7-1
妖精王は、この国に在る妖精の中で、土地に対する影響力が特別に強い存在である。
固有の概念を持った強い妖精は他にもいるが、雷や暴風、豪雨などの災害の化身、あるいは森や湖や火山のように一つの領域の概念から生まれた妖精王は、人との関わり方が、ある種の他国の王のようなものなのだ。
「……なんで、そんな存在を捕まえたのよ……」
アイビーは自室のデスクに積んだ本を睨みながら呻いた。
『わかっているくせに』
ニヴァリスが淡々と呟いた。
……デリック・ファルメールが力をつけて、北方総督、通称魔女狩り総督となったのは、十年ほど前のことだったらしい。
故郷の森が襲われたのは、七年前だった。
その半年ほど前に、天文学者だった父が、雷が少ないと訝しんでいたことを、断片的に覚えている。父は、森での生活のための暦作りだけでなく、空からわかる様々なことを、森への影響と重ね合わせて調査していた。
「……雷が減るのは、良いことでしょう?」
当時、幼い考えでそう聞いた娘を、父は肯定も否定もせずに抱き上げた。
「どうしてそう思ったんだい?」
「だって、危ないし、森に落ちれば火災にもなるし。リリアもすごく甘えん坊になるし。それにもうすぐ弟か妹も生まれるから……赤ちゃんは、雷の音で泣いちゃうでしょ?」
妹の姿が近くにないことを確認して、父の膝に座る。父の青い目が、自分を見て微笑ましそうなことがわかった。
「偉いな、よく考えているね。そうだよ、雷は、みんな怖い。お父さんも、みんなが無事か心配になる」
そう言って頭を撫でてくれた父は、「だけどね」と少しだけ眉を寄せた。
「雷が落ちるときに、空気の中の物質もいくつか焼いてしまうんだけど……そのときにできる物質がね、植物や私たちにも必要なんだよ」
「焼けてしまうのに? 雷で何かできるの?」
雷は壊してしまうもののはずだ。よくわからなくて聞き返すと、父はどうやって子供に伝えるか迷ったようだった。
「うーん……お母さんが焼いてくれたパイは、美味しいだろう? 焼いても全てが失くなってしまうとは限らないんだよ。そこから良いものが生まれる場合もある。焼く、という工程は複雑でね……」
「……暖炉の火みたいに?」
父の膝から見える暖炉を指差してみる。もしかして、薪が燃えてしまう代わりに火が暖かい空気を作ることに似ているのでは?
父はくすくすと笑い出した。
「そうだな。そう例えれば良かったのか。お父さんはお腹が空いていたみたいだ」
「お父さんは、お母さんのパイじゃなくて、お母さんが好きなんじゃない?」
揺れている膝の上でそう教えておくと、父は一層笑って娘を抱き締めた。
「物知りだなぁ。さすがコーデリアと俺の娘だ」
その言葉に誇らしくなったあの胸の温かさは、アイビーは今でも覚えている。
『——みんなを焼くために、魔術師はケラウノスを捕まえたんだよね。森と魔女だけじゃなくて、他の地域の魔女も、たくさん』
アイビーは目を閉じて、借りている本を遠ざけながらデスクに突っ伏した。
妖精を武器に封じる研究がどう進んでいるのか知りたかったのだが、図書館に置かれているような行儀の良い本には何も書いていなかった。むしろ、妖精はある程度尊重したほうが有益なパートナーシップを結べるなどと、無自覚な上から目線の偉そうなことが書いてあっただけだった。
ケラウノスはどうなるのだろう。ロマンスから取り上げられるのだろうか。でも、強制的な部分があっても他人の契約に介入するのは難しいのではないだろうか。枷を問題視されるのだろうか。ロマンスは今後どうなるのだろうか。
……こんなことをいろいろ考えて、アイビーに何ができると言うのだろうか。
アイビーに期待されていることは、これからの学校や社会や未来を良くすることじゃない。人殺しだ。
それなのに。この学校に籍がある間は、アイビーはたぶん国に登録されていない魔女ではなく、勝手に殺したら一応は問題になる生徒と認識されているらしかった。
だけど、やっぱりたまに怖かった。自分はいつまで生きられるのだろうか。
『……寝たほうが良くない? ケラウノス、怖かったし』
ニヴァリスが、珍しく有益なアドバイスをしてきた。
「コンラッド! アイビー! 聞いて!」
