5-1
「……あ、あの……ほ、本日はお日柄もよく……! っ……?」
アイビーは、非常に動揺していた。
先日買った淡いピンクのワンピースを、エミリーから習った着こなし術に従って着用して、髪もできるだけ丁寧に梳かして三つ編みにしてから纏めて、そのワンピースに合わせるならとエミリーが選んでくれた薄いピンク色のカラーリップとアイシャドウも塗って、準備万端の状態で挑んだつもりだった。
けれど平常心を保つには、目の前に立っているエイデンが素敵すぎた。いや、日頃から素敵すぎるのだが、いつもの落ち着いた魅力を知っているからこそ、アイビーの平常を保つはずだった心には破壊力が高すぎた。
今日のエイデンは、いつもの黒い制服ではなく、ベージュのツイードジャケットにローズグレーのパンツを合わせて、ライトグレーのカットソーにモスグレーのベストを着こなし、極めつけに灰赤の前髪も少し上げて額を出していたのだ。
そのせいで、いつもよりも明るい印象で柔らかな雰囲気を際立たせているのにきちんとしている、というとんでもなく素敵なバランスになっていた。
「……お日柄もよく……ああ、うん。そうだね。君は雨が好き?」
しばらくアイビーを眺めながらぼうっとしていたらしいエイデンは、アイビーの視線に気づいたのか、パチパチと瞬きを繰り返してからそう言った。
ちなみに今日は雨である。今日がアイビーにとって素晴らしく良い日だからそう言っただけで、外は雨である。
「は、はいっ! エイデン先輩はお好きですか? 雨……!」
「……君が好きなら、好きになれそうかな」
エイデンは少し考える素振りを見せてから、ふわりと微笑んだ。
「基本的に、僕は火属性の魔術師だからね。得意ではなかったんだけど」
「あっ……」アイビーは両手で口元を押さえた。自分のうっかりした発言を恥じながらも、アイビーが好きなら自分も好きになれそうだと言ってくれるエイデンの優しい気遣いと微笑みの素敵さに、くらくらした。
その間にエイデンは、ふわりと空中に浮かぶ魔導傘を差した。レッドブラウンに染められたシルクの組紐の持ち手を左手で掴み、それからアイビーに右手を差し出して、傘の中に入るように促す。
その傘が大きいおかげで、アイビーの心臓はなんとか飛び出すことなく暴れるだけで済んだ。駅に向かいながら、エイデンは透明の傘越しにどこまでも灰色の重い空を見上げて、ぼんやりと呟いた。
「……でも、大雨は好きかな」
「何か、あったんですか?」首を傾げて問うと、エイデンは困ったように肩を竦めた。
「あのとき大雨が降れば良かったのに、って思うときがあっただけ」
いったいどんなときだろう。しかしアイビーがそれを聞く前に、エイデンが問いかけてくる。
「そういえば、君はいつからスノードロップの花の妖精の力を借りるようになったの?」
「ええと、五年前くらいからです」
アイビーは、少しだけ記憶を辿るように空を見上げた。アイビーが九歳で魔女狩りに遭って、半年後のことである。
「……そうか……」
エイデンは、何か考え込むような表情で頷いた。
「何かありましたか?」
「……ううん。スノードロップの花の妖精と仲良くなるのは、けっこう時間がかかりそうだと思ったから」
「……そんなこともないですよ。それよりも、エイデン先輩はいつからエリオスさんと一緒なんですか?」
「けっこう小さな頃からかな。あんまり覚えてなくて……ん?」
そう言って、エイデンは首を傾げた。その肩に、ふわりと赤い光の粒が集まって、火の鳥が現れる。そして、珍しくエイデンの耳を甘噛みした。
「……それくらいは覚えていろってさ」
「好かれているんですね。こんにちは、エリオスさん」
アイビーも挨拶してみると、エリオスはふわりと翼を動かして、アイビーの肩に飛んできた。嬉しい。
「どうやらエリオスも君を好いているらしいね」
「だとしたら、それは私がエイデン先輩のことをお慕いしているからですね」
アイビーはふにゃふにゃと頬を緩めた。それから、自分の発言もエイデンの発言もなんだか妙で危うかったような気がして、ひとまず黙ることにした。ちらりと見上げたエイデンも、顔を赤くして何も言わなくなってしまった。
豪華絢爛な劇場に着く。ホールに入ると、集まっているのは意外と大人ばかりのようだった。しかし、その中にものすごく見覚えのある者を見つけて、アイビーは思わず声を出した。
「あれ? オーデン先輩……?」
「ん? ああ、お前たちか」
アイビーたちに気づいたシルヴェスターは、ミッドナイトブルーのブレザーに小さなダイヤモンド柄のシルバーグレーのネクタイを締めて、いつもはハーフアップにしている髪を、ひとまとめに三つ編みにしていた。
