4 欺瞞の仮面
父の死という最後の希望すらも打ち砕かれ、私の心は完全に形を失っていた。
涙を流し尽くし、泣き叫ぶ気力すらも枯れ果てた後、私に残されたのは『無』という名の虚無感だけだった。悲しみも、怒りも、絶望すらも、どこか遠い世界の出来事のように感じられる。ただ機械のように呼吸をし、命じられるままに手足を動かすだけの、肉の塊。
それが、今の私のすべてだった。
日が落ち始め、分厚い雲が僅かな月明かりを隠す夜。
私は、屋敷の中心にある大広間の、巨大な暖炉の掃除を命じられていた。
夜会のために煌々と燃やされ続けていた薪は黒い炭となり、まだ微かに赤い熱を帯びた灰が山のように積もっている。私は顔の半分を布で覆い、煤で真っ黒になりながら、小さなシャベルでその熱い灰を掻き出していた。
「本当に、見苦しい姿ね。埃と煤まみれで、まるで這い回るネズミみたいだわ」
背後から、鼓膜を突き刺すような甲高い声が響いた。
振り返るまでもない。アンジェリックとジェヴォットだった。
「ねえ、お姉様。この生き物、自分が父親の死を悲しむ資格すらないってこと、ちゃんとわかっているのかしら? あれだけお父様に放置されていたんだもの、せいぜい厄介払いできて清々したと思っているんじゃない?」
「ふふっ、違いないわ。血は繋がっていても、ただの汚物だものね」
彼女たちの吐き出す言葉は、相変わらず私の魂すら靴で踏みにじるようなものばかりだった。しかし、私の心にはさざ波一つ立たなかった。
かつてなら、母を侮辱され、父の死を嘲笑われれば、胸が張り裂けるような悲しみに身を震わせていただろう。しかし、今の私にはもはや、それに反応する感情が欠落してしまっていた。
ただ、煤に汚れた顔を伏せ、涙を堪えることすら忘れ、淡々とシャベルを動かし続ける。反応がないことが、逆に彼女たちの癇に障ったらしい。
「あらあら、耳まで聞こえなくなったのかしら?」
アンジェリックの声とともに、コツコツとヒールが近づいてくる音がした。
「……申し訳、ありません。掃除を、早く終わらせるようにと……」
抑揚のない、掠れた声で答える。
「口答えするんじゃないわよ。ほら、そこ。暖炉の奥にまだ灰が残っているじゃない。さっさと綺麗に掻き出しなさい」
アンジェリックが顎でしゃくった先には、まだ赤い火種が燻る、熱を持った灰の山があった。
「……はい」
私は逆らうことなく、身を屈めて暖炉の奥へと手を伸ばした。熱気が顔を焼き、息をするだけで喉がカラカラに乾く。シャベルの先が熱い灰に触れた、その瞬間だった。
――ジュッ。
「……なっ!?」
背中に、想像を絶する熱と激痛が走った。
「あ……ぁぁぁぁぁぁぁッ!!?」
喉が裂けるような絶叫が広間に響き渡った。
痛い痛い痛い。背中の肉が焼け焦げ、皮膚が溶けるような異常な感覚。
私は手からシャベルを取り落とし、床を転げ回った。背中を押さえようとしても、痛みが激しすぎてどこに触れればいいのかすらわからない。
薄れゆく視界の中で、アンジェリックが手に何かを持っているのが見えた。
それは、暖炉の火をかき混ぜるための、鉄製の『火かき棒』だった。その先端は、炎で真っ赤に熱せられている。
「あははははっ! ごめんなさいねえ、手が滑っちゃったわ!」
アンジェリックは、お腹を抱えて笑いながら、熱せられた火かき棒をひらひらと揺らした。
「お、お姉様、やりすぎですわ! でも……ふふっ、アハハハ! ネズミがひっくり返って痛がってるみたいで、傑作ですわね!」
ジェヴォットもまた、狂気じみた笑い声を上げている。
「あぁっ……あ……痛い……痛い……っ!」
床に這いつくばり、私は身をよじって悶え苦しんだ。
「あら? 意外と生命力が強いじゃない。まだまだ元気そうね。……あ、また手が滑りそう」
「やめ……やめて……っ!」
私の懇願など、彼女たちにとっては最高の娯楽でしかない。
ジュゥッ!!
