9 王宮の闇
重い黒檀のドアを開けた、その瞬間だった。
「――っ!?」
背中を、凄まじい力で突き飛ばされた。
足がもつれ、私は無様に部屋の床へと倒れ込む。背中の火傷が床に打ち付けられ、悲鳴すら声にならない激痛が全身を貫いた。
何が起きたのか理解できず、乱れた髪の隙間から振り返る。
そこには、ドアの前に立つシャルル王子の姿があった。
先ほどまで彼を彩っていた、あの春の陽だまりのような慈愛の笑顔は、完全に消え失せていた。怒りでも、冷酷さでもない。そこにあるのは、ガラス玉のように一切の感情を排した『完全な無表情』だった。
彼は私を見下ろしたまま、瞬き一つせず、背手で重厚なドアを閉めた。
ガチャン、と。
外の世界との繋がりを完全に断ち切る、無慈悲な施錠の音が室内に響いた。
私は立ち上がり胸を押さえた。
「で、殿下……?」
私は震える声で絞り出した。だが、王子は一言も発さない。
彼は氷のような無表情のまま、ゆっくりと、一定の歩幅で私に迫ってきた。
コツ……、コツ……。
その足音が、死神の秒針のように鼓膜を打つ。
「ひっ、あ……っ」
過呼吸になり、浅い呼吸を繰り返しながら、私は這うようにして後ずさった。
声を出そうにも、恐怖で喉が引き攣り、まともな声が出ない。そもそも、王宮の最奥の密室で叫んだところで、誰が助けに来るというのか。
ジリジリと後退を続けていた私の足が、ドン、と何かにぶつかった。
振り返ると、そこには豪奢な天蓋付きのベッドの端があった。もう、逃げ場がない。
私が壁とベッドに挟まれ、絶望のまま前を向いた時だった。
シャルル王子はゆっくりと右手を掲げた。彼の人差し指にはめられた、青い宝石の指輪が不気味な光を放つ。
「……え?」
次の瞬間、指輪から放たれた緑色の閃光が、私の身体を真っ直ぐに貫いた。
痛みはなかった。
だが――。
「あ……――」
全身の筋肉から、フッと力が抜け落ちた。
指先一本、まぶたの端すら動かせない。自分の身体が自分のものでなくなったような虚脱感。
私は糸を切られた操り人形のように、そのまま後ろのベッドへと仰向けに倒れ込んだ。
バサリ、と柔らかなシーツに身体が沈む。
意識は、恐ろしいほどに冴え渡っていた。目も見開いたままだ。しかし、声も出せず、身動き一つ取れない。
(な、なに、これ……体が、動かない……!)
混乱と恐怖が渦巻く中、私の視界に『それ』が飛び込んできた。
ベッドの真上の天井。
そこには、ベッドの全面を覆い尽くすほどの『巨大な鏡』が設置されていたのだ。
鏡の中には、見開かれた瞳に涙を溜め、手足を不自然に投げ出して硬直している『私』の姿が鮮明に映し出されていた。
意識があるのに、身体が全く動かない底なしの恐怖。そして、視線の先には、まるで剥製のように硬直した己の惨めな姿。
(嫌だ、嫌だ、嫌だ……!)
心の中で絶叫するが、鏡の中の私は口元を引き攣らせたまま、ピクリとも動かない。
コツ……、コツ……。
視界の端から、王子がベッドの脇へと歩み寄ってくるのが見えた。
彼は鏡越しに私を見下ろすと、相変わらず表情一つ変えることなく、ベッドからこぼれ落ちていた私の両膝を抱え上げ、ベッドの上へと完全に寝かせた。
そして、どこからか金属の鎖を取り出した。
ガチャリ、と冷たい鉄の感触が手首に触れる。王子の淀みない手つきによって、私の両手と両足は、ベッドの四隅に伸びた枷付きの鎖へと、あっという間に繋がれてしまった。
(……お願い、やめて……っ!)
心の中でいくら懇願しても、彼は私の恐怖など一切意に介していない。ただ、作業でもこなすかのように、淡々と拘束を完了させた。
すべての枷をかけ終わると、王子は私の顔の横に手をつき、顔を近づけてきた。
感情の読めない青い瞳が、私を覗き込む。
彼は白い手袋を外した手の甲で、私の冷え切った頬を優しく撫でた。そして、乱れた髪を丁寧に整え、まるで宝物を扱うかのような手つきで私の顔の輪郭をなぞる。
その矛盾した優しい触れ方が、逆に底知れぬ狂気を感じさせ、私の魂から精神を削り取っていった。
やがて王子は、満足したようにゆっくりと身を起こすと、ただの一言も声を発することなく、静かにドアの方へと向かい――部屋から出て行った。
ガチャリと、外から再び鍵がかけられる音がした。
残された私は、ただ鏡に映る自分をじっと見つめることしかできなかった。
頬を伝う涙だけが、私が生きていることの唯一の証明だった。
永遠にも思える時間が過ぎていった。
やがて、指先に微かな痺れが走り、徐々に身体の感覚が戻り始めた。
「あ……うぅ……っ」
掠れた声が出る。身体が動く。
私はすぐさま手足を縮め、逃げ出そうとした。しかし、ジャラリという重い金属音が部屋に響き、四肢を拘束する鎖が私の自由を完全に奪い去った。
手首と足首に食い込む冷たい鉄の輪。どれだけ暴れても、外れる気配はない。
(嫌……出して……ここから、出して……っ!)
