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放課後訪れたアッシュフォード先生の研究室は、校舎の片隅に位置していた。座学ばかりの歴史の授業は主に一年生が中心で、二年生からの選択授業でさらに受講する者は少ないからだろう。
「――アイビー・エインセルです。アッシュフォード先生はご在室でしょうか?」
「入りなさい」
「失礼します」
すぐに声が聞こえて、アイビーはドアを開けた。十人くらいまでが快適であろう小さな部屋の奥、何も書かれていない黒板の前に、アッシュフォード先生が立っていた。
「そこに座りなさい」
そう言ってアッシュフォード先生は黒板前の席を示すと、アイビーが歩くのとは別の通路から、研究室のドアに向かった。
「誰も来ないとは思うが」などと前置きしつつ、鍵を掛ける。そうして指定された椅子に座ったアイビーを横目に、おそらく教師の個室に続くであろう奥のドアに消えた。
かと思えば、片手になにやら小さめのマグカップが二つ乗ったトレイを持って、すぐに出てくる。
アイビーのいる机の上に、そのトレイが置かれた。湯気が立つ紅茶と、さらに金紙に包まれた菓子らしき物が一つ、アイビーの前に置かれる。
「マロンショコラだ。呼び出した生徒に出すことにしている」
「……ありがとうございます」
アイビーは困惑を隠せないまま頷いた。担任教師に呼び出されて、わざわざお茶とお菓子を出されるとは思っていなかった。
「……先に、教師らしいことも聞いておくか」
アッシュフォード先生は自分の分のマグカップを持って、黒板の前に置かれていた椅子に座った。
「学校はどうだ? 楽しいか?」
アイビーは軽く唇を舐めた。
「……楽しいです。とても……」
まさか想定外だったのか、アッシュフォード先生が驚いたように目を瞬かせる。
「……そうか」
そのままマグカップを僅かに傾けたアッシュフォード先生が、飲み込みづらかったかのように息を吐く。
「コンラッド・セルビーと、そしてエイデン・フラムスティードと交友を深めているようだな」
「……はい」
アイビーは真顔で頷いた。これが本題だろうか――そう考えた瞬間、アッシュフォード先生は淡々と呟いた。
「首尾はどうだ?」
「っ……」
アイビーは反射的に身構えた。アッシュフォード先生が、ほんの僅かに目を細めた。
「不本意ながら、君の監視役を命じられている」
それは答えだった。頭の中のニヴァリスが警告のように叫ぶ。
『アイビー、言って!』
「っ、上々です。……順調に仲良くなっています」
無理やり言葉を絞り出したなんてバレないように、アイビーは軽く口角を上げた。彼が、困窮した魔女に魔術師の息子を殺せと命じたことを知って、なんとも思わない精霊術師だったとは。
「……近いうちに、彼の懐まで潜り込んでしまえるかと。そうすれば」
アイビーは、じっとアッシュフォード先生を見つめた。
「――精霊術師の望みは叶うでしょうね」
「……さすが魔女だな」
アッシュフォード先生は顔を顰めたが、平然と紅茶を飲み始めた。自分から聞いてきたくせに、皮肉だろうか。
『……生徒が暗殺されそうなのに、止めないんだね、この人』
ニヴァリスが、負け惜しみのように呻く。けれど受け入れた実行犯は自分だとわかっているアイビーは、軽く息を吐いて呟いた。
「お話は、それだけですか」
「……ああ。いや」
アッシュフォード先生がほんの少しだけ紅茶から口を離した。
「俺は君の味方ではないが、敵でもない」
マグカップの水面でも眺めているのか、アイビーのほうは見ずに目を伏せたまま、アッシュフォード先生は淡々と続けた。
「特に教師としては、君の成績は評価に値すると思っているし、君の人格は保護されるべきだと考えている」
そう言って立ち上がったアッシュフォード先生は、アイビーを見下ろして言った。
「――ファルメールとの決闘内容は、この学校の一年生として評価に値する」
「ありがとうございます」
アイビーは頷いて礼を告げた。
「他に、君から何かあるか?」
「いいえ、ありがとうございました」
「なら、ゆっくり菓子を食べてから帰るといい。俺は奥の部屋にいるから、退出時に声は掛けなくても構わない。ゴミとマグカップもそこに置いておきなさい」
「わかりました」
そう言い残して、アッシュフォード先生は去っていった。
静かになった研究室で、アイビーはため息を吐いた。ゆっくりと周囲を見回すと、傷んだこの国の地図や、古さのわりに埃と錆は少ないブラケットライトが目に入る。
とりあえず今のアッシュフォード先生が自分に危害を加えることはないだろうと判断したアイビーは、一応善意で用意されたであろう紅茶と菓子に手を付けることにした。なにしろアッシュフォード先生は、最後に未開封のマロンショコラを気にしていたようなので。
金紙を開けると、チョコレートと砂糖に負けないリキュールの香りがした。これ、生徒に渡していいのだろうか。高そうだけど。まあいいか。
一口齧ってみると、じゅわりと染み出るような砂糖とアルコールの香りをたっぷりと含んだ栗がぽろぽろと解けて、口の中で溶けたダークチョコレートと混ざった。……けっこう大人っぽい味である。
『美味しい?』
「わっ」
急に前方から声がして、真面目に味わっていたアイビーは肩を跳ねさせた。
顔を上げると、もやもやと薄霧のような白にも青にも灰色にも見えるマントを羽織った女性型の妖精が、漂うように空中に浮かんでいた。
『ネブラよ。見ての通りの霧と霞の妖精』
妖精は薄紫の瞳を細めて、にっこりと笑った。
アイビーはそっとマロンショコラを机に置いた。
「どうしてここに妖精がいるんですか? アッシュフォード先生は精霊術師なのに」
だって精霊術師は妖精という自然界の乱数を愛さない。あえて人の視界に入りたがる性格の妖精は、自分を見たがる者の近くにいることを好むはずだ。
しかしネブラはニンマリと両の口角を上げた。
『だってベネディクトは魔女の血を引いているもの』
「えっ? そうなんですか?」
アイビーは思わず声を上げた。そうして奥のドアを見た。ドアは分厚い。何も聞こえていないといいのだが。
『そうよ。可哀想に、それなのに精霊術師ぶって魔女の血と妖精を嫌うなんて、見ていて面白すぎない?』
ネブラはクスクスと白い霧色の肌を震わせる。溶けるような霞のドレスが、ひらひらと揺れる。
「……ええと、それでネブラさんは」アイビーは躊躇いながら問いかけた。「もしかして、魔女の血を引くアッシュフォード先生を見守っているんですか?」
『えー? 私が守ってると思う?』
アイビーは言葉に迷って黙り込んだ。ネブラは心底嬉しそうに笑った。
『ひとり淋しくご飯を食べているベネディクトの前に座って、ずっと眺めながらニヤニヤしてあげてるだけよ。つまり、見てるだけー』
うわぁ。嫌だ。
コンラッドが見つからないとひとり淋しく食事を食べることもあるアイビーは、頬を引きつらせた。その姿をニヤニヤされるくらいなら、ひとり淋しく食べさせてほしい。
『気に入られないうちに帰ったほうがいいよ、この妖精……』
ニヴァリスが引いた調子で呟いた。
アイビーは愛想笑いを維持したまま、たぶん高級品であろうマロンショコラを頬張って飲み込み、紅茶を一気に飲み干した。




