10 燃え落ちる檻
ザッ、ザッ、ザッ……!
冷たい土を蹴り、枯れ枝を踏み折る自分の足音だけが、深夜の森に乱暴に響き渡っていた。
肺が焼けつくように痛い。吸い込む夜気は氷のように冷たく、吐き出す息は熱い塊となって喉を引っ掻いた。背中の火傷の激痛はとうに感覚を麻痺させ、今はただ、本能のままに足を動かし続けている。
(追ってくる……! あの従者が私を捕まえに……!)
恐怖に急き立てられ、私は走りながら何度も何度も背後を振り返った。
暗い森の木々の隙間から、あの冷酷な女性従者が短剣を片手に追いかけてくる幻覚が見えた気がして、ヒッと引き攣った声が漏れる。
しかし――。
何度振り返っても、私を追ってくる足音は聞こえなかった。
立ち止まり、荒い息を整えながら木陰に身を潜めて王宮の方角を凝視する。すると、ギーズ公の紋章を隠したあの黒い馬車は、私を追うどころか、私が逃げる方向とは全く反対の方角へと向きを変え、凄まじい速度で走り去っていくところだった。
呆気にとられた。
最初から私などどうでもよかったのだろうか。
理由はわからない。だが、追手がいないという事実は、凍りついていた私の思考をわずかに溶かし、一つの明確な『目的』を浮かび上がらせた。
(逃げなきゃ……。この国から、遠くへ)
狂気と殺意に満ちたシャルル王子。残虐な従者を従えるギーズ公。そして、私を人間扱いしない継母と義姉たち。
この場所に留まれば、私は確実に殺される。いや、殺されるよりも恐ろしい目に遭わされる。
逃げるためには『馬』が必要だった。王都の馬屋で馬を借りる金などない私にとって、馬を手に入れられる場所は、自分が飼い殺しにされていたあの屋敷の『厩舎』しかなかった。
私はその場にしゃがみ込み、泥だらけになった長いドレスの裾を両方のふくらはぎのあたりで硬く結びつけ、足さばきを良くする。もはや貴族の令嬢としての体裁など、どうでもよかった。泥と血と煤に塗れた私は、ただ生き延びることだけを渇望する一匹の獣だった。
結び目をしっかりと締め直すと、私は再び立ち上がり、モルヴァン家の屋敷を目指して走り出した。
夜が更けてきているとはいえ、王都の主要な街道にはまだ明かりが灯り、夜会帰りの貴族の馬車や、酔いどれの傭兵、娼婦たちがちらほらと歩いていた。
その中をドレスの裾をまくり上げ、駆け抜ける私の姿は、異様そのものだった。
すれ違う人々が皆、ハッと息を呑んで立ち止まり、奇異な目で私を見つめる。
「なんだ、あの女……」
「亡霊か? 狂人か……?」
ヒソヒソと囁かれる声が耳に届いたが、私は一切意に介さなかった。彼らの視線など、あの密室で鏡越しに見た硬直した自分の姿や、王子が向けた感情のない眼差しに比べれば、そよ風のようなものだった。
息つく暇もなく、私はただひたすらに走り続けた。
どれくらい走っただろうか。心臓が破裂しそうになり、足の感覚が完全に消失した頃、ようやく見慣れた高い鉄柵が見えてきた。モルヴァン家の屋敷だ。
(着いた……っ。あとは、馬を……)
私は鉄柵の陰に身を隠し、呼吸を殺して正門の様子を窺った。
夜であっても、当然屋敷には厳格な継母の言いつけで、必ず二人の屈強な門兵が立っているはずだった。彼らに見つかれば、地下室に引きずり連れて行かれてしまう。
しかし。
(……いない?)
