8 狂騒のワルツ
コツ、コツ、コツ。
暗闇の中から近づいてくる軽やかな足音に、私はハッと我に返った。
父の死の真相を知り、涙に暮れていた惨めな顔を見られるわけにはいかない。私は震える手で急いで仮面を顔に押し当て、立ち上がろうとした。
「……こんな所で、一人で泣いているのかい?」
柔らかく、まるで春の陽だまりのような温かい声だった。
テラスの薄明かりの中に姿を現したのは、私がこれまで見たどんな貴族よりも、豪奢で洗練された装いをした男性だった。
純白を基調とし、金糸で緻密な刺繍が施された最高級の夜会服。胸元には、一目で国宝級とわかる大粒の宝石が輝いている。
男性は私の怯えた様子を見ると、自らの顔を覆っていた華美な仮面を躊躇うことなく外し、その素顔を晒した。
「……!」
私は息を呑んだ。
月明かりに照らされたその顔を、私は知っていた。王家の公式行事の際、街の広場に飾られていた肖像画で見たことがある。
流れるような金糸の髪に、宝石のサファイアのように澄んだ青い瞳。誰もが振り返るような圧倒的な美貌と気品を備えたこの国のシャルル王子だった。
「大丈夫かい? ひどく震えているようだけど」
シャルル王子は、私のような煤と泥に塗れたみすぼらしい娘に対して、信じられないほど優しく、慈愛に満ちた笑顔を向けた。そして、白い手袋に包まれた手を、ごく自然な動作で私へと差し伸べてきた。
「あ……」
私は混乱の極みに達していた。
なぜ、この国の王子が、壁の花ですらない私のような存在に声をかけるのか。彼のような光り輝く存在に触れれば、私の薄汚れが伝染してしまうのではないか。
「だ、大丈夫、です……っ」
私は差し伸べられた手を取ることもできず、壁に手をついて自力で立ち上がった。火傷の激痛が背中を走ったが、声を出すことすら許されない気がして必死に噛み殺す。
「申し訳……ありません。その……もう失礼、いたします……」
消え入りそうな声でそう告げ、私は足を引きずるようにして、彼の脇をすり抜けようとした。
しかし、シャルル王子はすっと横に移動し、私の行く手を塞いだ。
「待って」
「……っ」
「少しだけ、僕と話をしていただけないだろうか」
彼の声には、命令ではなく、純粋な懇願の色が混じっていた。
私が戸惑いながら見上げると、シャルル王子は、これまで誰も私に向けてくれたことのないような、私を心配するような優しい眼差しで私を見つめ返した。
「どうして、そんなに酷く悲しい顔をしていたんだい? 君の仮面の奥の瞳も、今にも壊れてしまいそうで……とても見ていられなかったんだ」
その言葉に、私の胸の奥がギュッと締め付けられた。
悲しい理由。それは、あまりにも多すぎた。
継母や義姉たちに徹底的に虐げられ、尊厳まで奪われ、たった一つの温もりだった母の手紙を燃やされ、そして今夜、父が暗殺されたことを知った。
でも、それをこの美しい王子にどうして話せるだろうか。継母の「一言も喋るな」という命令の呪縛もある。何より、私の口から吐き出される地獄のような現実は、彼のような光の世界の住人には相応しくない、酷く汚らわしいものに思えた。
私はただ口籠り、俯くことしかできなかった。
「…………」
何も言えない私を見て、シャルル王子は静かに目を伏せ、悲しそうに微笑んだ。
「……そうか。とても、とても辛い事があったんだね」
「っ……」
「無理には聞かないよ。君が抱えている悲しみのすべてを、今すぐ僕が理解できるとは思わない。でも……」
王子は一歩距離を詰め、私の肩にそっと触れない程度の近さで手を添えた。
「でも、君が一人でその悲しみを抱え込む必要はないんだ。泣きたい時は泣けばいい。……君は、一人じゃない」
その優しい慰めの言葉は、ひび割れた私の心に、甘い毒のように染み渡っていった。
(私は、一人じゃない……)
