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アイビーの寮の個室は、精霊術師の女子寮の端に割り当てられていた。
精霊術師、魔術師、錬金術師は、男子寮区画と女子寮区画に各々独自の寮を建てている。派閥の未来を担う子供たちに快適な学生生活を送らせるべく、名のある保護者たちが、競うように豪華な寮を増改築しているらしかった。
そして、かつてはあった魔女の寮は、どうやら魔女を追い出して早々に錬金術師寮の土地になったらしい。
だからアイビーは、一番人数が多く寮が大きく理事長の派閥でもある精霊術師の女子寮の隅に、部屋を貰っていた。ちなみに隣の部屋だった者は、魔女のアイビーに気づいた入学式の前日にすぐ部屋替えを申請したらしく、既に空き部屋である。
「ど、ど、どうしよう……」
そんなわけで、広くはないけれどありがたい個室のベッドに腰かけて、アイビーは頭を抱えていた。
一人になったことで、ようやく我に返ったのである。どうやら初めて大勢の同世代の人の中に居たことで、アイビーなりに緊張や高揚があったらしかった。
「暗殺相手に……恋とか……」
エイデン・フラムスティードの顔がふわりと頭の中に浮かぶ。途端にざわざわと身体中に血が巡って落ち着かない気分になって、アイビーはベッドに倒れ込んだ。
「恋……恋って……恋……うわわわわ…………」
もう呻き声しか発せない。両手で顔を覆ってひとしきり悶えてから、すっと起き上がって座り直す。
「……いや……駄目、どんな人かもよくわからないまま好きになるとかおかしい。明らかに間違ってるやつだよ……そう、これは、わからない部分を美化しているだけ、腕のない彫刻は素晴らしく見えるし、マスクをした人は美人に見えるのよ! つまり――」
アイビーは静かに結論づけた。
「たぶん美化の塊に恋してるだけなのよ私は……! ひゃぁぁ……」
もう一度ベッドに倒れ込んだ。「恋している」という言葉が、今のアイビーには刺激的すぎた。前途多難である。
「……でも……勘は当たるほうなんだよね、私」
あの人は、きっとアイビーにとって素敵な人だ。だから惹かれた。――それは果たして間違いだろうか? 本能を言い訳にする緩んだ理性は恥ずかしいものだけど、本能は言い訳をしないはずだ。
「明日からは冷静に接する……そうしてよ、アイビー。お願いだから」
ころころとベッドの上を転がりながら、自分自身に向かって懇願する。少なくともエイデンに好かれたいのであれば、あるいは暗殺対象にわざわざ警戒させたくないのであれば、舞い上がって無闇に会話して変なことを口走るなんて、きっとしないほうがいい。ただでさえ、魔女なのに。
「魅了魔法だったら……きっと、こんなに不安にはならないんだよね……」
頭の中で、家にあった古い教科書に書かれた魅了魔法の効果を思い出す。魅了された者は、魅了した者に夢中になる。だから思うままに動かせる。――そんなときに、不安なんて感じるだろうか。
「……私、好きな人ができたんだ」
目を閉じて、赤い眼を思い浮かべる。どうしていいのかわからなくなって、枕を引き寄せて顔を押し込んだ。
「……嬉しい、な」
枕の中に押し込んだ声が、くぐもったままでも耳に残った。なにせアイビーのこの先短い人生は、もう森から出てきた意味を持ったのだ。
枕から顔を上げて、壁に掛けた白いローブを眺める。
魔女の魔法は、術師たちの術とは少し異なる。魔女の扱いは、術師たちとは異なる。それでも。どんなローブでも、今は学校というものにいられる。
「……どうしよう」
胸がドキドキする。まだ、明日すぐに殺さなければならないわけじゃない。期限は、今学期中。そう約束されたはずだ。
魔女が普通に暮らすのは、無理なのだ。
だったらせめて殺人犯になるまでの数カ月くらいは……普通の子たちの真似事くらいしてもいいのではないだろうか。
「――おはよう。アイビー・エインセル。……アイビー・エインセル。私は、アイビー、エインセル」
窓辺から差し込む陽光に起こされたアイビーは、まだ慣れない部屋の天井を見て呻いた。
仕方なく起き上がると、制服の白いローブが目に入る。
「……さすがに、朝は着たくないな」
白のローブは、目立つ。悪意に晒される。自分が魔女であることは、誇りではあるけれど、負担でないとは思わない。
良い給湯器があることは把握済みなのに冷たい水で顔を洗って、ブラウスとスカートとベストを着用して、それからでもローブを羽織ろうとした手がやっぱり止まる。