目を疑った。いつもなら松明の火が焚かれ、槍を持った門兵が立っているはずの正門には、誰の姿もなかった。
松明すら灯されておらず、屋敷全体が不気味なほどの暗闇と静寂に包まれている。
嫌な予感が胸をよぎる。私が王宮のあの部屋に監禁され、気を失っていた間に、どれほどの時間が経過したのか、正確には理解していなかった。夜会の最中だったのか、それともすでに夜明けが近いのかすらわからない。
だが、そんな些細な疑問は、この異常な静けさの前ではどうでもよかった。
むしろ好都合だ。私は周囲を警戒しながら、門の鉄柵の隙間をすり抜け、こっそりと屋敷の敷地内へと足を踏み入れた。
広大な前庭は、墓場のように静まり返っていた。
夜風が庭木の葉を揺らす音すら、酷く大きく聞こえる。
困惑と、得体の知れない恐怖。私は目の前が真っ白になりそうなほどの緊張を必死に堪え、とにかく前へ、馬のいる厩舎へと向かって歩みを進めた。
だが――。
敷地を半分ほど進み、月明かりが庭の中央を照らし出した時、私の予想を完全に裏切る光景が暗闇の中から浮かび上がった。
喉の奥で、カヒッ、と引き攣った音が鳴った。
屋敷の玄関先に停められていたのは、見覚えのあるモルヴァン家の豪奢な馬車だった。義姉たちが、夜会へ向かうために乗っていったものだ。
その馬車のそばの石畳の上に、何かが大きな影を作って倒れていた。
近づくにつれ、鼻をつく強烈な『鉄の匂い』が漂ってくる。
それは、いなくなったはずの屋敷の守衛の一人だった。彼はうつ伏せに倒れ、その背中からどす黒い血の海が広がり、石畳の隙間を伝って私の足元まで伸びてきていた。
「嘘……」
全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
私は恐怖で足がすくみながらも、まるで何かに操られるように、開け放たれたままになっている馬車の扉へと近づいていった。
ギシ……、と風で扉が揺れる。
恐る恐る、馬車の中を覗き込んだ瞬間。
「――っっ!!!!」
声にならない絶叫が、私の喉を切り裂いた。
馬車の中は、一面の血の海だった。
豪奢なベルベットの座席、天井、窓ガラス。ありとあらゆる場所が、飛び散った赤い飛沫で汚らわしく染め上げられている。
そして、その座席の奥に。
アンジェリックが、信じられない姿で座っていた。
彼女は、美しい金糸のドレスをどす黒く染め上げられ、腹部を何度も何度も刃物で深く抉られていた。腹からは腸がこぼれ落ち、ひどい異臭を放っている。
さらに、彼女の細い首は半分以上切断されており、頭部が奇妙な角度で傾いていた。
だが、最も私の精神を破壊したのは、彼女の『顔』だった。
死の恐怖に見開かれた彼女の片目には、柄の装飾が美しい短剣が、深々と、脳天まで貫くような勢いで突き刺さったままになっていたのだ。
残されたもう片方の瞳が、虚空を、いや、扉の前に立つ私を恨めしそうに睨みつけているように見えた。
「ああ……あああ……っ!」
私は極度の恐怖と衝撃で完全に腰を抜かし、石畳の上に尻餅をついた。
血だまりに尻が浸かるのも構わず、私は両手で顔を覆い、声にならない悲鳴を上げ続けた。ガチガチと歯の根が合わず、全身が痙攣したように震える。
私を火かき棒で痛めつけ、嘲笑っていたアンジェリック。彼女への恨みは確かにあった。死んでしまえと思ったことも一度や二度ではない。
だが、こんな……こんな凄惨な死を望んでいたわけではなかった。
「ひっ……ひぃ……っ」
私は立ち上がることもできず、腰が抜けたまま、四つん這いになって這うように馬車から遠ざかった。
向かう先は、厩舎。あそこに馬がいる。ここから逃げなければ。逃げなければ、私まで惨殺されてしまう。
狂いそうなほどの恐怖に急き立てられ、私は血に塗れた石畳を這い進んだ。
這い進む私の進行方向、庭の暗がりに、いくつもの『球体』のようなものがゴロゴロと転がっているのが見えた。
初めは、庭師が放置した石の彫刻か何かだと思った。
しかし、月明かりが雲間から差し込み、その正体を照らし出した瞬間、私の胃袋が限界を超えて跳ね上がった。
「あ、ああ、あ、あ……」
それは、人間の『頭部』だった。
周囲には、首から上がない複数の遺体が、まるでゴミのように無造作に打ち捨てられている。