朝。アイビーがコンラッドと一緒に食事をしていると、突然嬉しそうな大声で誰かと何かが近づいてきた。生徒会書記のヴィオラ・ブラックモア、そして彼女に両腕で抱えられた、大きな薄茶色の兎のぬいぐるみである。
「兎! 直った!」
ヴィオラはニコニコとぬいぐるみをアイビーとコンラッドに見せつけてきた。兎は両の前足をぴこぴこ振ってくれた。
「おはようございます。可愛いですね……」
そう言うとヴィオラはにっこりと笑って兎の耳の布を摘んだ。
「おはよう。見てこれ、起毛で手触り抜群で、つまみ洗いもできるんだよ。で、ゆくゆくは自分でお風呂に入る機能をつけようと思ってるんだよね。そのほうが内部構造が壊れる心配もないし」
「すごい……」衛生的で可愛くて賢いなんて。ちょっと欲しい。兎は耳を掴まれるの嫌だったのか、頭を振っているけれど。
「直ったって、どうなっていたんですか?」
コンラッドが口の中のものを飲み込んでから聞く。ヴィオラは兎を抱えたまま、アイビーの隣の空いている席に座った。
「なんかさ、月の光で充電できてたみたいなんだよね」
「へ? 月光充電……?」
コンラッドがぽかんとする。ヴィオラは兎のぬいぐるみをコンラッドに向けた。兎がぴこぴことコンラッドに手を振る。
「そうそれ。むしろ太陽光だと過充電になるから安全装置が作動していたみたい」
「……ヤバくないですか?」
「ヤバイよ? 魔導具の歴史を変えちゃうかも」
「ですよね……」
アイビーは錬金術師の話についていけず、おとなしく傾聴に努めた。なんとなく魔力が少なくても工夫次第で有利になれる内容のような気がするが、それがどれくらいヤバいのかまではわからない。兎のぬいぐるみはそれっぽく頷いていたけど、たぶんわかっていない、はず。
ヴィオラは兎を撫でながら立ち上がった。
「だから、本当にありがとうね! この子が月光で作動していたことに気づけたの、昨日の旧校舎の調査のおかげなんだよね。魔女の魔法陣をいろいろ調べていたら、あれ……これ……誤作動……ああぁっ、過充電! 兎! ってなってさ。アイビーがあの怪談を読んでくれてなかったら、気づかなかったかもしれない。だからもう、どうしても朝イチでお礼を言いたかったんだ。じゃあ、ご飯の邪魔して悪かったね!」
そう言って、ヴィオラは颯爽と、ぴこぴこと腕を振る兎と共に去っていった。その姿を見送ったコンラッドは困惑した表情を浮かべている。
「いや、月光のエネルギーって、太陽光の五十万分の一だぞ……」
「えっと……五十万分の一がすごいことはなんとなくわかるけど、低エネルギーの高性能な兎を造っても、コンラッドのアステルみたいに魔力を使った性能のゴーレムになるわけではないよね? それでも歴史が変わるの?」
「ああ、えっとな。まず、錬金術にも実は派閥というか流派があるんだよ。俺がやってるのはアステルみたいな高性能のゴーレムに、常に自分の魔力を注ぎ込んで維持する妖精科学。まあこれが術師社会で通用しやすい主流だよ。わかりやすく戦闘で使えるから。でもヴィオラ先輩の専門は別の科学体系なんだよ。ほとんど魔力を使わないで効率的に動かす方法を研究してる」
「あ、そういう分野があるんだ。魔女が精霊や妖精に頼んだり魔法陣を刻んだり、精霊術師が精霊に命令したり、魔術師が妖精に命令したり魔法陣を描くのは相応の魔力が必要だけど、錬金術はそうとは限らないもんね」
「うん。元々の錬金術の理念はそうなんだ。火そのものを大量に用意するのではなく、火と風や油を足して炎を起こすのでもなく、そこにある火のエネルギーを変換して一番温まる方法を考える。魔力量が普通の人でも効率的に魔力を使う術式があればできることが増える。別に戦うとかじゃなくて、日常生活が良くなれば良い。――基礎はそうなんだ。けど実際にそういう研究をしている錬金術師は、案外少ないんだよな。学習環境が整ってる奴のほうが良い学校に入りやすいし、そういう奴は大抵平均以上の魔力があるから。俺なんて目標は賢者の石だし。でもあの人は、いわゆる庶民出身で魔力もそんなに高くないのに、というかたぶん高くなかったからこそ、徹底的に錬金術の効率を求めて研究してそこらのエリート錬金術師の商品やゴーレムを蹴散らしまくって、この学校の入学時には既に生徒会に招待されるほど評価されてたんだ。ある意味オーデン先輩よりやってることがおかしいんだよ……なんだよ月光充電って……」