足元はシンプルなグレーのパンツに黒い革靴を合わせているだけなのに、なんとなくこなれた印象がある。そして、手には薄紅色の薔薇が可愛らしくラッピングされた花束を抱えて、小さなミントグリーンの紙袋も持っていた。
「オーデン先輩も、この演劇を観に来られたんですか?」
「ああ、趣味なんだ。だが、三年生になってからは、遠征している時間が取れそうになかったから、こうして近場に来てくれると助かるな」
「そういえば、そうだった……」
エイデンが頷く。
「ああ。できれば欠かさずに観たいからな。それにしても、デートで『ブルーベルの騎士』を観に来るとは、なかなかだな」
「えっ? これ、『グラス・ナイツ』じゃないんですか?」
アイビーは慌てて聞き返した。
「いや、『グラス・ナイツ』の公演は明日からだが……まさか知らなかったのか?」
シルヴェスターの答えに、エイデンがチケットと劇場の看板を見比べた。
「……本当だ……ごめん。演目、複数あったんだ」
「ああ、実はこの劇団は、数日おきに演目と主演を入れ替えることが多いんだ」
シルヴェスターは気遣わしげにアイビーとエイデンを見比べて頷いた。
「だが、『ブルーベルの騎士』こそあまり演劇を観ない者にもぜひ観てほしい演目だぞ。あらすじ自体は演劇用に改変された少々古臭い術師的な内容だから、君たちのデートが盛り上がるものかどうかは悩ましいが……それでも舞台芸術としては本当に素晴らしい作品だ。
それに、やはりクラシック演劇を受け継ぐこの劇団のトップ俳優たちの演技は、一際洗練されたもので……ああ、勿論『グラス・ナイツ』も流行と最近のギミックを取り入れた素晴らしい舞台で、若い世代の観客を惹きつける確かな名作なのだが……俺としてはやはり『ブルーベルの騎士』を演じてこそ、俳優たちの個性が際立つのではないかと思うんだ。
つまり、主演の騎士役のセドリック・マッケンジーもブルーベルの妖精役のクラリッサ・スターリングも、長年クラシック演劇を盛り立ててきた名優であり、今回は本当に君たちもぜひ観るべき舞台だと思っている。
それに、最近ではオフィーリア・ローズという王女役の若手女優も素晴らしいんだ。彼女は劇団員の家系出身ではなく孤児の出身のため、主演ではなく主人公と敵対する悪女や我が儘な女の役ばかり回されているのだが、それでも華やかで優美で気品ある立ち振る舞いと繊細な表現が非常に素晴らしく、今後はぜひ主演の座も勝ち取ってほしいのだが、あれだけの助演女優も他におらず、本当に、悩ましいほどの才能を持っているんだ……!」
「あの、はい……」ようやくきりが良さそうだったところで、アイビーは頷いた。簡潔に話す印象だったシルヴェスターが熱弁を振るうところを初めて見て、若干怯えたくなっていた。
「シルヴェスターは、オフィーリア・ローズが推しなのか」
隣でエイデンも心得たというように頷く。
しかしシルヴェスターは、ぽかんとしてから真剣に考え込む素振りを見せた。
「推し……いや、そうだな。そうだ。彼女は本当に素晴らしい女優なんだ……。歌も演技も、むしろ立っているだけでも、なぜか光り輝いて見えて」
「じゃあその花束と紙袋も、そのオフィーリア・ローズに?」
エイデンが、シルヴェスターの手にしている物を示す。
「ああ……」シルヴェスターはピンク色の花束や小洒落た紙袋に視線を落とし、珍しく困った表情になった。
「……おかしいか? 劇場では珍しくないはずだし、断られたことはないんだが……」
「いや、いいと思う。シルヴェスターらしいと思うよ。誠実で」
いつの間にかフォローする立場が逆転していた。
「シルヴェスター先輩にそんな一面があったなんて、知りませんでした……」
「まあ、勉強しかしていないと思われていることも多いな」
シルヴェスターは苦笑して観覧席の入り口を示した。
「二人とも、劇場に慣れていないなら、そろそろ中に入ったほうがいい。ここは舞台そのものも建築史に残る見事なものだからな。それとも、そこの階段についての蘊蓄でも語ろうか」
「えっ、ぜひ!」アイビーは思わずその言葉に飛びついた。
「えっ?」驚かれた。シルヴェスターに。
「え? あれ? 駄目でしたか?」
もちろん劇場内も気になっていたが、そもそも建物全体が、アイビーが暮らしていた森や近い村では見ることのなかった、立派なものだ。階段にまで由来があるなんて凄すぎる。
「そうだな、ぜひ聞きたい。あの絵とかも気になる」
エイデンも頷いて、壁に掛かっている豪華な絵画を示した。絵の中では、珍しい黒髪の女性が、巻かれていたらしい絨毯から立ち上がるような場面が描かれている。何かの劇のワンシーンだろうか。
「あれはナイルの七世だな……花束を預けてくるから、少し待っていてくれ」
シルヴェスターは、明らかにまんざらではなさそうな顔で咳払いした。




