7 残酷な真実
煌びやかな大広間は、私にとって針の筵以外の何物でもなかった。
周囲の貴族たちから向けられる、汚物を眺めるような侮蔑の視線。ヒソヒソと囁かれる心無い嘲笑。それに加えて、飢餓状態の胃に無理やり詰め込んだ食事と、背中を焼かれた火傷の熱が、私の意識を容赦無く刈り取ろうとしていた。
(駄目……起きていなきゃ……)
心の中で何度も唱えるが、座ったまま何度も舟を漕いでしまう。
「一言も喋らず、大広間の隅に座っていなさい」という継母・オルタンス夫人の恐ろしい言いつけを破れば、屋敷に戻った後にどんな凄惨な罰が待っているか想像もつかない。
しかし、このままここで醜態をさらし続ければ、今度は『恥をかかせた』という理由で罰せられかねなかった。
(少しだけ……外の空気を吸って、目を覚まさないと……)
朦朧とする意識の中、私はフラフラと立ち上がった。
誰も私など見ていない、いや、視界に入れないようにしている広間の壁伝いを歩き、喧騒から逃れるようにして、重厚なガラス扉の向こう側――夜のテラスへと足を踏み出した。
扉が閉まると、広間の狂騒が嘘のように遠ざかった。
夜風が火照った身体を冷まし、甘ったるい香水の匂いから解放された空気が、酷く心地よかった。
広大なテラスには誰の姿もなく、静寂だけが支配している。
美しく手入れされた薔薇の鉢植えや、白大理石の彫刻が並ぶその場所は、本来なら私のような存在が足を踏み入れていい場所ではない。しかし、今の私にとってこの暗く静かな空間は、屋敷の薄暗い厩舎や、私に与えられた地下室のように、誰の悪意にも触れずに済む『安心できる場所』のように感じられた。
ゆっくりと歩みを進め、テラスの端にある精巧な造りの手すりへと近づく。
ふと夜空を見上げると、そこには見事な『二つの満月』が浮かんでいた。一つは青白く凍えるような銀色の月。もう一つは、淡い柘榴石のように赤みを帯びた小さな月だ。
二つの月は、地上のどんな権力者にも等しく、無機質で冷たい光を降り注いでいる。その美しさに目を奪われているうちに、私の心の中に、ふと奇妙な衝動が湧き上がった。
(下は……どうなっているのだろう)
手すりに両手を置き、私はゆっくりと眼下を覗き込んだ。
「……っ」
思ったよりも、ずっと高さがあった。王宮を囲む深い堀の水面が、月明かりを反射して黒々と光っている。
もし、ここから落ちたら。
私の背中を押す義姉たちも、私を虐げる継母もいない。ただ重力に身を任せれば、一瞬の恐怖の後に、すべての痛みから解放されるのではないか。
永遠に目覚めない眠りにつけば、天国で、あるいはもっと暗い深淵の底で、顔も知らない母に会えるかもしれない。
魅入られたように、私はさらに身を乗り出した。重心が傾き、つま先が浮き上がりそうになった、その時だった。
「――落ちたら、痛いぞ」
不意に、背後の暗闇から低く落ち着いた声が響いた。
誰もいないと思っていたはずの空間から掛けられた言葉に、私は心臓が飛び跳ねるほど驚き、慌てて両足を大理石の床に下ろした。
ビクッと肩を震わせ、手すりから弾かれたように後ずさる。
「あ……」
薄暗い闇に目が慣れてくると、テラスの奥、柱の影に一人の男性が佇んでいるのが見えた。
身の丈ほどもある漆黒のマントを羽織り、月の光を吸い込むような上質な仕立ての夜会服を着こなしている。そして何より目を引いたのは、彼の顔の半分を覆う、無骨で装飾の一切ない黒い仮面だった。
隙のない立ち姿からは、彼がただの貴族ではなく、武に長けた恐ろしい実力者であることが素人目にもわかった。
(見られた……)
不審者として、衛兵に突き出されるかもしれない。
私は恐怖で喉を鳴らし、視線を逸らしてさらに数歩、ジリジリと後ずさった。