「あぁぁぁぁぁぁ!!」
今度は、右肩だった。容赦なく押し当てられた真っ赤な鉄が、麻地ごと私の肩の肉を焼いた。焦げた肉の嫌な臭いが、広間に立ち込める。
「あはははは! いい声で鳴くじゃない!」
「今度はこっちですわ、お姉様!」
「いやぁっ! 助け……痛い、痛いぃぃっ!」
姉たちは互いに笑い合い、軽口を叩きながら、まるで的当てゲームでも楽しむかのように、火かき棒の先端を私の身体に次々と押し当ててきた。
足のふくらはぎ、手の甲、そして再び背中。
「あぁぁぁぁぁぁッ!!」
押し当てられる度に、肉が爆ぜるような音と、焦げる臭い、そして狂わんばかりの激痛が私を襲う。神経が焼き切れ、私は涙と涎を垂れ流しながら、床の上をのたうち回った。
姉たちの悪魔のような笑い声が、耳鳴りとなって脳内で反響する。
(……もう、いっそ……殺して……!)
痛みのあまり意識が飛びそうになった、その時だった。
バンッ!!!
大広間の重厚な扉が、勢いよく蹴り開けられた。
「――おやめなさい!!」
部屋の空気を一瞬で凍りつかせるような、冷徹で威圧的な声。
床で痙攣する私の目に映ったのは、ひどい剣幕で、眉間に深い皺を刻んだオルタンス夫人の姿だった。彼女は喪に服すための漆黒のドレスに身を包みながらも、その立ち振る舞いには一切の悲しみはなく、ただ冷酷な女帝の風格だけを漂わせている。
「お、お母様……!」
アンジェリックはビクッと肩を跳ねさせ、慌てて火かき棒を床に放り投げた。ガシャンと鈍い音が響く。ジェヴォットも息を呑み、二人はすぐに姿勢を正して押し黙った。
オルタンス夫人は、床に転がる火かき棒と、肉の焦げる臭い、そして全身に火傷を負って痙攣する私を一瞥した。しかし、彼女の口から出たのは、私の怪我を気遣う言葉でも、姉たちの残酷な振る舞いを咎める言葉でもなかった。
「あなたたち。今夜が何の日か、忘れたとは言わせませんよ」
低く、地を這うような夫人の声に、姉たちは顔を青ざめさせた。
「今夜は、王家主催の重要な仮面舞踏会です。……あの愚かな夫が戦死した今、我が家の財政を支える後ろ盾は消え失せたも同然。いいですか? 当家の存亡は、あなたたち二人が、今夜どれだけ有力な貴族との良い縁談をまとめられるかにかかっているのですよ」
オルタンス夫人は、鋭い眼光で姉たちを射抜いた。
「こんなくだらない遊びをしている暇があるなら、自分の顔の化粧の一つでも直しなさい。絶対に今夜、射止めるのですよ。失敗は許しません」
「……はい、お母様。申し訳ありませんでした」
「必ず、素晴らしい縁談を勝ち取ってみせますわ」
先ほどまでの狂気的な態度はどこへやら、二人の姉は恐ろしいほど真剣な表情で頷き、素直に広間を出て行こうとした。
しかし、夫人はその背中に向けて、さらに黒い命令を下した。
「それから、もう一つ。……私が会場に着く前に、貴族たちの間で噂を広めておきなさい」
姉たちが振り返る。
「父親の突然の戦死にショックを受け、娘は『頭の病気』を患ってしまったと。人前でまともに話すこともできず、奇行を繰り返す哀れな娘なのだと、涙ながらに吹聴するのです。わかったわね?」
「……ええ、お任せくださいませ。可哀想な妹を案じる、心優しい姉を完璧に演じてみせますわ」
姉たちは冷たい笑みを浮かべ、今度こそ大広間を後にした。
私は、火傷の激痛に耐えながら、その恐ろしい計画を床に這いつくばって聞いていた。
(頭の病気……?)