転がっている生首の顔は、どれも見覚えのある者たちだった。私に腐った食事を運んできた料理人、私に足蹴をした庭師。
そして、私の目の前に転がっていた一つの生首。
それは、継母の腰巾着として私を最も執拗に虐めていたメイド、アルタの頭部だった。
アルタの目は限界まで見開かれ、口は苦痛と恐怖の叫びを上げる形に大きく歪んだまま、完全に硬直している。その首の断面からは、まだ新しい血がポタポタと滴り落ちていた。
「ゲボォッ……!!」
限界だった。私はその場に這いつくばったまま、胃の中のものを全て吐き出した。
吐くものなど、殆どなかったはずなのに、黄色い胃液が何度も何度も込み上げてくる。鼻腔に詰まる血の匂いと、自分の吐瀉物の酸っぱい匂いが混ざり合い、意識が遠のきそうになる。
(こんなの、狂ってる……)
苦しみながら吐き気を飲み込み、私はそれでも這うのをやめなかった。
手が血と泥に塗れ、爪が剥がれそうでも、私は厩舎へと這い向かった。
ようやく、厩舎の大きな木製の扉の前に辿り着いた。
扉は、不自然に半開きになっていた。
私は震える手で扉にすがりつき、身体を引きずるようにして中へと入った。
「……っ」
厩舎に入った瞬間、地面をついた両手に『生温かい液体』の感触が走った。
水ではない。粘り気のある、鉄の匂いのする液体。
薄暗い厩舎の中で目を凝らすと、そこは庭や馬車の中よりもさらに酷い、文字通りの『血の池』と化していた。
左側の壁を見ると、守衛の一人が、腹を太い馬用の槍で刺し貫かれ、そのまま壁に深々と打ち付けられて死んでいた。彼の口からは血の泡が吹き出しており、虚ろな目が地面を見つめている。
もはや、何も考えられなかった。
キャパシティを完全に超えた恐怖と情報が、私の脳から一切の思考を奪い去った。頭の中が真っ白になり、ただ「前へ進む」という本能だけが私を動かしていた。
自分が何者で、なぜここにいて、これから何をしようとしているのかすら、輪郭がぼやけていく。
そんな自我の崩壊寸前の私に追い打ちをかけるように。
馬が繋がれている奥の柵の前に、一つの遺体が仰向けで横たわっていた。
「……ジェ……ヴォット……?」
無意識のうちに、その名前が口からこぼれた。
もう一人の義姉、ジェヴォットだった。
彼女は、夜会のために着飾った美しいドレスを着たまま、仰向けに倒れていた。
だが、その死に様は、アンジェリックとは全く異なっていた。
彼女の遺体には、外傷らしきものは見当たらない。しかし、彼女のドレスは頭の先からつま先まで『びしょ濡れ』になっていた。
青白く変色し、水死体のように膨張した肌。両手を天に伸ばすようにして硬直したその体勢。そして、何か恐ろしいものを見るように極限まで見開かれた両目。
彼女の周囲には大量の水が飛び散り、厩舎の土間をぐちゃぐちゃの泥に変えていた。
それを見た瞬間、水桶の中に何度も何度も顔を沈められた記憶がフラッシュバックした。
息ができず、肺に水が入り込み、死の恐怖に溺れかけたあの記憶。
彼女は今、まさに『それ』と同じ苦しみを味わって死んだように見えた。アンジェリックが刺し殺され、ジェヴォットが水に溺れて死んだ。
もう、何もかもが狂っていた。この屋敷も、この国も、世界そのものが、巨大な悪夢に過ぎないようだった。
私は頭の中が真っ白にされたまま、ジェヴォットの遺体を跨ぎ、奥の柵で怯えて嘶いている一頭の馬へと近づいた。
震える手で柵を開け、血に滑りながらも、私は必死の思いで馬の背に跨った。
手綱を握りしめ、馬の腹を思い切り蹴り飛ばす。
馬が高いいななきを上げ、馬は血塗られた厩舎を飛び出し、死体の転がる庭を駆け抜けた。
屋敷の正門を突破し、街道へと飛び出した直後だった。
背後から、ボォン!! という爆発のような音が響いた。
振り返ると、静寂に包まれていたモルヴァン家の屋敷のあちこちから、赤い火の手が上がり始めていた。
炎はあっという間に燃え広がり、屋敷全体を、死体たちを、全ての狂気を焼き尽くすように空高く立ち上っていく。
私はその炎を背に受けながら、ひたすらに震える手で手綱を強く握りしめた。
この狂った国から、誰の血の匂いもしない遠い場所へ。
私はただ前だけを見据え、漆黒の夜の闇を切り裂くように、馬を走らせ続けた。




