5 仮面舞踏会
馬車の扉が閉ざされた瞬間、私はこれまでの人生で殆ど味わったことのない感覚に包まれた。
身体を預けた座席は、私が普段寝起きしている藁や固い石の床とは比べ物にならないほど、ふんわりと柔らかかった。最高級のベルベットで覆われたクッションが、私の痩せ細った身体を優しく包み込む。
しかし、その柔らかささえも、今の私にとっては苦痛の種だった。深く腰掛ければ、アンジェリックに火かき棒で焼かれた背中や肩の火傷の傷口が布地に擦れ、鋭い痛みが走るのだ。
「……っ」
声を殺し、私は浅く座り直した。必死に心を殺し、置物のように沈黙を守る。それが、同乗している継母・オルタンス夫人から下された絶対の命令だった。
馬車内は、息が詰まるほど重苦しい空気に支配されていた。
対面に座るオルタンス夫人は、みすぼらしいドレスを着て火傷の痛みに耐える私を、全く気にする様子もなかった。彼女の視界に、私は存在していないも同然だった。
夫人は優雅な仕草で、馬車の壁面に備え付けられた豪奢な小さな本棚へと手を伸ばした。並んでいるのは、美しい革装丁の書物たちだ。私の読めない文字が背表紙に刻まれている。
『君主論』、『変身物語』、『寓話』、『マクシム(格言集)』、『クレーヴの奥方』──それらは恐らく、貴族の嗜みとされる高名な古典や思想書のようだった。
夫人はその中から『品性論(当世風気質)』を手に取ると、静かに表紙を開き、慣れた様子で文字の海へと視線を落とした。
上質な紙のページを捲る音だけが、密室の空間に響く。
この馬車は、まるで作りが根本から違っていた。車輪のガタつきや大きな揺れなど殆ど感じないほど、恐ろしいまでに滑らかに夜の街を進んでいく。馬の蹄の音すら遠く聞こえ、馬車内は不気味なほどの静寂に包まれていた。
私にとって唯一大きく聞こえるのは、夫人の規則正しいページを捲る音と、自身の浅い呼吸の音だけだった。
私は、所在ない視線を窓の外へと向けた。
ガラス越しに流れていく夜の景色は、物心ついてから屋敷の敷地外へ出たことのない私にとって、すべてが新鮮だった。街灯の暖かな光、石畳を照らす月の影、行き交う人々の残像。それらは、私の中で凍りついていた感情を微かに溶かし、どこか高揚感すら覚えさせるような光景だった。
しかし、その淡い高揚感も束の間。これから向かう「仮面舞踏会」という未知の恐ろしい場所への不安が、黒いインクのように心に滲み出していく。
その時だった。
窓の外、暗闇の奥深くから、ふいに『何者か』がこちらをじっと見つめているような、奇妙で不穏な感覚に囚われた。
「え……?」
ぞくり、と背筋が凍る。単なる通行人の視線ではない。もっと鋭く、獲物を探るような、あるいは……深く私を見透かすような、名状しがたい気配だった。
私は慌てて視線を窓から外し、正面のオルタンス夫人を盗み見た。
しかし、彼女は先ほどと全く変わらない無表情のまま、静かに本を読み進めているだけだった。私が見ている幻覚なのだろうか。
恐る恐るもう一度窓の外に目を向けると、先ほどの不穏な視線の感覚はすでに幻のように消え去っていた。気のせいだったのだと自分に言い聞かせても、一度波立った心には、再び重い不安がまとわりついて離れなかった。
やがて、遠くの暗闇を切り裂くように、圧倒的な光の塊が姿を現した。
王宮だった。
天を突くような尖塔、幾千の蝋燭が燃える窓の灯り、そして広大な敷地を取り囲む白亜の城壁。絵本の中でさえ見たことのないような壮麗な景色を前にして、私は感動するどころか、身の程知らずの場所へ引き摺り出される恐怖で、呼吸が浅くなっていった。
「はっ……ひゅっ……」