男性は微動だにせず、ただ鋭い眼光で私を見据えていた。やがて、私の顔を覆う古びた仮面に視線を止めると、低い声で呟いた。
「……モルヴァン家の、仮面だな」
その名前が出た瞬間、私の呼吸が止まった。その言い方にどこか、姉達から浴びせられる時のような、何か、意図がこもっている気がしたからだ。
私が戸惑い、逃げ出そうと足に力を入れた、その直後だった。
「動くな」
背後から、氷のように冷たい女性の声がした。
「えっ――!?」
振り返る間もなく、私の両腕が背後に捻り上げられ、強固な力で羽交い締めにされた。
「あぁっ!?」
鋼のような硬い腕。背後から私を取り押さえたのは、音もなく忍び寄っていた全身鎧の人物だった。
抵抗する間などなかった。羽交い締めにされた状態のまま、その人物の手が私のドレスの上から、全身を容赦無く探り始めた。
腰、胸元、太もも、そして背中。
「痛っ……!! ああっ……!!」
無遠慮に身体を弄られる恐怖もさることながら、背中に触れられた瞬間、焼かれたばかりの火傷の傷口が激しく擦れ、私は目の前が真っ白になるほどの激痛に悲鳴を上げた。
しかし、その人物は私の苦痛など一切意に介さず、完璧な手際で全身の検査を終えると、最後に私の顔から力任せに『仮面』を奪い取った。
「――っ」
拘束が解かれ、突き飛ばされるように解放される。
私は床に倒れ込みそうになりながらも、怯えきった獣のように手すりの方へと後ずさった。
剥き出しにされた素顔。煤と泥を落としただけの、青白く痩せこけた惨めな顔を冷たい夜風が撫でる。背中の激痛と恐怖で、全身の震えが止まらなかった。
「武器は所持していません。魔力具の類もなし」
鎧兜に身を包んだ者が、抑揚のない冷徹な女性の声でそう告げた。彼女は、奪い取った私の仮面を、柱の影に立つ男性へと恭しく手渡した。
貴族の男性は、受け取った仮面を月明かりに翳し、軽く観察するように裏表を眺めた。
そして、ゆっくりと私の方へ歩み寄ってくる。
コツ、コツ、と革靴が石畳を叩く音が、処刑人の足音のように聞こえた。
私は両腕で自分を抱きしめ、ガタガタと震えながら彼を見上げた。
男性は私の数歩手前で立ち止まると、隠された仮面の奥から、射抜くような視線を私に突き刺した。
「……モルヴァン伯の息女だな?」
心臓が、早鐘を打つ。
継母の「一言も喋るな」という命令が脳裏をよぎった。しかし、目の前の男性が放つ、抗いがたい圧倒的な威圧感と覇気に呑まれ、私は逆らうことなどできなかった。
「……はい」
恐怖で掠れた、消え入りそうな声で短く答える。
その声を聞いた男性は、ふっと威圧感を緩めた。
彼はゆっくりと手を伸ばし、奪い取った仮面を私の前に差し出した。
「すまなかったな」
「……え?」
「モルヴァン伯の事があった直後だ。過剰に警戒していた」
私は震える手で、彼から仮面を受け取った。謝罪の言葉に、私はひどく困惑した。私のような、みすぼらしく薄汚れた娘に対して、これほどの身分の者が謝罪するなど、あり得ないことだったからだ。
男性は、怯えきって何も言えない私を見下ろし、静かに言葉を続けた。
「父上のことは……残念だった。心から哀悼の意を表する」
喪に服す、丁寧で重みのある声。
父の死を嘲笑った義姉たちとは違う、本物の哀悼の響きだった。
私が動揺のあまり言葉を失っていると、男性は夜空の二つの月を見上げながら、ポツリと話し始めた。
「私は……君の父、モルヴァン伯とは、軍議で意見の相違が絶えなかったが……互いに背中を預け合った戦友だった」
戦友。
その言葉に、私の胸の奥で、長年押し殺していた『父への想い』が微かに波打った。
私を放置し、戦地へ赴いた父。恨んでいたはずなのに、本当は助けに来てほしかった父。
その父が、最後にどんな思いで死んでいったのか。戦地で、立派に戦って散ったのか。