父の遺産、あるいは何らかの権利が私に渡るのを防ぐためだろうか。あるいは、私を一生この屋敷の奴隷として幽閉し続けるための大義名分か。どちらにせよ、私の人間としての尊厳は、今夜完全に社会から抹殺されるのだ。
「……さて」
底冷えするような声が、私を見下ろして降ってきた。
「あ……うぅ……っ」
「いつまでそうして寝転がっているつもり? あなたも、今すぐ着替えなさい」
「……え?」
私は、痛む身体を必死に動かし、信じられない思いで夫人を見上げた。
「ち、父の……喪に、服して……」
「そうよ。父親の喪であるにも関わらず、一人娘であるあなたが社交界に一切顔を出さないとなれば、陛下に対する反逆になる。それに不都合な憶測を呼ぶでしょう。だから、連れて行ってあげるのよ」
夫人は、虫ケラを見るような冷ややかな目で私を睨みつけていた。
「ただし。会場では決して仮面を外さず、一言も喋らず、大広間の隅でただの置物のように座っていること。勝手な真似をすれば、ただでは済まさないわよ」
「…………はい」
逆らうことなど、できるはずもなかった。私は枯れそうな涙を流しながら、消え入りそうな声で素直に答えるしかなかった。
────
それからの一時間は、さらなる地獄の連続だった。
夫人の命令で呼ばれたのは、彼女に絶対の忠誠を誓う、恰幅が良く高慢な年配の女性使用、アルタだった。
彼女は私の火傷など一切意に介さず、私を水場に引きずり込むと、氷のように冷たい水と硬いブラシで、私の身体や髪を力任せに洗い始めた。
「いっ……痛いっ! 痛いです、そこは火傷が……っ!」
アルタは私の悲鳴を完全に無視し、焦げて爛れた皮膚の上から容赦無くブラシを擦りつけた。血が滲み、肉がえぐれるような痛みに、私は何度も気を失いそうになった。絡まった髪も無理やり櫛を通され、頭皮がちぎれるかと思った。
乱暴な洗浄が終わると、今度は別室に連れて行かれた。
そこには、銀のトレイに乗せられた、湯気を立てるローストビーフや、バターがたっぷり塗られた白いパン、温かいスープといった『豪華な食事』が用意されていた。
「さあ、食べなさい」
アルタは冷たく言い放った。
「え……?」
「会場で、飢えた獣のように浅ましい真似をされては、当家の恥になるとの奥様からの指示です。さっさと胃に詰め込んで下さい」
毒が入っているのではないか。
一瞬そう疑ったが、もうまともな食事をしていない私の身体は、肉の匂いを嗅いだ瞬間、理性を完全に吹き飛ばした。
「あ……あぁ……っ」
私は手づかみで肉に食らいつき、パンをスープに突っ込んで貪るように食べた。火傷の痛みも忘れ、ただひたすらに胃袋を満たしていく。美味しいという感情よりも、自分が飼い犬のように餌を与えられ、それに喜んで尻尾を振っているような底知れぬ惨めさが、涙となってポロポロとこぼれ落ちた。急激に詰め込んだせいで胃が激しく痙攣したが、吐き出すことすら許されない気がして、無理やり飲み込んだ。
食事が終わると、いよいよ衣装の着付けだった。
あてがわれたのは、アンジェリックのお下がりですらない、一体いつの時代のものかわからないほど古めかしく、色あせた灰色のドレスだった。しかもサイズが全く合っておらず、私の痩せ細った身体にはブカブカで、胸元も肩も不格好にたるんでいる。
コルセットは無駄にきつく締め上げられ、火傷の傷口を布地が容赦無く摩擦した。
アクセサリーは一切なし。首元も耳も手首も、寒々しいほどに何もない。
仕上げに、目元をすっぽりと隠す、地味で無骨な黒い仮面を顔に縛り付けられた。
鏡に映る自分の姿を見て、私は絶望的な気分になった。
薄汚れ、古臭く、サイズも合わないみすぼらしいドレスを着た、生気の全くない不気味な娘。これから『頭がおかしくなった狂人』として社交界に披露されるのに、これ以上ないほど相応しい、完璧な見世物の完成だった。
「準備はできたようね」
背後から声がし、振り返ると、完璧な喪服のドレスを着飾ったオルタンス夫人が立っていた。
「来なさい」
「……はい」
火傷の激痛に顔を歪めながら、私は足を引きずるようにして夫人の後を追った。
屋敷の外には、王家の紋章が刻まれた夜会用の馬車が待っていた。姉たちはすでに出発したのだろう。私は、私を地獄へ突き落とした張本人であるオルタンス夫人と同じ馬車に押し込まれた。
馬車が動き出す。
車輪の音が、私を処刑台へと運ぶ葬送の演奏曲のように響いていた。
窓の外には、暗く冷たい夜の闇が広がっている。
この仮面舞踏会で、私がさらなる絶望の底に突き落とされることなど、火を見るより明らかだった。私は仮面の下で目を閉じ、ただ痛みに耐えながら、終わりの見えない夜へと向かって揺られ続けた。