アイビーは目を閉じて、昨日エイデンが呼んでくれたときの響きを思い出そうとした。――アイビー・エインセル。優しくて静かな秋の気配。そして、アイビーは彼を。殺さなければならない。
「……ごめんなさい」
じんわりと身体の中に溜まった吐き気をごまかそうと、昨晩のうちに作っておいたハーブ水を飲んで、ひとまずアイビーは、ローブより先に髪を整えようと櫛を手に取った。
結局諦めて白いローブを着用して、胸を張って食堂に向かう。混雑している場所でも、ひと一人分の間を空けられることは、アイビー個人のせいではない。だから、道を塞がれなくてちょうどいいと思っていなければやっていけない。
入学前から寮に入って既に何度か食べている食事は、とても美味しい。少なくともアイビーはそう思う。自分で調理した森の恵みも、もちろん美味しいように工夫を凝らしたりもしたけれど、美味しい食材を遠方からもたくさん集めて、選り好みして組み合わせることはできなかったのだから。
そんなことを考えながら、ビュッフェ形式の朝食を組み合わせながらトレーに乗せて楽しんでみる。多少視線が気になるのは仕方ないだろう。アイビーは、魔女なのだから。
すべての食事は、基本的に寮と学舎の間にある大食堂で食べることになっている。
昼食の時間は大混雑するのでランチボックスの配布も毎日あるらしく、昨日はそれを貰って庭で食べた。でも、朝と夜は寮に持ち帰りたいなら自分で詰めなければならない。それは少し手間だ。
もしかすると、試験勉強の時期にはみんな部屋でサンドウィッチを齧る気分にしかならなくなるのかもしれないけれど、きっと早々に人を殺して退学する身には関係ない。
でも、せっかく街の食材を使って人に作ってもらえたご飯が食べられるのだから、温かい物を美味しくいただきたい。だから人が少ない時間帯に来たほうが良い。
わざわざ隅に行ってもどうせ目立つ気がしたので、適当な場所にトレーを置いて、座った。ほんの少しだけ見回してみると、入学式の翌日であっても、一人で食べている者はすでに多くないことがわかった。とくに女子は。
友人なんていたこともなかったから別にいいと思っていたが、やっぱり、羨ましい。高望みだろうけれど。
顔を伏せて、食事を始める。
本日のスープは、細かい人参と玉ねぎが沢山入ったコンソメ味だ。これは毎食変わるらしい。――うん、美味しい。そう思ったところで、前方に誰かが来た。
「おはよう」
「……へ……?」
聞き覚えのある声に顔を上げたら、コンラッドがいた。
「あれ、意外と朝に弱いほうか? 魔女って薬草採取とかしてて、朝が得意なのかと思ってた」
不思議そうにアイビーを観察しながら、目の前のテーブルにトレーを置いたコンラッドは、あくび交じりにそう言って座った。どうやら模範的な錬金術師らしく、朝には弱いらしい。たぶん徹夜は得意だろう。
「……おはよう」
アイビーは、スープを掬おうとしていたスプーンを一瞬どうしたらいいかわからなくなって、空中に彷徨わせながら頷いた。
それからコンラッドのトレーに積み上げられた、トーストとロールパンとゆで卵と目玉焼きとベーコンとソーセージとベイクドビーンズの量――アイビーのささやかな朝食の五倍はある――に困惑して、そのまま顔を上げて、くすくすと笑った。
「……そうね。寝惚けていたみたい」
若干寝癖が気になるコンラッドの後方の机の奥を、秋色の髪を無造作に纏めた感じがお洒落な青年が通り過ぎていった。たぶん、目が合ったとき、微笑んでくれたと思う。
「どんなに憂鬱な朝でもエイデン先輩は素敵だったわ」
「そっちかよ」
自分の後ろを振り返ったコンラッドが、呆れた声で言う。
「コンラッドが来てくれたおかげで気づけたの。ありがとう」
アイビーは笑ってスープに口を付けた。もうスープの味がどんなものかなんて、わざわざ細かく意識を向けなくても美味しかったし、なんとなく楽しかった。周囲の視線は気にならない。これから成長期を頑張るらしいコンラッドの食べっぷりのほうが面白い。
アイビーの父親がそこまで大食いだった記憶はないが、あの離乳食さえ口にすることなく殺された弟も、生きていればこんなふうに感心するほどの食べ盛りを迎える日があったのだろうか。そんなふうに思いを馳せることだって、ここでコンラッドに会わなければ思いつきもしなかっただろう。
だからアイビーは、『今後魔女の自分がエイデンを殺したときに、魔女と会話していたコンラッドは無関係ですと、どうやって証明を残してあげるか』なんてことさえも、ほんの十五分ほどだけは考えないことにした。
今はコンラッドの友人でいたかった。