「一言も喋るな」という命令の恐怖よりも、血の繋がった娘としての渇望が勝った。
私は意を決し、震える唇を必死に動かした。
「お、教えて……ください……っ」
「ん?」
「父は……御父様は……最後、どのようにして、亡くなったのでしょうか……。名誉の戦死だと、伝え聞いていますが……」
恐る恐る尋ねる私を、ギーズ公は深く静かな瞳で見つめ返した。
彼はしばらくの沈黙の後、小さく息を吐いた。
「……表向きには、敵国との戦いの最中、名誉の戦死とされている。だが、君は血を分けた娘だ。真実を知る権利がある」
ギーズ公の放った言葉は、冷たい夜風よりも鋭く私の胸を刺した。
「モルヴァン伯は、戦場で死んだのではない。……自陣の砦の、自室で命を落としたのだ」
「……え?」
「それも、何者かに毒を盛られてな。……彼は、暗殺されたのだ」
ドクン、と。
心臓が嫌な音を立てて跳ね上がり、視界がグラリと揺れた。
「暗殺……?」
「ああ。敵国の間者の仕業か、あるいは……自陣に裏切り者がいたのか。いずれにせよ、武人としてあまりにも無念な最期だった」
言葉に詰まり、私は息をするのさえ忘れた。
戦場での名誉の戦死。貴族たちの間で共有された『美しい嘘』に過ぎなかったのだ。
不思議なことに、暗殺されたという事実そのものに対しては、驚きは少なかった。これまでの狂った日常の中で、義姉たちに水桶に沈められ、火かき棒で焼かれなどされてきた私にとって、この国がいかに残酷で、人間の悪意に満ちているかは、痛いほど理解していたからだ。裏切りや毒殺など、あり得ることだと、心のどこかで納得している自分がいた。
しかし。
父の無念を思うと、胸が張り裂けそうなほどの苦しみが込み上げてきた。
私をこの地獄に残したまま、砦の暗い部屋で、信じていた者(あるいは油断していた相手)に毒を盛られ、苦しみながら孤独に死んでいった父。
父は死の淵で、何を思ったのだろうか。私のことを、一瞬でも思い出してくれたのだろうか。
戦士としての誇りすら奪われ、謀略の影で殺された父の無念を思うと、行き場のない怒りと悲しみが、とめどなく涙となって溢れ出した。
その時、ずっと静かに控えていた女性従者が、冷徹な声で間に割って入った。
「ギーズ公。……そろそろ、向かわねばならない時間です」
「……ああ、そうだな」
ギーズ公は短く応じると、再びマントを翻した。
「このような形で真実を伝えたこと、許してくれ。……強く生きろ、モルヴァン伯の娘よ」
それだけを残し、ギーズ公と従者は足早に去っていった。
残された私は、重い仮面を握りしめたまま、支えを失ったようにテラスの壁にもたれかかった。
ズルズルと冷たい床に座り込み、両膝を抱え込んで深く俯く。
「御父様……っ」
なぜ、こんなことが起きるのだろう。
なぜ、力を持つ者は平気で他者を踏みにじり、命を奪うことができるのだろうか。
継母も、義姉たちも、そして父を暗殺した者たちも。
世界は、人間は、どうしてここまで残酷になれるのか。私には理解できなかった。理解したくもなかった。
華やかな音楽や話し声が、窓や壁の向こう側から絶え間なく響いてくる。
光に満ちた舞踏会と、闇に沈むテラス。
この狂った世界で、私はたった一人、誰にも見られることなく声を殺して泣き続けた。
どれくらいそうして塞ぎ込んでいただろうか。
涙も枯れ果て、ただ冷たい石の床で身を丸めていた私の耳に、ふと『足音』が聞こえた。
コツ……コツ……。
先ほどのギーズ公の重厚な足音とは違う。
もっと軽やかで、それでいて迷いのない、私の方へ真っ直ぐに向かってくる足音。
「……え?」
涙に濡れた顔を上げ、私は再び仮面を顔に着けた。
誰かがこちらへ歩いてくる。
絶望の底に沈む私に近づいてくるその足音は、新たな恐怖の始まりなのか、それとも――。




