆっくりと周囲を見回すと、ほとんどの声は消えた。その代わりに――朝からいいものを見ちゃった、朝食抜かなくて良かった……! さすがエイデン、成果を上げるのが早いな……勇気出てきた……! ……むしろエイデン狙いで断られる可能性が消えたか? これってエイデンがちゃんと着飾ってパーティーに出るってことだよね? 去年いなかったし。やばい……魔女に感謝しなきゃ……真っ赤でも顔がいい――などと、基本は否定的なざわめきに混じって、若干妙な声が聞こえてきた。
「いろんな奴がいるんだよな」
コンラッドが戻ってきて、ものすごく甘い匂いがするトフィーパイを三切れも載せた皿を置いた。エイデンの表情が困惑に変わった。
「三つも持ってきたのか。まさか教室に持っていくつもり?」
「今から全部食うけど?」
「そ、そうなのか……」
「そんなこと言って、昔はエイデンだって二切れ食った後に追加でマカロン食ってただろ。忘れてないからな」
「ああ……そんなこともあったかな」
エイデンは苦笑して、アイビーに視線を戻した。
「じゃあ、また後で」
「はい。あの、私、楽しみにしていますから……!」
間違ってもやっぱりなかったことになんて言われないように、アイビーはじっとエイデンを見つめた。そうなったらたぶん、心臓が張り裂けてしまう。
「うん。僕も」エイデンはそう言って去っていった。アイビーの幻覚妄想でなければ、たぶん少し名残惜しそうだったと思う。幻覚妄想かもしれない。今起きた幸福がちょっとまだ信じられない。
「はあぁ……」エイデンが朝食を取りに行くのを見てから、アイビーはようやく深く呼吸をした。嬉しくて緊張して心臓が小躍りしすぎて疲れたのだ。
「良かったな。おめでとう。……やっぱり食うか?」
「……食べる……」
向かいから差し出された皿から、ビスケット生地にトフィーをたっぷり入れて生クリームを上乗せしたものを、一つ受け取る。
口に入れると、香ばしく煮詰まったキャラメルミルクと生クリームが絡んだ背徳感たっぷりの味に、さくさくとした食感のビスケットが混ざり込む。すごく甘い。けれど、その甘さが全身に沁みる。
「けっこう美味しいかも」
「だろ? これには入ってないけど、俺の家とか錬金術師たちの間では、隠し味にコーヒーを仕込むのが主流なんだ。あれが一番美味しい食べ方だから、冬休みにでも食べに来いよな」
「うん。楽しみにしてる」
アイビーはしれっと渡されたできない約束を増やして、ニコニコとトフィーパイの欠片を口に詰め込んだ。
『あれ、ドレスを着るんじゃなかったっけ?』というニヴァリスの声はひとまず無視した。
今後のダンスの練習に、カロリーは必要なのだ。
「……ただいま、お母さん」
その週の休日、アイビーは、久しぶりに母コーデリアのもとに帰省した。母は、精霊術師が支配する農業都市シルヴェリースの街で、寄り集まる魔女たちに会った団地とは別の場所に引っ越していた。もともと植物研究者として優秀な母は、精霊術師たちに魔女の知見で進めた研究を提出して役に立ち、金銭を得ているようだった。
「ただいま、お母さん」
長距離列車に乗って、学園都市からシルヴェリースの主要駅の一つから乗り換えて、さらに高架列車で五駅。
駅で待ってくれていた母は、「おかえりなさい」とアイビーを抱きしめてから、ちょっと泣きそうなのを誤魔化すように、「寒いから、話は家でしましょうね。お茶とお菓子を用意してあるの」と微笑んだ。
精霊術師に与えられたという、小さいがそれなりに綺麗なアパートは、駅から歩いて十分ほどの、治安が良さそうな住宅街にあった。
住み慣れた森の家とは比較しないことにすれば、きっと悪くない場所だった。身嗜みを整えると、生まれも育ちも森暮らしなのにどこか都会的に綺麗な母には、たぶん似合っていた。
「調子はどう?」
飲み慣れた森の味に近い母の特製ブレンドハーブティーと、精霊術師の生徒が好んで食べていることが多い気がするバターたっぷりのクッキーを出してもらったアイビーは、母と向かい合ってテーブルに座った。
「悪くはないよ。……私ね、ターゲットに、けっこう気に入られてるんだ。このままいけば、抵抗されずに……殺せると、思う」
娘の言葉に、コーデリアは穏やかに頷いた。アイビーよりも少し濃い、深緑を思わせる髪が揺れる。
「それは良かったわね。あなたが怪我をしないのが一番だもの」
「……うん」
アイビーは、森の雑味がないシンプルに美味しいクッキーを口に含んだ。怪我なんてしていないのに、もうずっと苦しいなんて、今さら母に訴えても意味はないだろう。
「……あのね、お母さん。……私、新入生歓迎パーティーだけは、どうしても出たいの」
「あら、そうなの? いいじゃない。お友達ができたのね。どんな子なの?」