そんな言葉をかけてもらったのは、母の手紙以外では初めてだった。
「良かったら、僕と一緒に踊らないかな?」
「……え?」
突然の提案に、私は顔を上げた。
「演奏が聞こえるだろう? 悲しい気持ちを、少しでも忘れられるように。僕に、君をエスコートさせてほしい」
「そんな……無理です! 私みたいな、こんなみすぼらしいドレスで……。それにダンスなんて、一度も踊ったこともありません……」
私がパニックになって後ずさると、シャルル王子は困ったように眉尻を下げた。
「嫌なら、無理にとは言わないよ。君の気持ちを尊重する。……でも、もし断る理由が、身分への遠慮や、自分の格好への恥ずかしさだけなのだとしたら」
彼は私の目を真っ直ぐに見つめ、甘く囁いた。
「お願いだ。一度だけでいい。君と踊ってみたいと願う、僕の我儘を聞いてくれないだろうか」
この国の王子に、そこまで懇願されて、断れるはずがなかった。
それに、心の奥底で、私は彼の『優しさ』に縋りたいと願ってしまっていたのだ。
私は震える手をゆっくりと持ち上げ、こくりと小さく頷いた。
「……ありがとう」
シャルル王子は花が綻ぶような笑みを浮かべ、私の手を優しく、しかし決して逃がさないような力強さで握りしめた。
私たちはテラスから、眩い光に満ちた大広間へと足を踏み入れた。
私が先ほどまでいた、軽蔑と嘲笑に満ちたあの地獄のホール。しかし、シャルル王子に手を引かれて歩く今、信じられないことが起きていた。
演奏が新しいワルツの曲調に変わった瞬間、王子は私を広間の中央へと導いた。
「大丈夫。僕がリードするから、君は何も不安がることはない。ただ、僕のステップに合わせてくれればいいんだ」
「はい……」
彼の右手は私の腰に(幸いにも火傷の傷口を避けて)添えられ、左手は私の指を優しく絡め取った。
ステップの踏み方など全くわからない私だったが、王子の言う通り、彼の動きは羽毛のように軽く、そして強引なまでに正確だった。私が戸惑って足をもつれさせそうになっても、彼が絶妙な力加減で引き上げ、見事なターンへと変えてみせる。
「上手だよ。君はとても軽いね。まるで妖精と踊っているようだ」
彼は終始、優しい言葉で私を励まし続けてくれた。
私にとって、それは『夢のような時間』だった。
煌めくシャンデリアの下、王子に腕を抱かれ、優雅な演奏に乗って回る。痛みも、悲しみも、惨めさも、今この瞬間だけはすべて忘れられそうだった。
しかし。
ふと周囲に視線を向けた時、私の背筋に冷たいものが走った。
広間にいる何百人もの貴族たち。
彼らは皆、ダンスホールの中央で踊る私たち――いや、この国の王子と、みすぼらしいボロ布を着た狂った娘の姿を見ているはずだった。
先ほどまで、私を虫ケラのように見下し、ヒソヒソと陰口を叩いていた彼らだ。
驚愕し、ざわめき、あるいは王子に対して「そのような娘からお離れください」と進言する者がいてもおかしくないはずだった。
それなのに。
広間は、不気味なほどに『無反応』だった。
貴族たちは皆、ワイングラスを片手に談笑のポーズをとったまま、あるいは無表情に壁際で佇んだまま、こちらを一瞥することもなく、完全に無視を決め込んでいた。
王子に対して遠慮しているのか、波風を立てたくないのか。陰口一つ、囁き声一つ聞こえない。まるで、私と王子だけが、音のないガラスのドームの中に隔離されてしまったかのような、極度の違和感。
彼らのその沈黙は、嘲笑されるよりもずっと気味が悪く、私の心に新たな不安の種を植え付けた。
やがて、優雅なワルツの曲が終わりを迎えた。
繋ぎの間として音楽が静まり、私は王子に合わせて深くカーテシー(お辞儀)をした。
「素晴らしいダンスだった。ありがとう」
「……こちらこそ、その……身に余る光栄でした……」
夢の時間は終わった。私は王子から手を離し、元の壁際へ戻ろうとした。