極度の緊張と不安から過呼吸気味になり、胸を掻き毟りたくなるほどの息苦しさに襲われる。
しかし、オルタンス夫人は私の異常など一切意に介さなかった。
コンコン、と馬車の小窓が控えめに叩かれ、開いた隙間から御者の声が響く。
『奥様。間もなく、王宮へ到着いたします』
その声と共に馬車がゆっくり速度を落としていき、少しして停止すると、オルタンス夫人は静かに本を閉じ、本棚へ戻した。そして、私を一瞥すらせずに扉を開け、先へさっさと降りていってしまった。
取り残された私は、過呼吸の苦しさと、奇妙な『眠気』に襲われていた。
先ほど屋敷で食事を急に詰め込んだせいだろうか。視界がぼんやりと霞み始めている。火傷の痛みすら、分厚い布越しに感じるような鈍さだ。
「降り……なきゃ……」
頭ではわかっていても、不安と眠気で身体が鉛のように重く、馬車を降りるのを躊躇ってしまった。
『到着いたしました』
ふいに、扉の外から声がした。
ビクッとして顔を上げると、そこに控えていた王宮の近衛兵が、馬車の中を覗き込むようにして、驚くほど優しい声で私に告げていた。
「あ……」
その真っ直ぐで礼儀正しい態度に、私はハッと意識を鮮明に引き戻された。屋敷の人間以外から、こんなにも『人間扱い』されたのはいつ以来だろうか。
私は慌てて立ち上がった。近衛兵が、馬車を降りるための手助けとして、白い手袋に包まれた手を自然な動作で差し出してくる。
私は躊躇いながらも、火傷に響かないようゆっくりとその手を取り、馬車から石畳へと降り立った。
「っ……」
見上げた王宮の入り口は、殆ど記憶にないほどの豪奢さで、思わず息を呑んだ。
彫刻が施された巨大な大理石の柱、入り口から続く果てしなく長い深紅のカーペット。見上げる星空さえも霞むほどの、眩いばかりのシャンデリアの光。
私が呆然としている間に、背後で私の乗ってきた馬車が去り、すぐに別の貴族の豪華な馬車が到着して止まった。
邪魔にならないように……私は這うような心境で、王宮へと続く階段の端を歩き始めた。
両脇に等間隔で控えている近衛兵たちは、私の時代遅れでみすぼらしいドレス姿を見ても、表情一つ変えず、瞬きすらしないかのような整然とした姿勢で前を見据えている。彼らのその態度は、私にとって唯一の救いだった。
しかし、赤いカーペットが敷かれた道や階段を歩く『貴族たち』は違った。
「ねえ、見て。あの方……」
「信じられない。あんなみすぼらしいドレスで、よく王宮の夜会に足を運べたものね」
「頭がおかしいのかしら」
私とすれ違うたび、豪華な絹のドレスを着飾った令嬢や夫人たちが、扇子で口元を隠しながらヒソヒソと嘲笑う声が耳に突き刺さった。彼らは私と絶対に目を合わせないようにしながらも、その視線の端には明らかな侮蔑と嫌悪を滲ませている。
たまたま、私のすぐ前を歩いていた貴族の集団の声が、風に乗って鮮明に聞こえてきた。
「それにしても、一体どこの家の者だ? 従者も連れず、あんなみすぼらしい布切れを纏って。どこかの平民が紛れ込んだのではないか?」
「いや……あの仮面は……」
一人の老紳士が、私の顔を覆う黒い仮面を指差して言った。
「あれは、確かモルヴァン伯爵家の仮面だ。間違いない」
「ということは、先日の国境の戦で戦死したという……」
「ああ。彼の、一人娘だろう」
その言葉が波紋のように広がり、周囲の貴族たちの刺すような視線が、一斉に私へと向けられた。
(戦死した将軍の、可哀想な……)
同情ではない。それは、見世物小屋の奇獣を観察するような、残酷な好奇心に満ちた視線だった。私は仮面の下で唇を噛み締め、俯いたまま、逃げるように大広間への扉をくぐった。