アイビーはハーブティーを一口飲んだ。
「えっと、錬金術師の女の子」
途端にコーデリアは、木の幹のようなダークブラウンの瞳を輝かせた。
「そうなのね! 良かったわね、森とは違う暮らしができているのね」
「……うん。その子、エミリーっていうの。同じクラスで、いつも一緒にご飯を食べて、休みの日も街にお買い物に行ったりしてるんだよ」
頭の中でニヴァリスが『これは悪くない嘘よね、たぶん』とぼやく。
「それは素敵ね。お母さんたちの時代は、術師たちと同じ学校に入ることはできなかったから、少し羨ましいわ。でも、私ができなかったことを、娘は叶えているのなら、とても嬉しい」
コーデリアは立ち上がって窓の外を見た。晴れた秋空の青は父の髪色とよく似ていた。
「あの人にも報告しないと。ああ、素敵。こんなに嬉しいことばかり続くなんて。これで、もうあの人に心配かけずに済むわね」
そう言って、コーデリアは安らいだ顔でアイビーを振り返った。
「……やっとね。死んだのよ」
「え?」
「デリック・ファルメールと、その娘ネリリン・ファルメール。私たちの家族の仇が、死んだの」
どうして、とは聞けなかった。呆然とするアイビーに気づかず、コーデリアはどこか夢を見る少女のような声で笑った。
「これでようやくあの人も、安らかに眠れると思うわ。正義感の強い人だったもの。自分の娘や息子や近所に住む人々を殺した大悪党が野放しになっていて、とても悔しかったはずよ」
コーデリアは、窓を離れてデスクのほうに向かうと、鍵付きの引き出しを開けた。
「あとはあなたが無事に戻ってくるだけよ」
「……うん」
アイビーは曖昧に笑って、ハーブティーを口に含んだ。コーデリアが戻ってきて、アイビーの前に厚めの封筒を置いた。
「これ、使いなさいね」
「何? これ……」
「ドレスを買うんでしょう? 靴やアクセサリーの分も足りると良いのだけど……帰ってきたら、私にも着ている姿を見せてね」
アイビーは、どうしたらいいかわからなくなって俯いた。
「……うん。ありがとう、お母さん……」
ドレス選びは、エミリーに手伝ってもらうことにした。
待ち合わせのレストランに入ると、エミリーはもう来ていて、ルルミアとブルーベルの人工妖精と一緒に座っていた。
「あのねアイビー、私ね、レヴィヴィスって名前になったよ! 初めまして!」
顔を合わせて一番に、ブルーベルの人工妖精――レヴィヴィスは笑顔で胸に手を当てた。
「レヴィヴィス……素敵な名前だね。改めてよろしくね」
「うん! エミリーも、ありがとうね!」
「もう何回も聞いたよ。でも、そんなに喜んでくれるなら、私も嬉しい」
エミリーが満更でもなさそうに頬を緩める。まるで、仲の良い姉妹みたいだ。
「ん? どうかした? アイビー、昨日ちゃんと寝た?」
「うん。なんでもないよ」
正確には母の家に行って以降、数日寝不足である。
「そう?」
エミリーは軽く考えるような間をあけたが、すぐに切り替えるように大きく頷いた。
「じゃあ早速、アイビーに一番似合うドレスを見つけないとね!」
そして、まだランチプレートが届いていないお洒落なテーブルの上に、大量のカタログが山積みにされた。
「アイビーって、どういうタイプのドレスが好きなの?」
「わからないかも。着たことがないから……」
そう答えた瞬間、カタログはテーブルから消えた。
「現地で見るしかないわね」
そうして美味しい昼食の後。レストランを出たエミリーは、あまりにも真剣な表情で『Rose Thorn』と書かれた華やかなドレスショップに入り、ブツブツと呟いていた。
「何色にしようかな……アイビーはやっぱり白かペールベージュ系……ううん、やっぱり形から選ぶべき? お店はたぶん、ここが似合うと思うんだけど……意外とあそこも似合うかも……? でも、アイビーなら奇を衒わずに、王道で勝負したほうがいいわね。となるとやっぱり第一候補はここね……エイデンは絶対に赤と黒が基調だから、アイビーと合わせる色はブラウン、ピンクベージュ、グレーあたり? ネイビー、シルバー……ううん、まずはアイビーに似合うかどうかよね。もういっそエイデンが白を着たら良くない?」
呟きながらも、足は止めない。かと思ったら、ピタッと止まってアイビーを振り返った。
「アイビー、ドレスは数だからね。試着した数が物を言うわ。今日は覚悟しておいてね」
「え? 覚悟?」
アイビーは困惑した。今からするのは、楽しいお買い物ではないのだろうか。
「ドレスの試着って結構疲れるのよね。でも、今回に限っては妥協しないから」
「え? え?」
「お洒落の基本は体力と気力と根性なんだよ! エミリーが言ってた!」
「……そうなんだ……」
レヴィヴィスの解説に、アイビーは呆然と頷いた。