「……魔女の魔法陣と親和性高そう……」
アイビーがよくわからないまま呟くと、コンラッドは深く頷いた。
「そうなんだろうな……。まだ危ないから十年待ってほしいけど、それで止まれる研究者じゃないというか……で、月光充電が可能になるとすると」
「忘れてた!」
「うわっ!」
完全にいなくなっていたはずのヴィオラが戻ってきて叫んだ。コンラッドが手にしていたスプーンを落としかける。
「アイビーってさ、歓迎パーティーにエイデンと出る予定?」
「え?」アイビーは首を傾げた。「歓迎パーティー……ですか?」
「あれ、知らないのか? アイビーが好きそうなイベントなのに」
「……あ……」
コンラッドにそう言われて、アイビーはようやく思い出した。
最初の目論見ではこんなふうに友人や好きな人を作るつもりはなかったから、羨ましい行事予定表は、さっと目を通しただけで済ませたのだ。だから意図的に忘れていた。この学校では、なぜか入学式から二ヶ月後に歓迎パーティーがある。
「あの、エイデン先輩と出るって、どういうことですか?」
再び隣に座ってきたヴィオラに問う。ヴィオラは兎のぬいぐるみを膝に乗せて、片腕を掴んだ。くるりと兎が一回転する。
「ダンスパーティーなんだよ。パートナーは必須ってわけじゃないけど、生徒会とか、あとアイビーみたいに、舐められやすいとか、難癖をつけられやすい立場なら、いたほうが安全。だから昨日が暗黙の申し込み解禁日だったし、もうエイデンが誘ってるかと思ったんだけど、ごめん、まだだったか。忙しかったもんな」
「……だ、ダンスパーティー……パートナー……」アイビーは呻いた。そういうキラキラした出来事に憧れていた時代はあった。嘘だ。今もある。「で、でも、エイデン先輩に誘われるかはわかりませんし……」
結構いやかなり好かれているんじゃないかとは自覚しているが、それはそれ、これはこれの可能性だってある。うっかり期待して誘われなかったら悲しすぎる。きっと期待値は下げておいたほうがいい。むしろ地中に埋めて見えないようにしたほうがいい。
「いやー、あの様子だと……まあ外野があんまり言うのも駄目か。でも、マリアンが昨日から、アイビーは踊れるのかって気にしててさ」
「あ……踊れません」
アイビーは青ざめた。『しかもドレス持ってないよね』と耳元でニヴァリスが冷静に告げた。
しかしヴィオラはにっこりと笑いながら肩を竦めた。
「まあそうだよね。私も一年のときは無理だったし。でさ、エイデンに誘われたらマリアンがダンスを教えてくれるらしいから、頼りなよ。むしろ私も一緒に復習させてほしい。このままだとたぶん今年もシルヴェスターの足を踏む」
「ヴィオラ先輩は、今年もオーデン先輩と組むんですね」
横からコンラッドが聞く。
「うん。シルヴェスターのパートナーの座を巡って勝手に場外乱闘してた奴らとか、庶民がパーティーでファーストダンスなんてとか文句つけてきた連中が、全員顎が外れたみたいな顔して何も言ってこなくなって、意外と楽だったし。だから、別にパートナーになったからって絶対に恋人同士ってわけでもないし、気楽に構えてなよ」
ヴィオラはそう言ってから、くるりと食堂を見回した。
「あ。コンラッド、もう食べ終わった?」
「え? なんで?」
ずっと喋っていたコンラッドの皿には、まだソーセージも目玉焼きも焼きトマトも山盛り残っている。
「じゃあおかわり持ってきな。今日はデザートコーナーにトフィーパイがあるらしいし」
「えっ、朝から? ああ、じゃあ、行ってきます。アイビーも食うか?」
「大丈夫。ありがとう」
アイビーは緊張気味に首を横に振った。ヴィオラの意図に気づいた瞬間、もうそれどころではなくなっていた。遠目にエイデンの姿が見えたのだ。しかもたぶん近づいてきている。内容によっては、もうパーティーの日まで何も食べられなくなるかもしれない。
「頑張れー」と気軽に笑って、ヴィオラと兎のぬいぐるみが去っていく。