その時だった。
次の曲の演奏が始まり、談笑や食事を再開する貴族たちの中で。
ただ一点、私たちを――正確には『私』を、微動だにせず、じっと見つめている三人の人物がいた。
(……あっ)
呼吸が、止まった。
継母のオルタンス夫人と、義姉のアンジェリック、ジェヴォットだった。
彼女たちは、華やかな輪から少し離れた柱の影に並んで立ち、彫像のように静止していた。いつもなら私を見て嘲笑の笑みを浮かべるはずの彼女たちの顔には、今は何の表情もない。
ただ、氷のように冷たく、険しい眼差しで、私を射抜くように見つめ続けている。
その目には、「どうして王子と踊っているのか」という嫉妬よりも、「お前、自分が何をしたかわかっているのか」という、底知れぬ怒りと警告が宿っているようにも見えた。
背中の火傷が、ズキリと痛んだ。屋敷に帰れば、どんな恐ろしい罰が待っているか。想像しただけで足が竦む。
私は慌てて目を逸らし、逃げ出したい衝動に駆られた。
すると、シャルル王子が再び私の手首を掴んだ。
「……どうかしたかい? 顔色が悪いようだが」
「い、いえ……あの、もう、戻らなければ……」
「そうか。でも、先に君に見せたい物があるんだ」
「え……?」
私の言葉を遮るように、王子は有無を言わさぬ力で私の手を引き、歩き出した。
「僕についてきて。君にしか、見せられないものなんだ」
シャルル王子は、大勢の貴族たちがいるホールから外れ、王宮の奥へと続く長い回廊へと私を連れ出した。
「あ、あの、殿下……!」
戸惑う私の声は、彼の耳には届いていないようだった。
騒音と光に溢れたホールから一歩外に出ると、そこはまるで別世界のように静まり返っていた。王宮の奥深く、限られた王族や近衛兵しか立ち入ることの許されない私的なエリア。
重厚な絨毯が敷かれ、壁には一定間隔で蝋燭の火が揺れている。しかし、その光は薄暗く、どこまでも続く廊下は不気味なほどに静かだった。
先ほどまでの煌びやかなホールが、いかに虚空で異質な空間だったかを思い知らされる。
シャルル王子は、振り返ることもなく前を歩き続ける。
その足取りは、先ほどの優雅なダンスの時とは打って変わり、どこか焦っているような、少し不気味なほどに早かった。
私は火傷の痛む身体で、彼に引きずられるようについていくのが精一杯だった。
(どこへ……連れて行かれるの……?)
声をかける勇気が出ない。彼の手の力は、私が逃げることを絶対に許さない強さだった。
静寂な回廊に、王子の硬質な靴音と、私の乱れた呼吸音だけが響き続ける。
やがて、回廊の最奥。
重厚な黒檀で造られた、一際大きな両開きのドアの前で、王子は突然立ち止まった。
「……ここだ」
彼は私の手を離し、ゆっくりと振り返った。
その顔には、先ほどまでの慈愛に満ちた笑顔があった。しかし、薄暗い蝋燭の光に照らされたその笑顔は、仮面を取っているはずなのに、なぜか貼り付けた仮面のように無機質に見えた。
「この部屋の中に、我が国の『宝』があるんだ」
王子は、低い声で囁いた。
「君にだけ、特別に見せてあげる」
「国の……宝……?」
「ああ。モルヴァン伯の娘である君なら、きっとその価値がわかるはずだ」
父の名前が出たことに、私はビクッと肩を震わせた。
王子は一歩下がり、ドアの取っ手を示すように手を差し向けた。
「さあ。君の手で、開けてみてごらん」
促すその声は甘く、しかし絶対に逆らうことの許されない命令の響きを含んでいた。
私は戸惑いながら、ドアノブへと震える手を伸ばした。
継母たちの恐ろしい視線、不気味なほど沈黙していた貴族たち、そして、急に私を奥へと案内した王子。
すべての違和感が、警鐘となって頭の中で鳴り響いていた。
それでも私は冷たい金属の取っ手に触れる。
息を呑み、私はゆっくりと、その重いドアを押し開けた。