恐怖で荒い息を吐きながら、私は初めて、自分が閉じ込められたこの部屋の全貌を見回した。
そして息を呑んだ。
王宮の奥深くにあるはずのその部屋は、異様な光景に満ちていた。
部屋の隅に置かれた、甲冑を飾るための木製のマネキン。そこには、数え切れないほどのナイフ、剣、斧といった凶器が、隙間もないほどに深々と突き刺さっていた。まるで、誰かを八つ裂きにするための『練習』でもしていたかのように。
さらに恐ろしいのは、部屋を囲む壁だった。
壁一面に、異様な数の『女性の肖像画』が飾られていたのだ。
見た目も髪の色もバラバラな女性たち。しかし、どの肖像画も一様に生気がなく、不気味なほど虚ろな目をしている。
そして、それぞれの肖像画の下には小さな棚が設けられ、花瓶に生けられた白い花が飾られていた。
それはまるで、彼女たちを悼む『墓標』のようだった。
この花瓶の数は、何を意味しているのか。あのマネキンに突き刺さった刃物は、何のために使われたのか。
次の肖像画のモデルは――私なのだろうか。
「あ、あああ……っ」
暗闇の中、私は身をよじって必死に鎖を引きちぎろうとしたが、手首が擦り切れて血が滲むだけだった。
絶望が全身を覆い尽くし、ただ声にならない嗚咽を漏らすことしかできない。
その時だった。
ガシャン!!
突然、部屋の外の廊下から、重い金属が崩れ落ちるような激しい音が響いた。
「……はっ!?」
甲冑が地面に倒れ伏すような音。
ガチャリと鍵が開き、ドアが開けられると、ズル……ズル……と、何か重い塊を引きずるような気味の悪い音が近づいてくる。
(一体……)
私は歯を食いしばり、目をきつく閉じて、迫り来る圧倒的な恐怖に必死に耐えた。
私が身をすくませていたその時、薄暗い部屋に入ってきたのは、王子ではなかった。
月明かりに照らされたそのシルエット。
重厚な鎧を身に纏い、顔を深い兜で覆い隠したその人物は、テラスでギーズ公と共にいた『女性の従者』だった。
彼女は部屋の異様な光景に一瞥もくれることなく、無言で私のベッドへと歩み寄ってきた。
彼女は腰のポーチから細い針金のようなものを取り出すと、驚くべき手際で枷の鍵穴に差し込み、次々と私の拘束を解いていった。
拘束が解け、呆然とする私に向かって、彼女は冷徹な声で短く告げた。
「ここから出るわよ」
彼女は私の腕を掴み、半ば強引にベッドから起き上がらせた。
ふらつく足で、彼女に連れられて部屋の出口へと向かう。
ドアのそばを通り抜ける時、私は足元の異変に気づいた。
「ひっ……!」
床には、王家の近衛兵の鎧を着た大男が、白目を剥いて首を不自然な方向に曲げ、倒れ伏していた。
彼女が『引きずって』部屋の中に入れたのは、この兵士だったのだ。
驚く暇もなく、廊下へと出る。
彼女が左右確認した後、腕を引かれ、廊下に出される。
そこには、さらに異常な光景が広がっていた。
薄暗い回廊の床に、同じ近衛兵の鎧を着た兵士が、さらに二人倒れていた。先ほどまでここで音のない死闘が繰り広げられていたことを物語っている。
「止まらないで」
従者の冷たい声に急かされ、私は必死に足を動かした。
倒れた兵士たちの間をすり抜け、階段を駆け下りる。
そして、王宮の側面にある通用口の重い扉を開け、外の夜風の中へと飛び出した。
街道に出た途端、私は再び足を止めてしまった。
そこにも、近衛兵の鎧を着た三人の兵士が、重なり合うように地面に倒れていたからだ。ギーズ公の従者が、事前に制圧していたのだろう。
その時、倒れていた兵士のうちの一人が「うぅ……っ」と低く呻き声を上げ、ピクリと指先を動かした。
気絶から意識を取り戻しつつあるのだ。
それを見た瞬間。
女性従者は一切の躊躇なく、流れるような動作で腰の短剣を抜いた。
刃は向けない。彼女は短剣を逆手に持ち、柄の硬い金属部分で、呻き声を上げた兵士の『兜と鎧の隙間』――無防備な首筋の急所を、容赦なく、そして的確に叩き割る勢いで強打した。
ゴッ、という鈍い音が響く。
兵士の身体はビクンと跳ね上がり、今度こそ完全に糸が切れたように動かなくなった。
その一切の感情を排した、純粋な暴力の行使。
私はその姿に、先ほどのシャルル王子と同じ『狂気』を感じ取ってしまい、背筋が凍りついた。
ブルルル……ッ!
その直後、闇を切り裂くように、装飾を排した真っ黒な一台の馬車が猛スピードで乗り付け、私たちの目の前で急停車した。
手綱を握る御者もまた、ギーズ公の紋章を隠した黒衣の男だった。
「さあ、乗れ」
女性従者が馬車の扉を開け、私に命令した。
その言葉が、私の頭の中で警鐘となって響き渡った。
(乗って、どこへ行くの……)
継母と義姉たちは、私を家畜のように虐げた。
この国で最も美しく高貴な王子は、私を狂気の部屋に監禁した。
そして今、私を助け出したこの者たちは、躊躇なく人を殺め、私をこの黒い馬車へ押し込もうとしている。
ギーズ公は本当に父の戦友なのだろうか。これもまた、私を陥れるための罠なのではないか。
極限の恐怖と裏切りを味わい尽くした私の心は、冷たく硬く、凍りついていた。
「……はい」
私は小さく頷き、従順なふりをして馬車のステップへと足をかけた。
従者が気を緩め、周囲の警戒に視線を逸らした、そのほんの一瞬の隙。
私はステップを強く蹴り上げ、馬車とは反対の方向に向かって、全力で駆け出した。
背中の激痛も、足が石のように重い痛みも、すべてを無視して、ただ暗闇の中へと姿を消すためだけに、死に物狂いで走り続けた。




